40. 崖の途中で
(崖の途中で)
僕が、それを初めて知ったのは小学校四年生の時……
何度目かの穂高で、この時初めて北穂から奥穂高に縦走したんだ。
今でもよく覚えているよ。
本当にはっきりと……
場所もこの近くの北穂の滝谷といわれるキレット、つまり崖だ。
下は、落差二〇〇メートルはある垂直の岩場。
でも、鎖が付いていてそれを使って真横に移動して越えるんだ。
いわゆる鎖場、僕は怖くて鎖を握ったまま進めなかった。
何とか足を出して進もうとするんだけど、足が震えて力が入らないんだ。
だからよけいに怖くなってどうしようもなくなった。
しばらく鎖にしがみ付いて止まっていると、父親が、持ってきたザイルを使って僕の横に来てくれたんだ。
それで、父親が訊くんだ。
「怖いか……?」
「体が震えて動けないよ……」
僕は多分、泣いていたと思うよ。
それで、もっとすごいことを言うんだ。
「下を見てみろよー、凄いだろう、絶壁だ!」
それで見てみると、真っ逆さまに吸い込まれそうな崖だと分かる。
体がぎゅっと縮みあがるのが分かったよ。
それで言うんだ。
「落ちたら一巻の終わりだな……」って、……
僕もそう思った。
さらに父親は言うんだ。
「でも、ビルから飛び降りて自殺する奴って勇気あるよな、こんなとこから飛び降りるんだから」
僕もそう思った。
「お前、飛び降りられるか?」って、訊くんだ。
「できない、絶対にできない……」
「まだ死にたくないもんなー、でも死ぬ気になったら何でもできるって言うだろう。だから死にたいと思う奴は、何でもできる。ビルから飛び降りることも、この崖から飛び降りることも、死ぬ気でいるから怖くないんだ。だから飛べる……、お前も死ぬ気で飛んでみろ!」
何て、ひどい親だと思ったよ。
でも、死ぬ気で、と思って下を見たよ。
「でも、やっぱりできないよ!」
時間がたてばたつほど怖さが増してくる感じだった。
でも、父親は、こう言ったんだ。
「お前、今まで生きてきて死にたいと思ったことはないのか?」って訊くから、死にたいと思ったことを考えた。
でも、この崖を飛び降りられるほどの出来事は見つけられなかった。
でも、一生懸命考えて、学校で一番仲の良かった友達と喧嘩したこと、クラスのみんなの前で先生に叱られたこと……
クラスに好きな女の子がいたから恥ずかしくて死にたくなった。
クラス対抗のサッカーの試合で、キーパーにボールを蹴ったらゴールに入っちゃって、それで負けたからみんなに責められて、死にたくなった。
でも一番死にたいと思ったことは、千円入った財布を落としたこと、一所懸命、何度も探したのに見つからなくて、もう死にたかった。
そう思っていると、父親はその時のことを思って死んでみろって言うんだ。
僕はちょっと下を見た。
怖くないんだ。
もうこれで死んでもいいと思うと、今まで怖くて体が、がちがちになっていたのが嘘のように力が抜けて、怖くないんだ。
本当にここから飛べそうな気がした。
もう死んでもいい……、もう死んでもいいと思うと何でもできる勇気がわいてきた。
そうなんだ、もう死んじゃうのだから怖いものなんてないじゃないか。
僕は、ここから飛べると思った。
そう思うと面白いんだ、震えて力が入らなかった足が、ジャングルジムで遊んでいるように動くんだ。
鎖場の鎖が、フィールドアスレチックの綱のように自由に使える。
それよりも何よりも体が軽いんだ。
それで、お父さんの手を煩わせずに無事一人でキレットを越えられたんだ。
今でも怖くて身がすくむような時は、死にたくなった出来事を思い出すよ。
おかげさまで、あれから長く生きたぶん死にたくなった出来事は山ほど増えたからね。