②樹里
「ウォームアップは済んでる?」
僕の問いに緊張気味の彼女が頷く。
「オープンのクラスを受けてきました。すぐに動けます」
僕と、ポワントを履く彼女に、ウェインが振り付けの予定を話す。
「出会いの場面は日本へ行ってから、コールドバレエ(群舞)と合わせながらやるから。こっちでは二人のデュエットを完璧にしていこう。」
「はい」
彼女に、ウェインが場面とその振りを説明してゆく。
「この演目で一番有名と言っていいバルコニーの場面からね」
今日行われた舞踏会での初めての出会い。
見つめあい、心が惹かれあったあの瞬間。
そして、敵の家の者だと知った後の落胆。それにも勝る恋の喜び。
そんな心理をちょっとしたしぐさと表情で表現しなくてはならない。
振りをさらっているときの彼女は真剣そのものだ。
次はロミオの登場。
「何だ、誰かに振り移ししてもらったのか?」
「はい。・・・サラに」
「あぁ、そうか。・・うん・・そう、それでいいよ」
「はいジュリエット、ロミオに気付いてまず見つめあう。驚きと、戸惑いと喜びをもった瞳でね。・・そう・・で、バルコニーから降りてくる。軽やかにね」
そしてデュエットの振り移し。
軽いな、この娘。
すごく線が綺麗だ。
「分かったかな、途中まで音でやろう」
ウェインが音を流す。
バルコニーが置かれるはずの場所で、彼女が倉橋樹里からジュリエットへと変わっていく。
きらきらと輝く瞳。
それはまさしく純真で恋に恋するジュリエットだった。
ウェインも満足そうな表情で見つめている。
こんな娘だとやりやすい。
僕もロミオになって飛び出した。
僕を見つめる表情。
喜びに震える可愛らしい口元。
そして
軽い!
体重も軽いけど・・踊りが軽い。
まさに羽が生えているようだ。
重量挙げ・・なんて心境で踊らなくて済むな。
途中何度か振り移しを繰り返し、最後まで音で通す。
凄いな
覚えたばかりでこれだけ動けるのか・・。
どうしてこんな娘がソリストどまりなんだ?
スコティッシュってそんなにいいダンサーがそろっていたっけ・・・。
「ウェイン、彼女、いいですね」
「ああ・・。どんなジュリエットになるか楽しみだよ。June、お前、食われるなよ」
「え?僕が・・?アハハ。最高のロミオを踊って見せますよ。僕のことも楽しみにしていてください」
僕達は、汗を拭く彼女を見ながら、舞台の出来栄えを想像していた。
「樹里ちゃん、お疲れ様。あのさ、樹里って呼んでもいい?」
「あ、お疲れ様でした。はい、結構です。そう呼んで下さい」
僕は稽古場の片隅で、大きな荷物を肩にかけた彼女に声をかけた。
「今日はどこに泊まるの?まさかグラスゴーから通うわけじゃないでしょ?」
「はい、友達の所に泊めてもらう予定です」
「ふぅん、ボーイフレンド?」
「いいえ!違います。バレエ学校の同期の子です。ここのコールドをやっている子なんですけど」
「何だ、そうか。ハハ、彼氏かと思ったよ」
僕が軽くウインクしながら軽口をたたくと、樹里はあいまいな笑みをうかべる。
イギリスが長い僕には樹里の表情は上手く読み取れない。
困ってる?・・んだよな。
「彼なんていません。バレエだけで精一杯・・・。」
「うちの先生に釘を刺されてるんだろう。男を作るなって」
ウインクして笑うと
「そんな事はありませんけど・・・」
とまた樹里はあいまいに笑う。
先ほどの軽やかで、目が覚めるような、情熱的な美少女。
あれはジュリエットのものなのかもしれない。
イタリアのヴェローナの町に息づくまっすぐ出天真爛漫な少女。
でも今目の前にいる樹里は、稽古場に入ってきたときと同じように俯き加減に黒くて長い睫毛を伏せる。
「着替えたら、一緒に食事しないかい?」
「はい? 絢也さんと・・ですか?」
「うん。どう?」
「は・・い。友達は10時まで用事があるって言うし、どうしようかと思っていたんです・・」
「じゃあ、決まり。10時までデートだ! シャワー使うだろう? 30分後に入り口で待っているよ」
「はい」
樹里は稽古場とは別人のようだった。
口数が少なく、どこかおどおどとしている。
何をするのも遠慮がちだ。
「樹里は、海外に出たきっかけは何?」
サラダをサーブしながら僕が聞くと、おずおずと答えた。
「ローザンヌです」
「ローザンヌ?じゃあ、僕と同じだ」
「はい。絢也さんがゴールドメダルを取った後、毎年何人か挑戦しているんです。私もスカラシップが頂けて、ロイヤルバレエ学校に留学しました。卒業して、バーミンガムにコールドで入って、その後、スコティッシュに移りました。」
「どう?スコティッシュは」
「はい・・皆さんに良くして頂いているので・・」
皆さんに良くして頂いている?
僕は違和感を覚えた。
仲良くやっていたって所詮競争の世界だ。
この娘みたいに遠慮がちでやっていけるのかな・・・。
「僕の事は知ってた?稽古場で会っていたかな?」
「はい。絢也さんはみんなの憧れの人ですし・・・。発表会で絢也さんが『くるみ』をやったとき、私、ねずみで出たことがあるんです」
「ねずみ?じゃあ、小学生の時?ああ、僕が姉さん相手に初めてパ・ド・ドゥを組んだ時の事だ」
「はい、そうです」
樹里がやっと笑顔をこぼす。
やっぱりかわいいな。
「よろよろしてて、可笑しかっただろう」
「いいえ、とても素敵な王子様でした」
樹里は昔話をしているうちに緊張がほぐれたようで、良く笑うようになった。
バターナイフを取ろうとしたとき、同時に手が出て、樹里の手に僕の指が触れる。
ビクッと手を引っ込める樹里。
さっきまで手を絡め身体を寄せ合って踊っていたのに。
ちょっと可笑しかったけど、なんだかすごく可愛らしくて新鮮だった。
日本の女の子って皆こんな感じなのかな・・・。
何しろ中学卒業と同時に日本を出てしまったから、初恋の相手もその後の恋人達もみんな欧米人だ。
イギリス、フランス、スペイン系・・・。
恋人じゃなくたって、こっちの子達は皆自分をアピールする事に長けている。
バレエ団では階級の差は結構大きいものだけど、プライベートでは階級なんか関係ない。
コールドバレエの娘だって、積極的な娘は僕に寄って来る。
今の僕のGFがプリンシパルのサラだから、ここのところは落ち着いているけど。
「毎週、こっちに来てもらって悪いね。僕が行ければいいんだけど」
「いいえ、絢也さんは舞台がお忙しいんですから。今シーズンは私、暇なんです。コンテ(コンテンポラリー)が多くて」
「なんで?コンテは踊らないの?」
「いまいちニガテなんです。それが踊りに出るらしくて・・。キャスティングされませんでした」
「そうなのか。ま、僕にとってはラッキーだったかな。たくさん稽古の時間が取れるしね」
「そうですね」
ふふっと樹里が柔らかく笑う。
「毎回、今夜泊まる友達の所?」
「はい、そうできれば。ホテルに泊ってるとお金が無くなっちゃう。彼女がOKしてくれるといいんですけど・・・」
「もしよければだけど、僕の家はどう?僕のアパートメントは部屋が余ってるんだ。リハーサルの間だけ、ホテルのつもりで使って貰って構わないけど」
「え?」
「あ、心配しなくていいよ。僕、ガールフレンドいるし。襲わないよ?」
「あ、いえ・・そんな・・・。でも・・・」
僕の冗談に顔を赤くして、でもどうしたらよいのか迷っているようだ。
「ね、どう?そうしたら僕も、帰す時間を気にしないで稽古できるし。いいと思うんだけどな」
「・・・・・・・・・」
こういう娘はバレエの話でプッシュするのがいいかな・・。
僕はもっと樹里と近づきたいと思っていた。
別に下心じゃないと思うけれど。
それに僕と踊るのに、友達に対して気を使わせるのもなんだったし。
「僕のアパートメントなら、寝るぎりぎりまで役の解釈について話し合えるよ。樹里はこの役初めてだろう?」
「はい・・」
「僕もロミオは初めてなんだ。絶対成功させたいんだよ。樹里もそうだろう?」
「はい。それは・・」
「じゃあ、決まりだ。今日は友達の所。明日は僕の所。いいね!」
「は・・・い・・」
何となく丸め込まれたような顔の樹里を前に、僕は極上のプリンススマイルでコーヒーを飲み干した。
【用語解説】
ポワント・・・トウシューズ
バーミンガム・・・英国ロイヤル・バーミンガム・バレエ
スコティッシュ・・・英国スコティッシュ・バレエ
コールド・・・コールド・バレエ(群舞)の略
ローザンヌ・・・毎年スイス・ローザンヌで行われるジュニアのためのコンクール。若手のための登竜門として有名。入賞すると、有名バレエ学校に留学する資格が与えられたり、奨学金がもらえたりする。毎年NHKでも放送されている。
パ・ド・ドゥ・・・劇中、大抵主役の男女二人によって踊られる、形式の名称。(デュエットとも言う)
ちなみに・・・グラン・パ・ド・ドゥというと、最初に二人の踊り、次に男性のヴァリエーション、
女性ヴァリエーション、また二人によるコーダ、という形になる。
コンテ・・・コンテンポラリー、現代バレエ。クラシックバレエは動きに厳格な制約があり、それが美しさに繋がっている。コンテンポラリーはそういう制約は一切ない。フリーに動いて現代的な表現をする。