21-1.夢の代償
時は七月まで遡る。子供の島では夕食前の時間になり、カイナルは食堂に来ていた。いつものように入り口近くのテーブル席に座る。普段はスケッチブックを持っている事が多いのだが、今日は持っていない。ただイラついているように頭を掻き、その頭からはフケが落ちる。
それを見て、斜め向かいに座っているタルタオが不快そうに顔をしかめた。
「カイナル、あなた、そうあからさまに不機嫌そうにするのやめてもらえます? こちらまで気分が悪くなりますよ」
「なんだよ、関係ないだろ」
「関係なくないでしょ。あなた、わたしの前にいるんですから」
カイナルはまた苛立たしげに頭を掻いたが、言い返す気力もないのか、手をテーブルの上に投げ出してうつぶせになる。
「何かあるのなら聞きますよ?」
「……別に」
カイナルはそう言ったが、タルタオがずっと見つめているので、けだるそうに体を上げて話し出す。
「ここに来る前は、自分のやりたい事以外に自分の時間を使うなんて、嫌で嫌でしようがなかった。ここに来て、ひたすら絵を描く事に時間が使えるなんてラッキーだと思ってたけど……」
カイナルはまたずるずると頭を落としていく。
「最近何を描いてもうまくいかない。一日一本の線も満足に描けずに終わる事もある。なんかもう……ダメかも」
「羨ましい悩みですね」
「何が?」
思わずタルタオに視線を向けるが、タルタオはバカにしているわけでも皮肉を言っているつもりでもなさそうに見える。ただ重ねた手をテーブルに置いて静かに語る。
「わたしにはやりたい事なんてありませんから。と言うより、わたしの将来は既に決められていて、自分のやりたい事なんて考えられない」
タルタオはメサィアの能力の一つ、共感という力を持っている。それゆえに二十一歳という若さで、リアル教の中では司教クラスに近い役職を与えられている。もちろん能力を持つがゆえに、その地位から退く事もできない。常にメサィアに祈りを捧げ、信者と対話する事がタルタオの仕事だ。
タルタオはその仕事に不満を持っている訳ではない。むしろ敬愛するメサィアの事を考える仕事を与えられている事は、タルタオにとって幸運な事だ。メサィアだってその地位に不満を持っている訳ではないだろう。
ただ、とタルタオは考えた。レイリール……リールは少し違うように思える。自分の力で何かを成し遂げたいと強く望んでいる。まるでがむしゃらに夢を語る子供のように。
(なんて儚い夢なんでしょうね)
リールも本来ならメサィアと同じ地位につき、メサィアと同じ役割を果たすはずだ。そのためにこの島での生活を終えたら、みんなの前から消えるつもりだと、タルタオは聞いている。
「それはお気の毒様」
タルタオが少し考えに耽っていた間に、カイナルの声が聞こえる。それはさっき自分のやりたい事なんて考えられないと言ったタルタオの言葉に答えたものだ。
「どういたしまして」
カイナルの言葉は嫌味とも社交辞令とも取れる言い方だったが、別に嫌な気にはならない。ただいつも信者を諭すような調子で言葉を紡ぐ。
「とりあえず風呂ぐらい入られたらどうですか。あなたのやりたい事は、あなたの生活の上に成り立っている事をお忘れなく」
「そう言えば、三日ぐらい入ってないかも……」
この夏場に、とタルタオはまた眉をひそめそうになったが、少しため息をつくだけにとどめておいた。
カイナルの隣の席にブラックが来て座る。
「ブラックはもう風呂に入ったの」
「? おれは食事前に入ってる」
「そうだよね……」
カイナルはようやく観念したように、「風呂入ろ……」と小さく呟いていた。
カイナルは子供の島に来る前のローリーと会った頃を思い出した。その時はまだ絵だけで食べていく事ができなくて、缶詰の工場で働いていた。仕事に行こうとしたカイナルにローリーはこう言っていた。
「カイナル、ちゃんと仕事もしてるんだ。すごいな……」
「したくてしてるんじゃないよ。絵を描くのだってただじゃないんだ。稼がなきゃしようもない」
カイナルはつっけんどんに答えたが、ローリーはそんなカイナルを眩しそうに見る。
「うん……だからすごいなって」
「何が?」
「自分のやりたい事のために、ちゃんとお仕事もしてるんでしょ……? すごいよ。わたしには何もない、何もしていない。それなのにわがままばっかり言ってる。勝手なわがままに人を巻き込んでる……」
カイナルは一瞬、何かを思い出しかけた。ローリーを真っ直ぐ見る事ができず、顔を背け、わざと大きな声で言う。
「いーじゃない。自分のやりたい事って、わがままなもんでしょ。それに何かをしたいと望めば、しなきゃいけない事は必ず出てくる。それから頑張ればいいじゃない」
ローリーはその答えを聞いて微笑んだ。
「フフ、カイナル、本当は優しいんだね」
「本当はって何さ」
そんな会話を思い出す。そしてカイナルはその時思い出しかけた事を思い出していた。
実家の自分の部屋の中、半裸の女性が床に座り込んでいた。カイナル自身半裸で、その女性に手を上げた所だった。女性は頬を押さえ、涙目でカイナルを見上げている。
「なんでいつもそんなにわがままばっかりなの……!? ちょっとはわたしの事も考えてよ!」
「うるさいな。ぼくの事に口出しするな!」
カイナルはまた手を高く上げていた。
食堂の中でカイナルは顔をしかめた。
「カイナル、どうした?」
ブラックがカイナルに声をかけるが、カイナルは目を閉じたまま答える。
「何も……ちょっとやな事思い出しただけ」
食事が終わった後、カイナルは共同風呂へ行き、久しぶりの風呂を浴びた。べたついていた髪を二度洗って、ようやくすっきりした。でも気分はさっぱりしない。着替えを持っていない方の自分の右手をじっと見つめる。
(何もない。ぼくには何もない。空っぽなだけだ。描くものは虚ろで、だから売れない)
夢を追いかけるのはカイナルにとって難しくはない。でもその代償を彼女に払わせ続けていた。
カイナルは頭を振る。
(誰でもない、頑張らなければいけないのはぼくだ。ぼくが変わらなくちゃいけないんだ)
しばらく考え込んでいたカイナルは、翌日になってリールの家に行った。




