29. 山へ
(山へ)
翌朝、大学の山岳部の人たちが車で迎えに来た。
美晴が嫌がるような油握ったむさ苦しい男たちではなく、とても山とは縁のなさそうな美男子ばかりだった。
「なに、ここはホストクラブ?」
「光栄なお言葉……、お嬢様、荷物をお持ちします!」
美男子の一人がホストの真似をして、両手を差し出した。
私は、その手にリュックを渡すと……
「何が、何が入っているんだ?」と、美男子の彼が、その重さに驚いてよろけながら訊いた。
「え、えーと、ハーネスとかカラビナとか……」
「岩をやるのか? 昨日も急にクライム一式持ってくるように電話があったし……」
「岩、というより救助訓練かな?」と、私は笑って答えた。
「まあ、今回は夏合宿の下見だから、暇つぶしに、ちょっと岩を登るにはちょうどいいと思っていたけどねー」
「あ、はははー、そうでしょうー、きっとそのうち役に立つと思うわ。さあー楽しく行きましょうー」
私は空元気に叫んだ。
でも美晴には悪いが、美男子ばかりに囲まれて、ちょっといい気分。
美男子たちは、「へーイー、」と、大声で返事を返してくれた。
お日様も昇り、沢渡まで来た。
環境保護のためにマイカー規制。駐車場に車を置いてタクシーに乗り換えた。
バスも出ているが、この人数だとタクシーが便利だという。
一度は来たいと思っていた上高地の大正池の風景も、車窓から通り過ぎていく。
「私、大正池見たい……」
昇さんは、私の何気ない言葉にも優しく答えてくれた。
「帰りに時間があったら寄ってもいいよ。でも、歩いて往復一時間以上は、らくにかかるよ!」
往復一時間以上と訊いて、足がすくむ。
「タクシーは?」
私は食い下がる。
「お金が掛かるよ……」
やっぱり、足どころか気持ちもすくむ。
「考えておくわ……」
登り口に着くと、タクシーから追い出され、美青年から重い荷物を渡された。
私的には、愚痴の一つも言いたいところだが、何しに来たと言われるのが落ちなので、昇さんのメンツも考えて、ここではとりあえず山ガールを演じた。
登り口からは、普通の林の中の散歩道。明るいグリーンに輝くブナの林の中を歩く。
早朝とあって、空気も澄んでいて気持ちがいい。
都会のむっとくる蒸し暑さとはぜんぜん違う。
憧れていた高原の、それも山の麓に来ているんだ。ちょっと幸せ!
もう、人もたくさん出ていて、行き交う人に「おはよう」と、声をかける。
入り口から一〇分くらい歩いて河童橋。
すでに背中の荷物が重い。
でも、テレビや雑誌によく出てくる、見慣れた風景の中の、同じところに立っているのだと感激。
ちょっと来てよかったかなと思ってしまった。
空は抜けるように青い。
昇さんに立派に見える山の名前を一つずつ訊いてみるけど、訊いた先から忘れてしまう。
でも穂高、明神岳くらいは覚えてしまった。
梓川の川べりの木陰に作られた、木製のベンチとテーブルがあるところで、リュックを降ろして腰も下ろす。
休憩までとはいかないが、せっかくの名所とあって記念写真をみんなで撮った。
「今日も暑くなりそうだ!」
美男子の中の誰かがいった。
でも暑いといっても気持ちの良い暑さだ。
ただ日焼けが気になる。日焼け止めグッツが役に立つといいけど……
登山が一部の山ガールを除いて、女の子に人気がないのは、この日焼けのせいかもしれない。
これさえなければ、こんな美しい所に来ないはずはないと思った。
しかし、梓川沿いを歩いて三時間。
良かったのは横尾山荘まで。
それを越えると、徐々に登りがきつくなり、道幅も狭くなって、岩だの石だのがゴロゴロ突き出たりしていて、足場も悪い。
ここに来てリュックの重みが肩に掛かる。
涸沢まで二・四キロの道しるべのある河原に着いた。
つり橋を渡って河原で休憩。
もう涸沢に着いた気分で、重いリュックを降ろして、日焼けもシミもお構いなしに天を仰いで寝転がる。
「はーあ、もう動けない……」
こんな荷物をしょって、こんな重労働するなんて、私の人生の中の最大の試練だ。
「良く頑張ったね。もうすぐ涸沢だ……」
ぶっ倒れている私を見て昇さんが、優しく声をかけてくれた。
「あと、何分くらい歩くの?」
「普通なら一時間半くらいかな? ゆっくり歩いても二時間もあれば着くよ。後は楽なものだから頑張って……」
「本当、……?」
その言葉は、ものの一〇分も歩けば嘘だと分かった。
突然、見上げるような急勾配に岩だらけの道。
来るんじゃなかったと後悔の一念。
「こんなところ過弱い婦女子がこられるわけない!」と口に出して言ってしまった。
言ってしまってから辺りを見回して、誰も聞いていなかったことに少しほっとする。
更に背中の荷物が重く肩に食い込む。
歩いても、歩いても、一向に涸沢のかの字も見えない。
そしてまた、登り……
「お姉さん、頑張って!」
「由加ちゃん、来ていたの……?」
「だから、お姉さんにとりついて、迷わないように一緒に登るって言ったでしょう」
「そうだったー、でもお兄さんに見つかっちゃ駄目よー」
「分かっているわー、他の人には見えないみたいよー」
「それは良かった。それにしても由加ちゃん、登るのは大変じゃあないの?」
「ぜんぜん平気。楽しいよー」
由加ちゃんは、さっちゃんを抱えながら、後ろ向きで私の前を歩く。
「いいなー、幽霊さんは……」
それから二時間ひたすら登る。
道は更に狭くなり、更に岩なのか石なのかわからないような険しい道を進む。
もはや平たんな所を探すのは困難だった。
そして低い木々の間を抜けると、視界が一気に広がった。
「涸沢だ……」
そこは大きく抉れたすり鉢のような所で、穂高岳、涸沢岳、北穂岳をすり鉢の淵とすると、私たちのいる所はすり鉢の底にあたる。
「凄ーいー、なんて雄大な眺め……」
東山魁夷の屏風絵を思わせるような日本画的色彩。
緑の木々と岩の黒、灰色の砂浜のような細かな砂利、今年は雪が多くまだ雪渓が到る処に残っていて、純白のアクセントをつけている。
東山魁夷でも涸沢までは登りに来なかったのかな?
来たら絶対に絵にしていると思った。
それから一〇分歩いてテント場。
この一〇分もきつかった。
よろけながらリュックを降ろして、その場にへたり込んだ。
そしてリュックを枕に空を仰いだ。
少し雲が出てきていた。
「今日の日程はこれでおしまい。後はテントを張って、明日の奥穂高登山に備える。ゆっくり休んでいいよ。でもお昼ごはんを食べてからね。一緒に食べようー」
私は、奥穂高と聞いても、どの頂が奥穂高か知らなかった。
「どこでもいいやー、明日のことは、明日考えよう……」
昇さんのお昼ご飯という声に、私はムックと起き上った。
私のために大分ゆっくり休憩を多く入れながら登ってくれたので、涸沢に着いたころには、大きくお昼を過ぎていた。
私は、へたり込んだまま靴と靴下を脱いでリュックからお弁当を出して、石のテーブルに置いた。
前を見れば見事な自然の驚異の技。
何百億年の昔、氷河が削り取ったという滑らかな曲線。
しかし、頂は鋭くとがっていて、今も崩落を繰り返して谷に落ちていると言う。
私はそんな風景を見ながら朝、遥さんが作ってくれたお弁当を食べた。
お弁当には、ローストビーフ、グラタン、筑前煮、たまご焼きと、炊き込み豆ご飯、それとお漬物と梅干が二個添えてあった。
この風景よりもお弁当のほうが美味しいと思った。
「さすが遥さん、ありがとうー」
私が美味しいお弁当に、舌鼓を打っていると昇さんが来た。
「はい、コーヒー、お弁当美味しかったねー」
「うん、素晴らしい風景と美味しいお弁当でもう最高。これインスタントではないのねー?」
「そう、コーヒー好きなのがいてね。俺は、インスタントは飲まないって言ってね。重いのにいつもミルと豆とドリップペーパーを持ってくるんだー」
「すごいこだわりねー、誰……?」
「あいつ!」
指差した方向には、今もコーヒーをドリップしている、眼鏡をかけた美男子がいた。
私はカップを上げてお礼を言った。
「後で氷河を渡りに行くかい、といってもあそこに見える雪渓だけどね。本当はここよりもそこが絶景ポイント。よく雑誌に出てくるのがそこからの写真。ここからだと山が陰になって見えないんだ。散歩コースになっているよ、というよりも明日いく奥穂高に登る登山路の途中だけどね。本当は散歩しながら、あそこに見える山小屋に買出し……、雪渓からだとちょっと遠回りだけどね。素晴らしい風景だから、散歩しながら行こうと思って……」
「ええ行くわー、こんな奇麗なところ、少し散歩したい気分。それに私も買出し手伝うわー」
「そういってくれると思った……」
美味しいお弁当も食べて、今日の宿も決まったところで……
でも、テントだけれどもね。
気持ちは軽く元気が出てきた。




