プルサーマル[中編]
その白い学ランを着たジョン・レノン似の男子生徒は、周囲を見回しながら、眼鏡をくいっと上げた。
「ほう、私は女子トイレに迷い込んでしまったのか、迂闊だった」
うんうんと頷きながら、淡々と言う彼。
何故か、確信犯的な感じがした。
まさか、そんなことあるはずがない。
女子トイレにわざと入るような輩がいるなら、その人は完全に変態である。
「ふむ」
彼はボブカットの髪をポリポリとかくと、丸い眼鏡の奥の瞳を細め、再び床に倒れている私を見下ろす。
「はっ?!」
私は大股開きの態勢になったままだったので、とっさにスカートで足の間を隠した。
というかこの人、なぜすぐ出ていかないのだろうか。「というか、君は…‥そう、隣のクラスの筑衛投子ではないか」
私はびっくりした。
私の名前を覚えていた人が、いたんだ。
しかも、隣のクラスに。
私は貴方の名前、知らないのに。
嬉しかった。
ほぼ見ず知らずの隣のクラスメイトが、私の存在を知っていてくれたことが。
というか、この人は本当に誰なんだろう。
「なるほど、水が逆噴射したのか。災難だったな。クラシアンを呼べばよかったのに」
彼が、ペラペラと喋りながら倒れている私に手を差し出す。
え?
違う、私は―
私は、彼の言葉を否定するため顔をふるふると横に振った。
喋ろうと思ったが、あんなことが起こった後なので、言葉が出なかったのだ。
我ながら、情けない。
彼はふむ、と頷くと、再び閃いたようすで私に問い掛ける。
「では、滝に打たれたのか?悟りを開くために」
手を突き出したまま、彼は続ける。
しかし、またしても違う。
というか、説明出来ない私も私だが。
言いたくなかった。
同じクラスのいじめグループの三人にいじめられて、水をぶっかけられたなど、言えなかった。
「では、何だ?とりあえず、立つといい。尻が冷えるだろう」
確かにそうだった、水に濡れた私は、水浸しの床に転んだままなので、とてもお尻が冷たい。
こくこくと頷くと、彼の手をとって、私は立ち上がった。
細くて長い、指であったが、力強く引き付けられ、スムーズに立ち上がることが出来た。
「ありが…‥とう」
本当に、聞こえるか、聞こえないかくらいの小さな声で呟く。
我ながら人と喋るのは、いつまでたっても慣れない。
人と喋る機会が少ないのが、原因だが。
私は、助けてくれた人に、手を差し延べてくれている人に、御礼一つ言えない人間になっていたのか。
改めて自分が情けない、と思った。
「礼には及ばない、それより、保健室に行こう。」
私は自分の声が届いていたので驚いた。
そして彼の手に掴まると、そのまま水浸しのトイレの床の上に立ち上がった。
「ほ…‥保健室ですか?」
そういえばこの後のことを、私は全然考えていなかった。
そのまま、早退してしまおうかと思っていた。
先生もいじめを黙認しているから、早退しても、特に私に何も言わないであろう。
前回は、確かそうしたハズだ。
保健室、そういう選択肢も確かにあった。
だけど私は保健室の先生に会うのが、苦手だ。
先生というものに言って解決することなど、なにもないからだ。
「変な意味はない。とりあえずズブ濡れだから服を借りて、ストーブにあたらなければ風邪を引いてしまう。安心しろ、私は保健委員だ。医学の知識は全く無いがな。鼻血が出たら後頭部を叩いてしうくらいだ。」
彼は本当によく喋る人で、しかも全て正論だった。私なら、この台詞を言うのに何度も噛んでしまうであろう。
まるで、声優さんみたいであった―
「は、はい、行き…‥ます、保健室」
ふむ、と頷き、彼はきびすを返し、歩きだした―
「そうか、では行くか。因みに私は隣のクラスの両手花下義だ、まあ、それはどうでもいい話だが」
両手花下義。
両手に花に、下着。
私が言えたことではないが、変わった名前だなと思った。
休み時間が終了するチャイムが鳴っているが、彼は―そんなことに全く動揺せず、私の前を歩いていく。
私は彼の細長い背中を見つめて、不思議な気持ちになっていた。彼は掴み所のない人で、話は正直噛み合っていない。
しかし彼は、結果的に私を助けてくれた。
でも、私はいじめを受けている事実を言うべきなのか、どうか。
引かれはしないだろうか。
彼もまた他の人のように見て見ぬフリをするのだろうか。
しかし、黙っているわけにもいかないだろう。
彼は保健室に行ったら、はいサヨナラ、とすぐに教室に戻るような人に見えなかった。
私はそれが少しだけ、不安であった―
―
消毒液の匂いが少しきつい小さな保健室には、幸いなことに先生はいなかった。
しかし、休んでいる生徒がいるらしく、三つあるベッドは二つだけ使われているらしく、カーテンが閉じられ、小さないびきが鳴り響いていた。
サボっている生徒だろうか、本当に具合が悪いなら昼休みの時に帰宅したはずである。私は、空いているベッド付近で保健室に運よくあった落とし物のジャージ上下を拝借し、着替えていた。
彼は、両手花さんはストーブのスイッチを押すとカーテンの向こうの保健室の先生の椅子に座り、落とし物の籠からルービックキューブを見つけて弄んでいた。
「さっきはすまなかった、今、思い出した」
カーテン越しに、彼が話し掛けてきた。申し訳なさそうな、口調であった。
ルービックキューブをカチャカチャと弄ぶ音が、聞こえている。
私は本当によく喋る人だなあ、と素直に感心していた。
多分この人は一時間で、私の一週間分くらい喋っているんじゃないかなあ、と思う。噺家の、家の子なのだろうか。私も見習わねば。
「隣のクラスでも、いじめが結構流行っていたんだったね。確か影出責留子を筆頭にしたいじめグループが、筑衛投子、つまり君に陰湿ないじめをしているんだったか、確か」
そんな下らないことを考えているうちに、彼が核心をついた。
私は、声が出なかった。
今更遅いが、思考を巡らす。
今、このタイミングで切り出すとは、このタイミングで彼そんな事実を思い出すとは、思っていなかったのだ。
というか、水浸しの私を見た時点で気づかなかったのだろうか、この人は。
「な、なんでも…‥知ってるんですね」
私は、こう言うのが精一杯だった。
私はジャージのチャックを上げて、ベッドに座った。
ストーブが効きはじめたのか、保健室は暖かい空気に包まれていく。
もう、話すしかない。
彼と、私の受けているいじめについて。
「ああ、私はある慈善組織の一員でね。この学校の周辺区域を担当しているんだ、だから大体は知ってる――君みたいな人のことは」
よく分からないが、そんな組織があるのだろうか。
慈善組織ということは、困っている人を助けてくれる人々の集まりなのだろうか。
彼も、人助けをしている人なのだろうか。
なら、助けてくれるかもしれない。
私は、こんなにも悩み、苦しんでいるのだから。
中東の難民のように、私は苦しんでいる。辛い、苦しい、助けて欲しい。
「誰も…‥助けてくれないんです」
「だろうね、誰も巻き込まれたくないだろうから」
彼は、即答した。
やはり、周囲の人は巻き込まれたくないのだ。だから、私を見て見ぬフリをする。
分かってはいたが、他人に言われ事実を再確認すると、絶望が深まっていくような感覚になった。
だから私は、自分の中にあるありったけの勇気を振り絞ってみた。そう、自分の気持ちを、今一番言いたいことを、この人に言ってみよう。
「でも私は…‥苦しいんです…‥つ、辛いんです。助けて欲しいんです」
私はカーテン越しに、彼に全てを話した。
私は、助けて欲しいのだ。
救いの手を差し延べて欲しいのだ。もう、追い詰められていて、死ぬか、助けてもらうかの二択しかないのだ。
だから、お願い―
「………‥」
彼は、珍しく黙っていた。
ルービックキューブを弄ぶ音も、止んだ。
少なくとも、私に会ってから初めての沈黙である。
気まずい、非常に気まずい。
私が喋らなければ、いけないのだろうか。
では、もう質問しかない。
どう、思ったんだろうか。
「あの…‥」
「筑衛さんは、フランチャイズの下僕という作品を知っているかい?」
完全に、彼の言葉に遮られた。
完璧に私の言葉が、消えた。
そして、彼の聞き慣れない言葉に、私は思考を巡らす。
「え?」
フランチャイズの下僕。
作品ということは、小説なんだろうか、或は漫画か、アニメか。
読書が比較的好きな私でも、聞いたことがないタイトルであった。マイナーな作品なのだろうか。
それが、私の現状を打破してくれるものなのだろうか。
彼と私の会話は、もう少しだけ続く―
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でわ!