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51. 冷めたコーヒーと恋の行方

(冷めたコーヒーと恋の行方) 

 

 病院の中の喫茶コーナーには、いつの間にか私たちだけになっていた。

 そろそろ閉店なのかもしれない。病院の中だけあって、診察時間が終われば、店も閉まる。 


 私は、冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。

「それで、結婚を決めたんですか?」

「いえ、まだまだ……、でも、私の心の中に彼が住み始めて、お話しするようになっている自分に気付かされたかなー」

 私は、昨日の昇さんとの山行を思い出していた。

「何か分かるような気がします……、きっと一つの目標を二人で目指し成し遂げるから、より強いきずなで結ばれるんですね……」

「そう、そうなのよー、山では、本当に運命を一緒にしているっていう感じなの。とても下界では、絶対に味わえない彼との一体感なの……、いってしまえば、心がつながる感じかな……」

「あ母さん、それってパニック・ラブって言うんですよ!」

「面白い言い方をするわねー」

「昨日、山岳部の人たちに、さんざん冷やかされたので……」

「そうかもしれないわねー、平和な下界の日常生活では、相手の姿よりも、自分のことしか考えていないじゃない。例え裸で抱き合っていても、心は別のことを考えていたり、でも、山では一歩間違えれば死と隣り合わせよー、否応なしに彼を見ているしかないじゃない……、だからよけいに彼への思いが強くなるのかもしれないわねー」

「それって、いいことなんですか?」

「私は、大切なことだと思うわー、下界にはあまりにも便利さと物が溢れ返っているわ……、情報の渦で自分自身が見えなくなっている。その中で本当の自分の気持ちとか、正しい価値観とか、みんなきっと見えていないと思うのよ……」

 昨日、昇さんの言っていたことを、お母さんは言っている。

 やっぱり原点はこのお母さんなんだ。

 それに、話し方が昇さんとそっくりだ。

 昇さんは、きっとお父さんよりも、お母さん子なんだ。

 私と同じだ……

「山には、それがあるんですか?」

「あるというよりも、文明から離れて、山の自然に触れて、本来の人間としての心を取り戻すことじゃないかしら……、文明と言う服を脱ぎ捨てた飾らない裸の自分ねー、テレビや雑誌や噂話に影響されない自分自身の心……、山にいると裸の自分になれるのよー、そんな感じしなかったー、昇といて……?」

 私は、思いっきり首を横に振った。

「だから、何もなかったので……」

「いえ、そうじゃなくって、人間を超えて動物になる感じ……、それとも、本来の自分になれる感じ、戻るっていってもいいかもしれないわ。そうなれる感じが嬉しいのよー」

「街にいては、そうなれないんですかね?」

 息詰まる話に、私はふっと息を吐いて、もう一度冷めてしまったコーヒーカップを口に運んだ。

「どうかな? かなり難しいと思うわー、世間を見ていると、学校の子供たちを見ていても、そう思うもの……」

「でも、文化が人を人間らしく、幸せに導いてくれるものだと信じていました。私は……」

 私は、コーヒーカップを置いて、背筋を少し伸ばして、昇さんのお母さんの顔を見た。

「もちろん、文化文明も大切よー、そこに正しい価値が伴えばねー、子供たちが、学校の成績に一喜一憂したり、いじめや自殺や引きこもり、みんな偏った文化のなれの果ていう感じに見えてしまうの……、もっと、広く世界を見なさいよー、成績よりも大事なことがあるでしょうー、死ぬ気になれば何でもできるでしょうー、引きこもっていないで、あなたのやりたいことをやればいいのよー、何がやりたいの? どうしたいの? でも、本人から、当事者から見れば、世間も文明も闇の中のように見えるのね。いえ、闇というよりも、あまりにも選択肢が多すぎて、どれを選んでいいのかわからないのね。そして、何を信じていいのかわからないから、きっと短絡的になって無茶な行動をするのね。だから、無茶な行動をする前に山に来なさいよっていいたいわ。山に来て裸の自分を見つめなさいってね……、子供たちだけじゃなくても、私なんかでも、特に教師としての立場があるじゃない……、人の目も気になるし、裸の自分には、なかなかなれないもの……、どこかやっぱり、自分ではない自分を演じているって感じかなー、でも、もし裸で街を歩けたら、同じ気持ちになれるかもしれないけど……」

「お、お母さん、それはなれますけど、もうその時点で人間を超えてしまっていますよ!」

「そうねー」と二人顔を見合わせて笑った。


「でもお母さん、私、わかるような気がします。そういうの……、昨日涸沢で、真っ白に広がる雪渓を歩いたんです。そして雪渓の向こうには、黒々とした尖った山々が突っ立っていました。私、思わずおーいー、て呼び掛けてしまいました。大きな声で、街にいては絶対にやりませんよね。それで、少し気持ちがよかったです……、ただ大きな声を出したからではなく、何か心が洗われた感じ……」

「そう、きっとそれも内なる自然の力ね。大きな自然に触れて、今まで眠っていた、昔ながらのというより、原始の心が叫んだのよ。今度行ったら裸で涸沢を歩いてみなさい。もっと気持ちがいいから……」

「もう、お母さん……、涸沢で裸になったら寒くて歩けませんよー」

 二人また顔を合わせて笑った。


「そういえば、裸で思い出したんですけど、昇さんが高校一年のとき、遭難しかけて、家族で入った露天風呂が忘れられないっていってました……、恥ずかしかったけど嬉しかったって……」

「もう、本当にドジな子でしょうー、遭難ばかりしているのよー、親は、そのたびに首を絞められたような息も着けない思いをするのよ……、今日の朝だって、崖から落ちたって訊いて、もう今度こそ駄目だって、覚悟を決めて次の言葉を待っていたのよー、でも無事で病院に運ばれるって聞いて涙が出たもの……」

「お気持ちお察しします……、でもあの時、昇さんは僕のことを忘れられていたって言ってましたよ……」


「あの時ねー、親なんて、どんな時でも子供のことを一秒たりとも忘れることなんてないわよー、いつも心の中に一緒にいるのよ。たとえ離れていてもねー、心の中の昇といつもお話しているわ……、だから、二年も離れていて、顔も見ていないけれど、今日、昇と会ってみて懐かしい感じはしなかったわ。毎日、家にいた時と変わらない気持ちで逢えたのよ。可笑しいでしょう……」

「でも、え? 昇さんは……」

 お母さんの悪戯っ子のような笑みが可愛いと思った。

「あれは、演技なのよ……、もちろん一泊で白馬に行ったのは知っていたし、栂池から帰ってくることも知っていたから、今か今かとお風呂を沸かして、帰ってくるのを待っていたのよ。取りあえず、山から下りたら電話しなさいって言っていたから……、前の日は、ちゃんと白馬山荘から電話してくれたし、言ったことは取り敢えず守る子だったから、それができないということは遭難しかないじゃない……、それで、ロープウェイの最終時間になってもかかってこないし、心配したのよ……」


 さっきの笑顔が消え、今は、せつなそうに私に訴えかける。

 表情豊かなお母さんで楽しい。

「もし最終に乗って電車で帰ってくるとしたら、午後八時には着くから、もし八時までに電話がなかったら、警察に連絡しようって、旦那と決めていたわ……、その時に旦那が言ったの、もし帰ってきたら、知らん顔をして息子のことなど忘れていたようにしようって……」

「どうしてなんですか?」

 両親の複雑な心境が垣間見えた。

「大騒ぎしないで、普段道理に迎える方が昇のためだって、いずれ親から離れて一人で生きていくのだから、外に出れば何があっても自己責任だから、親の出る幕はないですって、少しは大目に見て、夏休みのいい思い出を作ってやろうとまで言ったのよ……、でも、八時になっても昇からの電話はなかったわ。もう三〇分、待つって言うのよ……、何かの関係で遅れることもあるから、でも八時半になっても連絡はなかった……、もう駄目だと思ったわ。崖から落ちて死んでいるって思ったのよ。その時だった、電話が鳴って、昇の声がしたのよ……、きっと私泣いていたと思うわー、泣き声を隠すために、わざと明るく言ったのよ、御飯だから早く帰ってきなさいって、御飯だなんて、普通ならとっくに食べ終わっている時間よねー、旦那も嬉しかったんじゃないかなー、今から蓮華温泉に泊まりに行くぞ、ですって、夏休みでも明日は学校があるのに……」

「そうなんですね……、そうですよねー」


    *

 子供のことを心配しない親なんていない。

 私のお母さんも、きっと同じ気持ちなんだ。

 でも、私も同じよ。私も一秒たりともお母さんのことを忘れたことないわ。

 私もいつも心の中でお話しているもの……

    *



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