31. パニック・ラブ
(パニック・ラブ)
山小屋のテラスから、私たちのテントが小さく見えた。
風が冷たくて気持ちがいい。
彼は、さっそく買い出しに小屋の中に入っていった。
私はテラスから、もくもく真っ黒な雲が湧き上がってくるのを面白く見ていた。
しばらくして昇さんが来て、少し慌てたようすで言った。
「夕立かな、嵐かな? 天気が荒れそうだー」
「どうして……?」
「風が変に冷たいし、急に涼しくなったし、あの雲を見れば一目瞭然……、もうじき雷が鳴るよ!」
彼は、トランシーバーを出してテント村の美男子たちに連絡を取った。
「一度テントをたたんで山小屋に非難したほうがいいぞー、嵐が来そうだ。テントが風で壊されたら、山岳部存続の危機だー、修理するお金なんかないぞ!」
私は、昇さんの会話で来るものがきたと思った。
「嵐が来るのね……」
「嵐は大げさだけど、夕立の大きいやつかなー、山では珍しくないよー」
テント場の五人は二〇分ほどで、山小屋に上がってきた。
そのころには黒い雲は、あの高い山でさえ覆いつくしていた。
「ちょっと雷雨になりそうだなー」
美男子の一人がいった。
黒雲は真横に広がって見えた。
「今日は、山小屋泊まりにするかなー」
昇さんが言った。
「賛成!」
他の4人が叫ぶ。
「そんな甘いこと言っていていいんですか?」
さっき雷雨を心配していた美男子が言った。
「今回は彼女がいるから、いつもと性格が違うんですよー」
山小屋どまりを諸手を挙げて賛成した美男子が言った。
「バカ、何をいうー、今回は合宿の下見だから、嵐になった時の避難経路も確認しておかないとなー、今回の合宿は初心者の女子がたくさんいるから、嵐の中テントに寝かせるわけにもいかないだろう……、もちろん、さっちゃんもだ!」
「やっぱり、彼女が可愛いんだ……」
美男子の中の誰かが冷やかす。
「俺はかまわんよー、テントで寝たいやつは、ご自由にテントを使ってくれて……、俺は彼女と山小屋に行く。しかし、テント壊したら自腹で弁償だからなー」
昇さんは自主性を尊重した。
「それはないですよー」
そういって話している間にも、見る見る黒雲があたりを覆ってきた。
そして、遠くで稲妻が真下を目指して落ちていく。
その雷鳴を聞くと、みんなの意見は一致した。
「今日は朝から天気が良かったから、雷さんも元気がいいよ!」
それから、一〇分もしないうちに大粒の土砂降りの雨、雷、強風と遭難の三拍子が揃った。
「本当に山の天気って変わりやすいのねー」
私は、山小屋の窓から見通しのきかない外を眺めた。
大粒の雨と遠くの稲光が照らし出す黒い雲。
「女心と山の天気っていってねー」
昇さんは、それだけ言うとリュックを持って奥に入っていった。
「そんなの聞いたことない!」
私が投げた言葉は昇さんの背中にあたった。
不意に私の横に由加ちゃんがいた。
由加ちゃんも窓から外を興味深そうに見ていた。
「でも由加ちゃん、みんな山小屋にいるから大丈夫じゃないの?」
「すぐに分かるわよー」
その時、業務用電話が鳴った。
「え、奥穂高山荘から、こちらに来る途中の十九歳女子一名が、途中の岩場にあるハシゴの下で立ち往生している。救助して欲しいと携帯から電話があったって……」
山小屋の係りの人が、支配人のような人に話している。
「この雨では出られないよー、いくらなんでも、山岳隊は、今のこの嵐で出払っているし、困ったなー、雨が治まったら迎えに行くから、そこから動かないようにと言ってくれ!」
「もうじき日が暮れますよ……」
「困ったなー、下手をすると遭難だ!」
二人の会話を横で聞いていた昇さんは……
「あ、また遭難だー」
その言葉は散々聞き飽きたといった感じで重い腰を上げた。
「いいですよ、僕らが迎えに行きますよ。山岳警備隊の手を煩わすほどの事でもないでしょうから……、この時間なら多分もう、この近くまで来ているでしょう。岩場でハシゴならこのあたりかな? ザイテン(ザイテングラード)のあと一時間といったところだね……」
昇さんは壁に張ってあったルート地図を見て指差した。
「これで、持ってきたロープとハーネスが役に立ったじゃないか!」と、美男子の仲間たちに救助に行く口実を与えた。
「行くんですか?」
他の仲間は浮かない顔……
「女子一人こんな嵐のなか、ほっとけないだろうー、人助け、いい訓練じゃあないかー、それも幸か不幸か十九歳女子だよ。運がよければパニック・ラブもあるぞー、今年は愛の女神が微笑んでいるらしい……」
昇さんは、仲間をいく気にさせた。
「そうですね、部長のこともありますから、こちらも運が向いてきたかもしれませんねー」
「そうだそうだー、……、どういうことだ?」
昇さんは怒って見せた。
「そうかね、それは助かるよ。君たちなら安心だ。でも、くれぐれも安全第一で頼むよ。ザイテンの中だからといっても嵐だからね。これ、こことのトランシーバー、防水だから、携帯だと不安定だから、この方が確実に小屋と繋がる。なんせ山に囲まれているから携帯の電波は弱い。これでこまめに連絡してくれ、新しい状況が入ったら連絡する。彼女の名前は真理子……」
「それじゃあ、お借りして……、女の子には、絶対にハシゴから離れないように、それを見印に探すからと伝えてください!」
「分かった、六人で迎えに行くこと、動かないことを連絡しておく」
「明るいうちに行ってきます!」
山岳部の人たちは急いでカッパにハーネスと準備を始めた。
私も同じように準備を始めた。
「さっちゃんは、ここで待っていて、本当に遭難するから……」
「私も、行かなくていいの?」
「あーあ、大丈夫、すぐ帰ってくるから……」
皆はハーネスにロープを通して6人一列になって出て行った。
雨も風も強く、視界は一〇メートルもないように見えた。
「私も、行ったほうがいいんじゃないの? そしたら、みんなで引き揚げられるじゃない!」
私は、由加ちゃんに訊いた。
「連れて行ってくれるわけないでしょう。それに、もっと酷くなるから、みんな、自分の足元を見るだけで精一杯になるのよ。それだから、崖から落ちるお兄さんに気がつかないの……」
由加ちゃんには、すべてが見通せるようだった。
「結局、私がやらないといけないのねー」
でも、この落ち着きは何だろう。普通なら怖くて足がすくむはずなのに、怖くない。
そうか、由加ちゃんのせいなのか。
由加ちゃんがそばにいるから、私は大丈夫なんだ。
「じゃあ、私たちも行きましょうか!」
私は、リュックの装備を確かめた。
それからカッパにハーネス、カラビナと、間違いなく身に付いているか確かめた、大丈夫だ。
「大変だー、彼ら懐中電灯を忘れていった。時期に暗くなるでしょう。私、渡してくるー」
「ちょっとお嬢さん、行っちゃ駄目だよ!」
私は、止める山小屋の人を無視して先を急いだ。