10-2.オラデア・カルパティエ
バイロトは柔和な老人だが、その言葉はもう一人のリールにとってほとんど強制だ。バイロトは少しだけ言葉を変えて、もう一人のリールをなだめる。
「本当はもう一人のあなたに一度お会いするべきだった」
「……同じだよ? ぼくの体がもう一つあるってだけだ」
バイロトは頷いたが、次の言葉はもう一人のリールの言葉を完全に信じたものではなかった。
「機関には『もう一人のあなた』が現れたなどとは伝えていません。知っているのはわたくしとタルタオ、そして一部のMAだけ。あなたが自分の分身と呼ぶほど意思を通じた部下を手に入れたのなら、その者にもわたくしの言葉に従わせてほしい」
「……部下じゃないよ」
「失礼しました。あなたの分身でしたね」
バイロトは少し憐れむような、労わるような目でもう一人のリールを見つめる。
「あなたは、その分身が家族と呼ぶ仲間と過ごしている安らぎの気持ちを、テレパシーで感じているだけ。あなたの気持ちは本当にそれだけで癒されますか……?」
「どうせぼく自身に自由など許されないだろう」
感情のないように聞こえるもう一人のリールの言葉に、バイロトは少しだけ目を潤ませる。
「申し訳ありません。こんな質問などするべきではありませんでした」
そう言ってからバイロトは軽く涙を拭うと、話を戻した。
「わたしはこの聖地ホールランドの法王。そしてあなたは神。本来ならばあなたの方が地位は上ですが、あなたはわたくしに主になって、行動指針を決めてほしいと仰った。なればこそ、どうかわたくしの言葉を聞き入れていただきたい」
バイロトはあくまでも優しい声色で声をかけている。
「シルダラスの麻薬調査は、本当に簡単な事前調査で構わないのです。それを元にまた機関が正式な調査を行い、対応を決めるでしょう」
もう一人のリールは少し考えるように間を置いてから、口を開く。
「一つだけ」
「はい」
「もう一人のぼくが何をしても、一つだけ見逃してほしい」
「……社会に影響の出ない事なら」
「もちろんだ」
「それではお願いできますか?」
もう一人のリールはいつもの無表情で答える。
「もちろんだよ、バイロト。ぼくは君の道具だ」
リールはこの十二歳くらいの子供達しかいない子供の島で、唯一、十八歳くらいの姿をした女の子だ。メサィア|(もう一人のリール)と同じ金色の髪と金色の目を持っている。性別こそ違うが、身長もメサィアと同じで、顔形もそっくりだ。しかし実際に見た者以外、もう一人のメサィアだと信じている者は少ない。
バイロトはメサィアの話の中でしか聞いていないリールの事を、深いテレパシーで繋がっている者と認識している。それはあながち間違いではない。リールとメサィアは記憶と感覚を共有している。だからメサィアにとってリールは文字通りもう一人の自分なのだ。
リール自身もそれを認識しているから、常に男装し、一人称も「ぼく」で通している。
シルダラスの春の道。子供の島より緯度の高いその国では、まだ通りに雪が残る。リールは男物の黒っぽいジャケットを着て通りを歩いていた。その反対側の歩道を歩いていた二十四歳のオラデアは、そのきれいな金色の髪と金色の目に一瞬目を奪われた。その時のオラデアは黒い長髪を後ろで括っていた。
オラデアは思わず立ち止まってその姿を目で追った。なぜそうしたのかは自分でも分からない。外人と分かったせいか、それとも同じようなジャケットを着ていたせいかもしれない。その金色の髪の子は男装だったが、女だろうという事もなんとなく思った。だがそれだけだ。オラデアはすぐに目を逸らし、そのまま通りを歩いていった。
リールともう一人のリールが精神世界で会っていた。リールはもう一人のリールを睨みつけている。
「なぜ、ぼくが!」
「主の願いに逆らう事などできない」
もう一人のリールは無表情で答える。
「わかってる……けど!」
リールは拳を握りしめる。もう一人のリールは頬杖をついていた手をひじ掛けに乗せ、表情を隠すように頭を垂れた。
「誰かを、助けてくれないか」
リールは辛そうな顔をして、そんなもう一人のリールを見る。
「誰かを……助けてくれ……」
無表情なリールの悲痛な叫びだった。
「わかってる。誰かを助ける事も許されないぼく」
「ぼくは救世主として作られたんだぞ」
「誰かを助けたくて作られた」
「誰かを、助けてくれ……」
オラデアが金色の髪の少女と通りの向こうですれ違った数時間後、クラブの入り口でオラデアはまたその少女を見つけた。その男装の少女は、若い青年達に絡まれているようだった。
「なんなんだよ、おまえ」
「おれ達に文句でもあるのか?」
二人の青年は背の高いその少女を女の子だと気づかず、じろじろ見ながらその前に立ち塞がっている。
「ちょっと君達、困ったな」
声まで少年のようなその少女の言葉はオラデアに聞こえた。オラデアはその少女の後ろに立ち、声をかける。
「おい、こんな所で何してるんだ、おまえ」
咥えていたタバコを左手に取り、息を吐きながら言う。
「わりーな。こいつおれの連れだわ。こいつ何かしたか?」
「オ、オラデアさん」
青年達は背が百八十二センチメートルもあって、ガタイもいいオラデアを見ると、少し怯んだようにケンカ腰だった態度を一変させる。
「いえ、ちょっと話しかけられただけで」
「すいません。おれ達もう行きますんで」
「おう、じゃーな」
青年達がそそくさと立ち去っていったのを確認すると、オラデアはその少女に声をかける事もなく、そのまま横を通り過ぎようとした。リールは慌ててオラデアを呼び止める。
「あの……!」
「?」
オラデアは背を向けたまま、目線だけをリールに送る。
「ありがとう!」
リールはとっさにそれだけ言った。オラデアは返事の代わりにタバコを持った左手を上げて、そのまま去っていった。
リールはその後、とある青年達に弄ばれていたサーシャとキーシャを助け出した。頼れる身寄りがいなかった二人を、リールは子供の島で保護する事にした。




