おもらし姫
罪を知らざる者は真に神の愛を知ることは能はず……罪悪、苦悩は人間の精神的向上の要件である。(西田幾多郎 「善の研究」)
ソルト連邦王位継承権第一位王女として私は生まれた。父は国王。母は私が幼いころに亡くなっている。側近が他言無用として教えてくれた。父の暴力に耐えかねて自死したのだと言う。
私には生まれつき魔法の才能があったようだ。もちろん記憶にはない。後に聞いた話だが、それは、ある事件が発端となっていた。
生まれてまもない私はミルクを求めて泣いていた。乳母が私の泣き声に気付くのが遅れたのだろう。私と目を合わせた瞬間、駆けつけた乳母のエプロンが燃え上がった。
乳母は火傷を負ったものの、幸い重篤な状態には至らなかった。だが、これを境に私は畏れられる存在、忌むべき子の地位を得てしまった。
人族には稀有な火属性魔法、しかも最強クラスの攻撃特化型。もちろん、次期女王に対する敬意は全ての家臣にある。だが、彼らの私を見る目は敬愛ではなく畏怖だった。
私の生国の現状を語ろう。この国はかつて世界最大の領土を誇る大帝国だった。軍事においても北方の白い熊と呼ばれ、他国にとって戦慄の存在だったはずだ。そう。あの日。魔王と呼ばれる者がこの世界に降臨し魔族を統べるまでは。
今、その魔族軍が目前に迫っている。その数、五万。もはやここサンクトブルクは風前の灯。ゴブリン族は女とみれば、陵辱してから殺すのだという。あんなヤツらに辱めを受けるくらいなら、自刀すべきなのだろうか。いや。諦めてはダメ。
何か? 何か策はないのか? そうだ! 我が王家に古くから伝わる予言があることは知っていた。だが、それは禁忌とされていた。何か大きな代償を要求されるものかもしれないが、我が国を救うヒントが隠されているのではないか。私は藁にもすがる思いで、予言書を開いた。
「世界が炎に包まれる時、炎より出し少女、神の御名を讃えるべし」これだけだ。同時に魔法陣の見取り図と魔道具が一つ。
予言というものは曖昧で捉えどころがない。しかし、それが具現化する時、ジグソーパズルのピースが嵌るように、突然、全体像が浮かび上がるものなのだ。炎より出しは私のことなのだろう。魔法陣はその形から何かを降臨させるもののようだった。「神の御名を讃え」とは神に願い何かを召喚せよという意味に違いない。
黒玉を飾ったペンダント風の魔道具。漆黒に輝く石は神々しいとはとてもいえず、むしろ禍々しさを感じてしまう。もしかしたら私は魔王の姦計に陥り、悪魔を呼び出すのではないか?
怖しい。手の震えが止まらない。だが、私は前を向いた。そうだ。四面楚歌に包まれようと、私は自死などしてはならない。槍を持ち城門から撃って出よう。自刀より敵の矢による死を選ぶのだ。魔法陣の中央に跪き、私は黒石に魔力を込めた。
魔法陣が光を放つ。光? いや何か漆黒の霧のようだ。私の真下に描いたはずの魔法陣は黒い渦に変じていた。黒よりも黒いそれはまるで宇宙の深淵のようだった。すうぅぅーっと、幽鬼のごとく黒い影が私の前に現れた。その者からは濃密な死の気配がする。
「本当に悪魔を召喚してしまった!」
いや「死」どころではない。死よりも恐ろしい何か禍々しいもの。私は、畏れられることはあっても、怖れたことなど一度もない。生まれて初めて、心の内から溢れ出る剥き出しの恐怖を感じていた。股間を暖かいものが流れた。液体のシミがスカートを濡らす。ツンとした臭いとともに、黄色い水溜りを私は作ってしまった。
黒い影は人の形をとり始めていた。小さい。私もそう大柄ではないが、子供といってもいいくらいの身長だ。ハエの形をした悪魔も存在するという。小さいからといって油断はできない。そもそも腰が抜けてしまったようだ。動けない。私は悪魔の最初の生贄として捧げられることになるのだろう。ダメだ! 恐怖でもう目を開けていられない。
「姫様、少々、臭いますな……」
優しい幼女のような声? アレ? 私は恐る恐る目を開けた。そこに立っていたのは。見たこともない異世界の装束を身に纏った少女だった。シルバーブロンドの長い髪にルビーレッドの瞳。その整い過ぎた容貌は一目で人外の者と分かる。耳がエルフのように三角だが、それ以外は、神を模した美少女という風情だ。
だが、その者の発する気は禍々しい。黄泉の国の使者そのもののようだ。どう判断していいのだろうか? 私は何を召喚してしまったのだろう?
「姫様、失礼ながら、床を拭いて、お召し替えなされてはいかがでしょう?」
ぁぁぁぁぁああああああああ!!!!
見られた。見られたんだ!! 人生最大の恥辱。こっ、この歳になってのおもらしを。
もぅ、どうしよう。貴女が悪魔なら今ここで私を殺して。いや、いや、ダメだ。おしっこに塗れて死ぬなんて、もっと恥ずかしい。顔の火照りを隠せない。ふと目があった。ルビーレッドの瞳は確かに人ならざる者。でも、その奥に、どこか優しい暖かいものも感じる。この人は悪魔なんかじゃない。
「とんだ粗相を。申し訳ありません。貴女様は本当に、この世界の救世主様なのですね?」
「私は神の使徒にして断罪者です。ですから、恐ろしい気を出しているかもしれません。でも、神よりこの世を救うよう、命じられた者であるには違いありません」
「よかった。貴女は真に勇者様なのですね!」
冷静さを取り戻したが、この事態をどう収集してよいものか。人払いはしてあるので、しばらく誰かが来る心配はないが。ああ、いけない! 勇者様が水溜りに立ちっぱなしだ。
アナシア編の始まりです。えと。Hというにはマニアックなんですが、こういう感じにしてみました。
主人公も認めていましたが、彼女はこの異世界でもトップクラスの強力な魔道士です。しかも、頭がすごく切れる。主人公を召喚した張本人ですし、物語的にも「始まりの人」という位置づけです。
全体としてのテーマは冒頭にあるように「罪」についてです。
マックス・ウェーバーが言うところの「暴力装置」。人が人を殺せば殺人罪となりますが、国家が戦争で人の命を奪うことは合法とされています。異世界の倫理と考えると国家=王、女王でしょうから。そのような行為は少なくとも違法ではないでしょう。
でも。でもです……大多数の宗教において殺人を戒めていることからも、人としての倫理観は異世界でも共通でしょう。殺人への罪悪感がないハズはありません。とはいえ、とはいえ。時として、そのストレスマッハな行為を、心ならずも行わなければならない、というのもあるでしょう。
もう一点。本編でもあるように、この姫様は実のお父さんに死罪を宣告しています。父殺しという意味で、ベアトリーチェ・チェンチの物語(好きなので他の小説でも使ってるw)もイメージしています。16世紀にローマで起こった尊属殺人事件。史実です。衝撃的なストーリーですので、後にスタンダールが小説にしたり、彼女を描いた肖像画が残されていたりしています。
アナシアはメインキャラとして本編には出てきませんでしたが、設定を作った際、面白いキャラだなぁ〜と思っていました。私の思い入れもあり、本編〜外伝に至るラストに彼女の物語6日分を持ってきました。