20*聖女の決心
それから一時間後。
リリアーナとハリーは、シュタッヘルにある中で一番大きな市場へ来ていた。
新市街にあるそこは、神殿のように大きな建物の中にある。
床には一定の間隔でラインが引かれていて、それぞれ借りたスペースに荷馬車ごと搬入して商売をしているらしい。
例えるなら、室内版蚤の市といったところだろうか。
並んでいるのは古物ではないけれど、ガヤガヤとしたにぎやかさとか雑多な雰囲気は近いものがある。
(ずっと昔に、デラニー叔母さまと行ったことがあったっけ)
サティーナが社交界デビューをするまでは、リリアーナも少しの外出が許されていた。
それはデラニーの同伴なしでは許されないものだったけれど、それでもあの頃はまだ楽しいことがあって、上手に笑っていたような気がする。
デラニーの特技はレース編みで、編んだレースと花を合わせてコサージュを作っていた。
彼女はそれを、蚤の市で販売していたのだ。
『いらっしゃいませ! どれも手作りの一点ものなんですよ。ぜひ、見ていってくださいね!』
ほんの短い時間ではあったけれど、店番はとても楽しくて。
リリアーナはまた誘ってほしいとデラニーに頼んだけれど、両親が世間体にこだわったために、その一回きりになってしまったのだった。
思えば、ハリーからレース編みを習おうと思ったのも、その経験があったからこそだったのだろう。
思いがけず昔の楽しい記憶を呼び起こして、リリアーナの顔に笑みが浮かぶ。
「では行こうか」
手を引かれて、歩き出す。
パステルカラーの荷馬車は、かわいい菓子屋。
乾燥したハーブを束ねたスワッグを吊り下げた素朴な荷馬車は、香辛料屋。
荷馬車の前に引かれた道を歩くだけでも、楽しい気持ちになる。
引きこもりであるリリアーナが臆することなく人ごみの中を歩けているのは、ハリーのおかげだ。
彼が手をつないでくれているから、リリアーナは危なげなく歩いていられる。
もしもこの手がなかったら……きっとリリアーナは、最初の一歩を出すこともできなかっただろう。
たとえ一歩を踏み出すことができたとしても、人ごみに揉まれてあっけなく白旗を振っていたはずである。
いわば命綱とも言えるハリーの手を見つめていたら、リリアーナはどうしても今、ありがとうと言いたくなった。
「ハリー様」
遠慮がちに名前を呼ぶと、ハリーはすぐに振り返ってくれた。
「どうした、リリアーナ。買いたいものがあったのか?」
言いながらくしゃりと笑う彼は、今日もまぶしい。
「いえ、そうではなく」
「遠慮しなくていい。ちゃんと、リリアーナのお金も持って来ているからな」
「それは、ありがとうございます。でも、そういうことじゃなくって……」
言葉にするのは、むずかしい。
静かにしろと言われ続けていたから、なおさらに。
それでも、伝えたいことがあるなら言わなくちゃ伝わらない。
ワンピースを手繰るようにキュッと握りながら、リリアーナは全身で緊張しつつ口を開いた。
「えっと、その……ありがとうございます、誘ってくれて。お買い物をするなんて久しぶりだからご迷惑をおかけすると思いますが、いろいろよろしくお願いします」
ペコリと頭を下げると、大きな手がクシャクシャとリリアーナの頭を撫でてくる。
「リリアーナが何をしても、迷惑だなんて思わないから」
「ハリー様……」
髪が乱れるのは困るなぁと思いつつも、つい頭を差し出してしまうリリアーナだった。
「やぁ、ハリー。今日はトマトが安いよ。買っていくかい?」
「ああ、そうさせてもらおう」
「こんにちは、ハリー。今日はピーカンナッツが入荷しているんだが、どうだい?」
「ピーカンナッツか。タルトにちょうど良さそうだな」
「あら、ハリー様じゃない。この前はどうもありがとう。助かったわ。今度、お礼させてちょうだい」
「いや。大したことじゃないから、気にしないでくれ」
ちょっと歩くだけで、声がかかる。
ハリーはとても人気があるようだ。
はじめはそんな彼のことを、「すごいなぁ」「さすがだなぁ」と尊敬のまなざしで見ていたのだが、ハリーと知らない誰かが気さくに声を交わすたび、リリアーナは自分の存在が邪魔になっているのではと、モヤモヤするようになっていった。
それでも、せっかくのお出かけなのだから気持ちよくありたいと我慢していた──のだが。
(気持ち悪い)
まるで馬車酔いした時のように、胃のあたりがムカムカしだす。
(アップルパイ、食べすぎたのかなぁ)
よくわからなくて、首をかしげながら眉を寄せていると、リリアーナの頬へハリーの手が伸びてきた。
「すまない。無理をさせてしまったか? すぐに済ませるから、もう少しだけ付き合ってくれ」
頬を撫でたあと、ムニムニとマッサージされる。
きっと不細工な顔になっているだろうに、ハリーは「やわらかい」「かわいい」と上機嫌だ。
(キラキラで、目に痛い……)
直視できずに、リリアーナは目を伏せた。
ハリーは今の容姿に満足しているようだが、リリアーナは前の──毛虫の騎士だった時の彼の方が良かったなと思う。
だって、話の腰を折られて、話し中だった女性は不機嫌そう。
「毛虫の騎士だったら、話しかけもしないくせに」
ボソッとつぶやいた言葉は驚くほど冷ややかで、リリアーナはハッとなった。
幸い、ハリーには聞こえていなかったようだ。
リリアーナは安心したが、すぐに自己嫌悪に陥った。
(ハリー様はコンプレックスから解放されて喜んでいるのに、わたしときたら……)
喜ぶどころか、苦手意識が芽生える始末。
挙げ句に前の方が良かっただなんて、ハリーに知られたら嫌われてしまうかもしれない。
(早く、終わらないかしら)
女性からわかりやすい敵意を向けられても、リリアーナに対抗する術はない。
情けないが、おとなしくしていることしかできなかった。
そうしている間も、リリアーナの手はつながれたまま。
以前は触れることすら臆していた彼は、今やスキンシップの鬼になっている。
もはや、エスコートというより介護に近い。
リリアーナがいなくなったらハリーは取り乱すし、ハリーがいなくなったらリリアーナは餓死するだろうなと、危機感を抱くほどだ。
(今すぐには無理でも、いつかは自立しないと……)
まずはできることを増やしていこうと、こっそり決意するリリアーナだった。




