19-2.レイリールとアラド
アラドは勇気を出してリールに近づき、その前の椅子に座った。
「こ、こんにちは」
「こんにちは」
緊張して睨むような顔になっているアラドに、リールは表情を変えず挨拶を返す。
「おれは……アラド・レイです」
「ぼくはレイリール・ゲルゼンキルヘン。リールと呼ばれているよ」
リールは返事した後、また本に目を落とす。アラドは何か言いたそうに唇を動かすが、言葉は出てこない。
「会話が続きませんね」
リールとアラドの様子を窓の向こうから眺めているラウスが言うと、ベレチネは手持ちの資料を見る。
「アラド・レイ。資料によると中学の頃からまともに学校に行っていないらしい。話す言葉を持ち合わせていないんだろうさ」
そしてその内に終了の時間になった。ベレチネは放送用のマイクを握る。
「時間終了です。各自気をつけてお帰りください」
その放送を聞いてアラドは立ち上がる。リールは本を見たまま、ぼそっと言った。
「また来なよ」
アラドはそれを聞いて疑問が湧く。
(こいつは帰らないのか?)
アラドが部屋を出ていく間も、リールはそのまま残っていた。
そしてその次のセラピーになって、アラドはリールが他の人よりも先に部屋にいるのに気づく。
(こいつはずっとここにいるのか?)
その日は前日にノーラに折檻された後だった。誰にも話しかけられたくなかったアラドは、喋らないリールの前に座った。誰とも話したくないのにセラピーに参加している理由は、ノーラと二人きりの生活に息詰まりもしているからだった。
「こんにちは……」
「こんにちは」
とりあえず挨拶だけはする。そのまま時間を潰そうと考えていたアラドに、リールは目を向ける。リールはテーブルを回って、アラドに近づいた。そしてアラドの肩より長く伸びている髪の毛を避けて、首元へ手を当てる。
「何して……」
アラドは不愉快に感じて眉をひそめた瞬間、ドクンっと心臓が強く波打ったように感じた。
「君はよく傷ついてくるな」
アラドは服をめくって傷のあったはずの場所を見る。傷はもう分からないくらいに薄くなっていた。
「何をしたんだ……?」
「傷が早く治るようにおまじない。よく効くだろ?」
リールはにこっと笑う。アラドは体が熱くなり、頬が赤くなるのを感じた。傷に気づかれた事に恥ずかしさを覚え、そしてそれを癒してもらえた事に涙が出そうな感情を覚えた。
二人の様子を見ていたベレチネは驚く。
「リールが笑った……!」
「そういえば彼女、今はあまり笑いませんね。ぼくの時はよく笑ってたのに」
ラウスは高校生だった十年前にセラピーに参加して、リールと話していた時を思い出す。最初の頃はほとんど笑わなかったリールだったが、その内にラウスの顔を見るだけで、にこにこと笑うようになっていた。
「おまえは特別だった。リールがあんなにも心を開いていたのはおまえだけだ」
「そうなんですか?」
「おまえが来なくなってからというもの、リールの機嫌は日増しに悪くなっていた。だからおまえをここの研究員として呼び寄せたのだ」
「んー、今のぼくにはあまり心を開いてくれませんけどね」
友人としてではなく、研究員という立場で接する事になった今では、リールはいつもつまらなさそうな顔をする。それでもたまにジョークを交えてリールの笑顔を誘ったりはするのだが、昔のように他愛もない話で盛り上がるという事はほとんどなくなってしまった。
ベレチネはそれでもマシになったさと答えた。
それからそのセラピーが終わった後、ベレチネはアラドを呼び止めた。
「アラド・レイくん、申し訳ないが少し残ってもらえませんか。あなたと少し話がしたい」
「いいですけど……」
他の子達が全員退室した後、ベレチネは相変わらず本に目を落としているリールの側へアラドを連れていった。
「リール、彼の事をどう思う?」
「どうって?」
「このまま彼をセラピーに参加させるか?」
「それはベレチネ達が決める事でしょ」
リールは淡々と答える。ベレチネはアラドに向き直った。
「アラド・レイ。あなたはなぜこのセラピーに参加しているのですか?」
「なぜって……ママに言われたからだけど」
「あなたはこのままセラピーを続けてもいいと思っていますか?」
「それはまあ……嫌な理由もないし……」
アラドとベレチネが話している間に、リールはくっくっと笑い出した。
「なあ、ベレチネ。いい事思いついた。アラド、君、ぼくと外に出ないか?」
アラドは何言ってるんだと言いたそうな顔をする。その横でベレチネは眉間にしわを寄せた。
「バカな、おまえが外に出るなど」
「ぼくはもうずっと閉じ込められる生活にうんざりしてるんだ」
「閉じ込められる……?」
アラドはリールがいつもセラピーに最初からいる事を思い出す。
「そうさ、ぼくはずっとここにいるんだ。君だって似たようなものだろう?」
「おれ、は……」
アラドは言い迷う。学校にも行かず、友達もおらず、ノーラと二人きりで生きている生活は、確かに閉じ込められているようなものかもしれない。
ベレチネは背が低いながらも、座っているリールを精一杯見下ろそうとする。
「リール、いや、レイリール。この少年の気持ちに共感したのか?」
リールは改めて足を組み直し、にやっと笑う。ベレチネはそんなリールを睨みながら言う。
「アラド、気をつけなさい。この娘を愛するな。この娘にはまやかしの愛を錯覚させる力がある」
アラドはそれを聞いてむっとする。
「おれは女が嫌いなんだ。誰がこんな女なんか愛するか……!」
リールはそれを聞いて笑った。
「ハハハ、だからいいんだよ。君みたいな子なら、ぼくに本当の気持ちで接してくれると思ったんだ」
ベレチネはそこで気づいた。リールの共感能力というものは、人にリール自身を愛していると錯覚させる力だ。それゆえにリールは人の愛情を信じられないでいるのかもしれない。良くも悪くも、疑うというほどひねた感情の持ち主でない事は、長年リールに接してきたベレチネには分かっている。ただやはり寂しいのだろう。まやかしかもしれない感情を向けられる事は。
ベレチネは今さらに垣間見たリールの本心に憐れみを浮かべそうになったが、それすらまやかしの愛かもしれないと自身に首を振った。




