プルサーマル[前編]
多分この物語は皆も一度は経験したであろう、青春の物語。
いじめを受けている少女、筑衛投子は、とある少年との触れ合いにより、人と係わり合うことの幸せを知る。
今、苦しんでいる人にも、苦しんでいた人にも、苦しまなかった人にも知ってもらいたい、そんな物語―
多分、世界というものは私が思う以上に楽しくはない。
そして、神様がいるとしたら人間を平等に作ってない。
生きているだけで幸せ、なんて言う人もいるだろうけど、私は幸せではない。
そんな世界に作られた小さなこの教室の中は、私にとって少なくとも地獄である―
―
14時27分。
お昼の休み時間。
都内の男女共学の高校生に通う私は、一人でお勉強を食べようとしていた。
教室ではなく、学校の屋上で。
教室は、もう私が居ることが出来る場所ではなかった。
授業以外の時間で、そこにいたくなかった。
だから私は、このフェンスに囲まれた、何もない屋上にいた。腰まで届いている長い髪が冷たい冬風に揺れ、至る所に汚れが見えるブレザーを着た私は、屋上の床に一人用の小さなブルーシートを敷いた。
居眠りがすぐにバレてしまう丸くて大きい目、普通の高さの鼻、少し細い顎に、ガリガリといえないまでも、不健康に痩せた少し背の高い体。
そんな出で立ちの私は座り込み、ブルーシートから伝わる冷たい感触を感じながら、弁当箱を開けた―
「ひゃう!!」
私はまた、悲鳴を上げていた。
やっと机の落書きを消して屋上に上がったかと思うと、次は弁当箱の中にゴキブリの死骸が入っていた。
黒光りした茶褐色の死骸が、白いご飯と卵焼き、そして冷凍食品のメンチカツに数匹乗っかっていたのだ。
私が作ったお弁当に、いつ、誰が入れたんだろう。
こんなにいっぱいのゴキブリ、よく集めたね。私は見るだけでも無理なのに。
ああ、もうこのお弁当箱使えないよ…‥
「くっ…‥」
悔しさと自分の惨めさで、涙がぽろぽろとこぼれた。
私が、何をしたっていうんだろう。
確かに、ちょっと空気が読めないところもある。
集団の中に馴染めない、というのも昔から変わってないし。
けど、それだけの理由で、なぜこんなことをするのだろう。
先生は、なぜ、こんな私を放っておくんだろう。
クラスのいじめグループ以外の生徒も、何で見て見ぬフリをしているんだろう。
巻き込まれるからだよね、当たり前か。
私はまるで、触れること、存在するだけで人に害をなす放射能のようなものなのだろうか。
いや、放射能とかは扱い一つで人の役に立つから、私はそれ以下のただの毒、災いそのものなのだろうか。
案外、そうなのかもしれない。
「飛び降りちゃおうかな…‥」
フェンスにもたれ掛かり、小さな校庭の向こうに広がる町を見つめた。
けれど、私には全てが空虚に思えた。
そこに、人間が誰もいないような感覚。
この小さな街に、私一人だけが残ってしまったような感覚。
むしろそうなってくれたら、どれだけ、幸せなことか。
どれだけ、この胸のつかえがとれるだろうか。
私は苦しみから解放され、私を責めた人達は、きっと喜ぶのだろう。
親は多分泣くのだろうが、出来のいい兄がいるから、多分大丈夫だ。昔からよく比較されてきたし、私がいなくても大丈夫。
私が生きつづけるより、よっぽど世界に害を与えないだろう。
そんなことを考えながら見下ろす街は、やっぱり私にはモノクロにしか見えなかった。
「さむ…‥いなぁ」
思わず、私は声を漏らす。
低くてクセがあって、ハスキーで、私自身も嫌な声。
からっぽのお腹に冷たい風が刺さり、私は俯いて再び涙した―
私の名前は筑衛投子。
1992年3月4日生まれ、血液型はB型。
高校二年生。趣味は読書とお菓子作り。
家族は父親が一人、母親は私が幼い頃、外で男を作って家を出ていってしまったらしい。
父親は殆ど家にいない、嫌な家庭だ。
兄弟は社会人になった兄がいる、もう一緒には住んでいないが。
部活は帰宅部、コンビニのバイトをやっていたが、先月辞めてしまった。
私は今、生きるのが辛い。
いや、昔から私は何かといじめなどの対象になることが多くて、いつも生きるのが辛かった。
辛い。
同年代の若者達が青春を謳歌しているこの時間を、私は地獄の中で生きている。
ああ、死にたい。
なぜ、私は生きているんだろう。
きっとこうした悲しみや苦しみを、死ぬまで感じながら生きていくのだろう。地中の地層深くに埋まったような、そんな感じで、終わるまで、続くのだろう。
そう、私は思っていた――
「寒…‥い」
冬の風に吹かれとお腹が冷えてしまったので、私はお手洗いに向かった―
―
私のクラスがある校舎とは別に建てられている、科学室や音楽室などの特別授業用の教室がある校舎。
その校舎のトイレに、私はいた。
女子トイレの中には三つの洋式トイレと掃除用具入れがあり、私は真ん中のトイレを使用していた。
「…‥」
私はトイレを済ませ、洋式トイレのドアを開けた。
その瞬間であった。
「きゃああッ!!」
冷たい水が、私に向かってぶち当たる。
バケツ二杯ぶんほどの水を正面から受け、私は個室トイレの中に倒れてしまう。
また、やられたのだ。
「ははははっ!汚ったない!やぁあねえ!」
「ホント!ゴキブリ並に汚いよね!」
いじめグループの女子AとBが空になったバケツを振り回しながら、笑う。
因みに個人情報の関係でAとBと呼ぶわけではない。私はこの二人の名前など、どうでもよいから覚えていない。
髪が短くて目が細くて、鼻と背が低いソバカス顔がA、脂っこくて清潔感のないデブがB、私の中で、二人はそれだけの存在だ。
名前など、覚える気にもなれない。
「二人とも真冬になるのに水なんかかけちゃってひっどーい!でもホント汚いわよね!あははは!」
一番汚い人が、それを言うか。
AとBの背後で、恐らく指示だけを出した女子、影出責留子がけらけらと私を指差して笑う。
洗髪料で染めた金髪にけばけばしい化粧、そして茶色い肌に、ほっそりとした体、そして私を見下すためだけについている瞳。
私はこの人の名前だけは忘れない、この人が、クラスで私が疎外されるように仕組んだ張本人。
だけれど、自分からは直接手を下さない。
とても汚い部類の人間。
でも、私は―
「っつ…‥」
倒れたまま、何も私は言えなかった。
唇を噛み、私は俯く。
何も出来なかった。
何かをすれば、必ず報復される。
だから怖くて、私は何も出来ない。
こうして倒れたままなら、蹴りを喰らうなどで済む。
それ以上など、もうされたくない。
生殺与奪を完全に相手に握られているから、本当に生きた心地がしない。
もうこの校舎のトイレも使えない。
私の逃げる場所が、この学校から、この世界から完全に無くなってしまったように感じられた。
死にたい、私は何度も心の中で呟く。
「ケッ!つまんねーの!」
「早く死んどけよな!」
唾を私に吐き捨て、AとBが立ち去る。
「死んだ真似が上手くなったわね投子、でも、死ぬより辛い教室に来なきゃだよ!あはははは!」
洋式トイレの壁を蹴り飛ばして、責留子は私を見下して笑った。
まるで、いや、本当の悪魔のようであった。
死ね、死ね、死ね。
くたばれ、消えろ、殺されろ。
生きるな、地獄に落ちろ。
息をするな。
蛆とゴミと汚物とありとあらゆる物を喰らえ。
男に襲われろ、見知らぬ男の子供を妊娠して中絶しろ。
四肢をもがれて、内蔵を引きちぎられ、眼球をもぎとられてしまえ。
生き地獄を味わって死ね。
死ね、とにかく死ね。今すぐ死ね。
死ね、死ね、死ね。
死ね、死ね、死ね。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
死ね、死ね。
死ね。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
死ね、死ね、死ね。
死ね。
死ね、死ね。死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
死ね、死ね、死ね。死ね。
死ね、死ね、死ね、死ね。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
もう、死ね。
絶対、死ね。
とりあえず、死ね。
必ず、死ね。
確実に、死ね。
私が呪いの言葉を心の中で唱え続けると、責留子はけらけら笑いながら立ち去っていった。別に、私が唱えたから立ち去ったわけではないが。
もし、呪文の通りになるなら、彼女は今ごろ死んでいる。生きていない。
だが、彼女は生きている。私の命をジワジワと締め上げながら。
私は、無力だ。何も出来ない。
そんな言葉が、無限に頭の中で再生されていた―
「うわあぁぁぁーんっ!!」
涙が涸れ果ててくれないから、私は再びボロボロと涙を流してしまう。
悔しくて、悲しくて、辛くて、惨めで、情けなくて、苦しくて。
誰か、助けて。
でなければ、私は死んでしまう。
そうだ、やっぱり屋上から飛び降りてしまおう。
世界は、私を最後まで助けてくれなかったから、消えてしまおう。
私は心の中でそう決めると、立ち上がろうと開きっぱなしになった和式トイレの入り口で膝を立てた。
その時であった―
「ふーふふふーん、トイレに来たぜ、来た来たぜ。私は男さ、だけどするなら座り小便、イェイ」その歌声は、男子生徒のものであった。
私は耳を疑った。
ここは女子トイレである、男子が入ってくるハズがない。
そう、あるハズのないことが起きたのだ。
その歌声の主は、私が洋式トイレのドアを閉めようと立ち上がるよりも前に、目の前に現れた。
目の前に現れた男子は、やはり疑いようもなく男子であった。
しかし、名前が思い出せない。多分私のクラスの男子だろうけれど、顔が思い出せない。
そして、あんなことが起こった後なので、私はただただ戸惑うだけで、声も出なかった。
「あっ」
「おっ」
彼も私に気づいたようであった。
二人同時に声が出る、目が合ってしまった。
私の変わりに、彼がケロッとした口調で言う。
「あ、ここ女子トイレじゃん」
本当に今気づいたような様子で、その男子は言った。
ここは女子トイレ、確かにそれもそうだが、水浸しの女子に対して何もないのだろうか。
ボブカットにされた髪に、丸い眼鏡、高い鼻、そして細くすらっと長い体、そしてそれを包む白い学ラン。
彼はそんな出で立ちであった。
こんなにも特徴的な姿なのに、名前が出てこない。
因みに私の学校の学ランは黒である。
白い学ランなど、見たことがない。
まるでジョン・レノンのような、出で立ちである彼は、水浸しの私を見てもニコニコと笑っていた。
しかし不思議と悪意で、笑っているようには思えない。
というか、私の存在が彼の気分を左右していないのだろうか。
「え…‥?え?」
私と対照的な彼のあまりに呑気な様子に、私はやはり、ただただ戸惑い、大きな目をさらに大きく見開くしかなかった―
前編を最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
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