15*騎士のひみつ
世界には、妖精のいたずら【取り換え子】によって生まれた、人ならざるものの血が混ざった者たちが存在している。
【胡蝶一族】や【青蜂一族】など、ブルームガルテン国の歴史にも、しばしば出てきた。
胡蝶一族は、美しい妖精と、醜い巨人の血が混ざる一族だ。
妖精からは美しい容姿を、巨人からは強靭な体を継承している。
とはいえ、全員が正しく継承するわけではない。
かなり低い確率ではあるが、容姿も体も醜い巨人の要素が色濃く出てしまう者もいる──らしい。
「まさにそれが、きみ……ハリー・エドランド君だったわけだね」
異国の言葉で書かれた古めかしい医学書をパタムと閉じて、老医師フィガロは皺が目立つ柔和な顔に、穏やかながらも苦い笑みを刻んだ。
ハリーが入院している病院の、隣にある病院長の屋敷。
その客間にて、ハリーはフィガロから話を聞いていた。
倒れたリリアーナを抱えて、病院に隣接する医師の家へ助けを求めたのは昨夜のこと。
まだ夜も明け切らない時間帯だったにも関わらず、病院長の父だというフィガロは、二人を快く招き入れてくれた。
フィガロは数年前に医師を引退していたが、今も地方神殿の治療院でボランティア活動をしているらしい。
リリアーナのことも、彼はすぐに診てくれた。
今、リリアーナはベッドで眠っている。
力を使い果たした聖女はしばしば、このような状態になるのだそうだ。
わかっているのかいないのか、フィガロはリリアーナが何の花の聖女か問うことはしなかった。
花びらが降りしきる中、助けを求めてきた二人を招き入れた彼が、見なかったはずはないのに。
おそらく、わかっていながら聞かないでいてくれるのだろう。
そんなフィガロのことを、ハリーは信頼できる医師だと思った。
リリアーナは、しばらく寝ていれば治るそうだ。
だが、彼女が倒れた瞬間を目の当たりにしたハリーは心配で、不安が止まらない。
「もうしわけ、ございません……サティーナ、さま……」
「リリアーナ……」
リリアーナのまなじりから、涙がこぼれ落ちる。
ハリーはそれを指先で拭い、つらそうに唇を引き結んだ。
「もう絶対に……しま……せんから」
苦しそうに謝罪の言葉を紡ぐリリアーナは、誰がどう見てもうなされていた。
揺り動かしても彼女が起きる気配はなく、ハリーはただそばにいることしかできない。
彼ができることと言ったら、ベッドの横へ寄せた椅子に腰掛け、リリアーナがいつ起きてもすぐ動けるように待機していることくらいだった。
病院の入院着を着ているハリーに、フィガロは何度も病室へ戻るよう注意したが、彼は頑として言うことを聞かなかった。
仕方なく彼の診察を始めたフィガロは、病室へ戻すための理由を見つけるつもりが、しかし医師の診断が誤診であったことを突き止めてしまった──というわけなのである。
「巨人の血は強すぎて、人の身では耐えきれない。それゆえに、もう一方の血……妖精の血は、生き延びるためにある現象を引き起こす。胡蝶一族はそれを、【変身】と呼んでいるようだ。変身とはつまり……生物学でいう変態の意だね」
胡蝶一族に稀に生まれるという醜い者は、熱中症とよく似た症状が出る【蛹化】をし、そして【羽化】を経ることで、巨人の血の割合を正し、本来あるべき美しい容姿と強靭な体を手に入れるらしい。
美しいから胡蝶一族という名がついたのかと思いきや、どうやらこの蛹化と羽化に命名の起源があったようだ。
納得するとともに、おそらく知っていながら教えてくれなかった親族たちに、ハリーは苛立ちを覚えた。
「まさか蛹化だったとは思いもしなかった……きちんと生まれを確認しなかったこちらの不手際だ。申し訳ない」
深々と頭を下げたフィガロへ、ハリーは首を振って、
「先生のせいではありませんから。ですからどうか、頭を上げてください」
とすまなそうに眉を下げて言った。
「原因がわかっただけでも良かった。まさか自分にそんな事実があったとは俺自身も知りませんでしたから……わからなかったとしても、仕方のないことだと思います」
どうして両親は教えてくれなかったのだろう。知っていればもっと早く何か対処できたかもしれないのに。
苛立たしさをにじませているハリーに、フィガロは苦々しく答えた。
「この本によれば、運よく蛹化できたとしても、羽化まで辿り着ける可能性はなきに等しい、奇跡の確率なのだそうです。ほとんどが蛹化中に、眠るように命を落としてしまうと書いてある。だからきみはね、とても運が良かったのですよ、ハリー君」
話さなかったのではなく、話せなかった。
きっと苦渋の決断だったのだと思いますよ、とフィガロは言った。
ハリーはフィガロの言葉を遠くに聞きながら、リリアーナを見つめていた。
奇跡。
その言葉を聞いた瞬間、秘密を言い当てられた時のようにドキリとしたからだ。
とっさにリリアーナから目を逸らしたのは、フィガロに悟られたくなかったから。
眠る彼女の髪には、数枚の薔薇の花びらが絡みついていた。
(フィガロ医師はまだ気がついていないようだが……)
それはよくよく見ないとわからないほど黒々としていたが、限りなく黒に近い、紺色の花びらだった。
神官たちが下した彼女の評価は、誤りだったのだ。
黒薔薇の魔女なんて、とんでもない。
彼女は魔女ではなく、誰もが誕生を待ち侘びていた、青薔薇の聖女に違いなかった。
勘違いだとわかったのだから、王都へ戻るのが筋なのだろう。
しかし、彼女の手の甲にくっきりと残る爪痕を見ると、ハリーにはそれが良いことのように思えなかった。
(きっと、彼女は利用されてしまう)
旅の道中で聞こえてきた王都のうわさ──一行が旅立った前日に起こったソワレ邸の火事が、黒薔薇の魔女の呪いによるものだと主張し、魔女を保護している立場である国王へ損害賠償を求めているソワレ侯爵夫妻と紫薔薇の聖女の件──や、うなされるリリアーナが涙を流しながら謝罪の言葉を口にしていることを見れば、それは明らかだった。
(せめて、リリアーナがいいえと言えるようになるまでは……茨の城で守るべきだ)
今のリリアーナに必要なのは、穏やかな生活だ。
心身ともに受けた傷を癒やし、青薔薇の聖女にふさわしい自信を取り戻してもらうのが、なによりも先決である。
(せっかくここまで来たんだ。ちょっとくらい報告が遅れたって、構わないだろう)
だって、ひと月も過酷な旅をしてきたのだ。
疲れ切った青薔薇の聖女様に再び旅を強要するだなんて、ハリーにはできない。
幸いにして、ハリーは宰相閣下の愛息子だ。
いざとなれば国王だって丸め込める父だから、今はそれに甘えてしまおうと思うハリーであった。




