59. 美晴と一緒
(美晴と一緒)
東京に戻って、また彼氏もバイトもお金もない生活が始まった。
「美晴、お金なくなっちゃった……」
私は哀れな声で電話した。
「何やってんのかねー、あたりまえでしょう。バイトもしないで絵ばっかり描いていれば、タダじゃ絵は描けないのよ!」
「分かっているわよ。それで相談なんだけど一緒に住まない?」
私は家賃を浮かせるため、美晴のアパートにころがり込むことにした。
美晴のアパートは、と言うよりも、もう立派なマンションだが、大学から電車を使うほど、少し離れているが、大きな部屋、四っつとキッチンとダイニング、バス、トイレが付いている。
このまま結婚しても住めそうだ。
美晴は大きなダブルベッドをダイニングの真ん中に据えて、ベッド中心にその他の家具が置かれていた。
もともとここは美晴の母親の弟が住んでいた。
でも去年の春、海外派遣になって、三年は帰ってこないと言う。
それで美晴が留守番代りに住むことにしたのだった。
だから家賃は払ってない。
「いいわよ。だから前に言ったでしょう。家賃いらないから、うちにおいでよって……」
そう、あの時はまだ彼氏もいたし、バイトもしていた。お母さんも生きていた。
東京に出てきて、初めての一人暮らし……
生まれて初めて自由のお城を手に入れたのだった。
そこで知ったのは、意外と一人は寂しくないということだ。
毎日、裸になって部屋を走り回り、裸になって寝た。
それでも、誰も文句はいわない。
好きな音楽を聴いて、好きなビデオを見て、それで寝っ転がって、ポテチを食べる。
これに勝る幸せはないと思った。
きっと人生で一番大切なことは、束縛されないこと……
この自由さえあれば一人暮らしでも幸せなんだ。
だから、あの時は、美晴と暮らすことが重苦しいと思っていた。
でも、今は自由よりも、ご飯だ。
そして、天気の良い日曜日……
引越しの荷物は、思ったよりも少なかった。
家具はもともとアパートに付いていたものなので持ってはいけない。
結局、私の物はというと、着るものと、絵の道具と炊事道具ぐらいなのだ。
でも、その中に母が買ってくれた、高価な高性能の赤いスチームオーブンレンジがあった。
これさえあれば、お菓子でもパンでも、蒸し物でも、これ一台でできる。
そのうえ、この三機能を複合的に使って、より美味しく、より素早く調理することができる。
いわゆるスチコン(スチームコンベンションオーブン)というやつだ。
「幸子なら、使いこなせるから高くても買っておきなさい」と、言ってくれた母の言葉が嬉しかった。
美晴の仕事場は、ダイニングとリビング兼用の部屋の隣。二間の洋風な襖で仕切られていた。
その奥にもう一つ部屋があるが、そこは前住んでいた伯父の家財道具が押し込められていた。
仕事場と言っても何もない。背の高い観葉植物の植木鉢が三つと机が二つ。その机にはパソコンのモニターが三枚並んでいた。
後は何もない。よく見ると部屋の隅に、イーゼルと絵具などを入れるキャビネットと、何枚かのキャンバスが重ねて置かれていた。
「美晴、絵描いているの?」
「もちろん描いているわよ。でも今はミニコミ誌の締め切りが近いから、そっちの方が大事なの。幸子の原稿料から、下宿代引いておくわー」
「下宿代取るの?」
「嘘よ。それより部屋どうする? 物置になっている部屋があるから、片付けて幸子の部屋にするか?」
「いらないわ。美晴と一緒でいいよ。この仕事部屋広いし、ここに置かせてもらって、一緒に製作しましょう」
「寝るところはどうするんだ?」
「もちろん、美晴と一緒でいいわ。ダブルベットだし。ベッド買うのも、もったいないから」
美晴は嬉しそうに、私の背中にしがみ付いた。
「そうかそうか、やっと幸子もその気になったか!」
「いいわよ。愛し合って寝ましょう。このさいお金が掛らなかったら何でもするわ」と、言いながら、美晴を振り切ってキッチンに逃げた。
でも、この言い回し、お金のためなら何でもする、と同意語だ。なんか私、みじめな感じ。
でも、美晴と一緒に寝ると、子供を抱いて寝ている気分になる。
温かいし背が低いので、それがまた、やっぱり子供のように可愛い。
本当の気持ちを言うと、美晴は大好きだ。どの男よりも好きかもしれない。
でも、それが癖になって、ちゃんとした恋愛ができなくなるのが怖い。
だからいつも美晴を拒絶している。
でも、たまには一緒に裸で愛し合って寝ましょう。
一通り荷物が入ったところでお昼……
「幸子、引越しそばでも食べに行こうか?」
「食べに行かなくても、私、何か作ってあげるわよ!」
さっそく冷蔵庫を開けると、何もない。
目立つものは、ペットボトルの水と牛乳と卵。それに食パン、ハム、ヨーグルト。野菜室には、ネギ、もやし、えのきだけ、ほうれん草。
「美晴、自炊しているの?」
「失礼ねー、ちゃんとしてるわよ。まな板だって、包丁だってあるぞ。ミーハーな女子大生と一緒にしないでよねー」
「本当、他には何があるのよ?」
「ちゃんと、ご飯もあるぞ!」
美晴は、キッチンまできて炊飯ジャーを開けて見せてくれた。
「他には……?」
「カレーだって、シチューだってあるぞ!」
「もしかして、レトルト物……?」
「レトルトも最近の物は作るよりも美味しいんだよ。だけど、カップラーメンなんかは買わないぞ。さすがに体が悪くなりそうだ。もちろん、生ラーメンだ。それにもやしや、ネギなんか入れて食べるんだ……」
「何か、どっかで聞いたような。昇さんと同じことを言っているのね。他には何を……?」
「他には、おにぎりなんか得意だぞ。旅館で散々握らされたからな!」
「それだけ……?」
「それだけって、人を料理もできない、ミーハーな女子大生だと思っているでしょう」
「そうじゃないの?」
「あのね、私は旅館の娘よー、私が作らなくても、まかないさんはたくさんいるのよ……」
「だから……?」
「だから、その、私がやらなくてもいいのよ……」
「そうなのー、できないの、嬉しいー、初めて美晴に勝てるものが見つかったわー」
「ちょっと、人を馬鹿にしてー」
「いいのよ、いいのよ、美晴の分くらい私が作ってあげるから。でも嬉しいな。美晴、料理できないのー」
「ちょっと、私だって少しくらいできるわよ。ラーメンだって作れるぞ!」
「じゃ、ブロッコリーとカリフラワーの違いわかる?」
これは、私がまだ小学生のとき、お母さんと買い物に行って、白いブロッコリーがあるよって言って、思いっきり笑われたことだった。
あの時はお母さん、まだ若かったな。
「何それ、美味しいの?」
「いいのよ、いいのよ。カリフラワーを知らなくても生きていけるから……」
「幸子、私を絶対馬鹿にしているでしょう」
「じゃあ、さっそく買い出しに出かけましょう。今日は、美味しい肉じゃがでもしましょう。肉じゃがと言ってもね。牛肉を使わないのよ。豚肉で、ちゃんと下後しらえすると美味しくできるのよ。それにライ麦パンも焼いてあげるからー」
美晴との生活は楽しい。
バイトのない私は、学校が終わると真っ先に帰り、二人分の食事を作ってから絵を描く。
それで、美晴が帰ってきてから一緒に食べる。
まるで、新妻が旦那の帰りを待っている感じだ。
美晴は先に食べていいって言うけど、片付けの二度手間をしたくなかった。
それに空いた時間は絵が描ける。
美晴は、遅い夕食を食べるとさっさと寝てしまう。
そして、私が寝ようとする午前四時ごろ起きだして、作業を始めるという超早朝型だ。
お休みのときも、必ず午後九時にはベッドに入って寝てしまう。
これでは、愛し合う暇がないじゃないのよ、といいながら時々美晴を縫いぐるみ代りに抱いて寝ている。
一人暮らしのときは、その解放感に、この上もない喜びを感じていた。
今は二人でいるときの充実感と安心感に幸せを感じている。
充実感というのは、私が作る料理を美味しい美味しいと言って食べてくれることだ。
どちらが本当の幸せなのか?
いえ、たぶんどちらも本当の幸せに違いない。
私はどちらを選ぶのだろうかと考えれば、これは難しい問題だ。
和食がいいのか、洋食がいいのか、その選択によく似ている。
結婚して専業主婦になれば、こんな感じかなって思ってしまう。
*
結婚か、……
昇さん、どうしているのかな?
山でもまた、登っているのかな?
彼女いるのかな?
お伽の国のウサギさんっていった私の言葉に……
すぐに『不思議の国のアリス』を思い出した人。
想像することを知っている人。
やっぱり彼のことが好きなのかな?
*