8-4.ダン・バハ
朝食の時間になって、ダンは自分の席に着く。ドルは黙ったままいつものようにダンの隣の席に着いた。朝どっか行ってたのか? と声はかけない。自分と顔を突き合わせるのが嫌だったんだろう。ダンは単純にそう考えていた。
アンナは相変わらず冷たい目をして、ダンを睨みつけながら配膳しに来る。居心地の悪い思いをしながらも、ダンはそれも仕方ねえと、深く考えない。逆に昨日騒いでいたローリーの方が気を使っていた。
「アンナ、もうそんなに怒らないであげて」
「だってローリー、あなた……」
「昨日は色々言っちゃったけど、やっぱりみんなが仲悪いのなんて嫌だもん。せっかくみんな一緒にいるのに、ぎすぎすしているのなんて嫌だよ」
ローリーらしい言葉だ。そう言われてアンナは反論できない。
「でもあれは捨ててよ!?」
ローリーはダンの方へ振り返り、それだけ強い語調で言う。
「ハ、ハイ」
ダンは気圧されて返事する。ドルが「謝っときなよ」と肘でダンに合図した。ダンはそれで思い当たって、ローリーが席に戻ろうとする前に呼び止める。
「あ、ローリー。なんか嫌な思いさせちまったみたいで、悪かった」
「ん、いいよ」
ローリーはにこっと笑い返してくれた。ローリーとの仲はこじれずに済んだようだ。しかしアンナは面白くもなさそうに、ぶすっとした顔で席に戻る。
(アンナは、ダメだよなあ)
鈍感なダンですら、それはよく分かっていた。
リールと一緒に故郷の国から逃げてきたアンナは、聖地ホールランドにあるメサィアの宮殿、洞泉宮に連れてこられていた。まだ子供の島の計画が始まる何カ月も前なので、アンナは子供の姿になっていない。ただだだっ広いだけの謁見の間で、一人取り残されていた。
(リールはどこ!?)
そこに現れたのは、リールではなく柔和な面持ちの老人だった。老人は警護の間を通り、ゆっくりとアンナに近寄った。
「はじめまして、アンナ・プルナさん。わたくしはこの聖地ホールランドの法王、バイロト・アンダマンと申します」
アンナは驚いてたじろぐ。
「え……? 法王、陛下……? え……?」
アンナは事態が全く飲み込めないという風だった。
「ここはメサィアをお祭りする御所、洞泉宮殿。あの方の思し召しにより、一時的にではありますが、あなたをこちらにお迎えする事となりました。どうぞしばらくごゆっくりとお寛ぎください」
バイロトがそう言うと、リールがどこかわからないまま、アンナは警護の者に案内されていった。
それからバイロトはメサィアと呼ばれるもう一人のリールと謁見した。もう一人のリールはいつものように椅子に座り、肘立てに肘をついている。
「メサィア。もう一人のあなたが現れたという話は聞いていました。もう一人のあなたはあなたと意思を同じくする者と仰っていましたね?」
「うん、ぼくとあいつはテレパシーで繋がっている。同じ人間と言ってもいい」
もう一人のリールの表情は無感情だ。
「なるほど。ならばあなたにお伝えしておかなければならない。もう誰かを連れてきてはいけません。たった一人の避難民を特別扱いし、この宮殿に滞在させる事は、わたし達のする事ではありません。できるだけ多くの生命を、できるだけ多くの人の尊厳を守るためには、多くの国、多くの団体がそれぞれの考えで動かなければならない。わたし達がしていいのは、そのために祈る事。聖地として声明を出す事もありますが、それは様々な情報を元に、機関が決めます」
バイロトは柔和な、だが厳しい表情で話していた。
「酷な言い方かもしれませんが、あなたが直接誰かを救う事はしてはならない。それは世界のバランスを変え、新たな苦しみを生み出す事になりかねない。それを理解していただきたい」
「……理解も何も、ぼくは君の考えに従うだけだよ、バイロト。ぼくは君の道具だからね」
もう一人のリールは表情を動かさずに答えた。一方、性別が女の方のリールは与えられた個室で頭を垂れるようにして座っていた。
「ぼくは何のために生まれた。誰かを救うためじゃなかったか。誰も救えず、誰かを苦しめ続けるだけなのか」
バイロトの言葉はもう一人のリールを通じて、リールにも届いていた。だがそれはリールには辛い言葉だった。リールはすぐ隣に護衛についている警護の者にだけ聞こえる声で話す。
「なあ、ヤマシタ……助けてくれ……」
そして子供の島の計画が始まる。精神世界の真っ暗闇の中、リールともう一人のリールが対峙して座っている。
「子供の島、か」
頬杖をついたリールが呟くように言う。
「主に許可を」
リールは悲痛な表情でもう一人のリールに言う。
「主に嘘はつけない」
「ごまかす事はできる……! 一年、いや、二年。ぼくに自由を!」
「失敗したら?」
「元に戻るだけ……だ」
「失敗してほしくないね」
「失敗したくない。悪魔……というものになるよ……」
リールはその瞳に鈍い光を湛えながらも、表情を暗くしてうつむいた。
軍隊に所属していた頃のダンの、その日は非番の日だった。お世辞にもきれいとは言えない故郷の町中の通りを、ダンは歩いていた。不安定なこの国では、歩きながらタバコを吸っていても誰にも何も言われない。
ダンは深く息を吸い込む。そして気づいた。前に立っている少年のような人影に。
「おまえは……だってあの時……」
言葉が出なかった。ほんの二週間ほど前だ。その金色の髪の子供が教会の中で息をせず、横たわっていたのを見たのは。その子供はどこか寂しげに笑った。
「ハハ……ぼくは化け物だからね」
ダンはこの奇跡のような出会いの意味を考えるのをすぐやめた。どんな不思議な事が起こってその子供が生き返ったのか、考えても分かるはずがない。ただダンはその子供の寂しそうな顔を見て、心に思った事だけをする。
ダンはリールに近づいて、タバコを吸っていない方の手で頭をわしゃわしゃと撫ぜた。
「何言ってる。生きててよかった」
ダンはそれだけ言うと、そのままリールとすれ違い歩き去っていった。
その後ろでリールは崩れ落ちるように膝をつき、自分の体を抱いた。
「お父さん……」
リールは頭を撫ぜられた事で、ほとんど記憶のない懐かしい「お父さん」の事を思い出しかけた。