武士と怪鳥
「来たぞ」
櫓の物見が震えた声で叫んだ。
武士達は色めきたち、掲げた松明を揺らしながら顔を見合わせる。
この紫宸殿に、弓を構える者は一人もいない。
誰かがやるだろうと、誰もが思っていた。
「来た、来たぞ。おい」
物見が梯子を下りながら叫んだ。
皆、夜空を見つめて震えている。
見物の公卿達も消えていた。
「いつまで」
空の向こうから、奇声が轟いた。
武士の密集が自然と解け、互いに距離を取る。
「いつまで」
二度目の直後、櫓の屋根が吹き飛んだ。
焼けた木くずが散らばり、兜を叩く。
一人が叫び、皆が続いた。
「いつまで、いつまで」
櫓が倒れ、武士が転げ、中庭に火の玉が降り注ぐ。
ある者は狂乱し、ある者は軒下に駆け、またある者は周囲に斬りかかった。
門に複数が殺到し、押し合っているところを雷が貫いた。
「いつまで、いつまで」
上空を大きな羽音が旋回し、奇声の度に火と雷が落ちる。
誰もが得物を捨てて耳を塞ぎ、あえて立ち向かおうとはしなかった。
紫宸殿の騒擾は一刻ほど続き、やがて奇声が遠ざかった時。
絢爛な殿舎は、夜を照らすように炎上した。
時は建武。
改元後初めての秋のことだ。
怪鳥が現れ、内裏は震撼した。
………
……
…
翌朝。
「北面の中に、誰ぞおらぬか」
半ば焦げた紫宸殿の前で、北面の筆頭が参集した武士たちに問いかけた。
「獣風情に二度の屈辱はないぞ。射落としてみせよ」
誰も顔を上げようとしない。
身じろぎ一つせず、地面を睨みつけていた。
昨夜は怪鳥騒ぎの後、夜が白むまで火消しに追われた。
これ以上の労苦はごめんだった。
「誰ぞおらぬか」
声が裏返るほどに張り上げられ、武士たちに呼びかけた。
気まずい沈黙が、じめじめと続いた。
「この、腰抜けどもが」
筆頭が庭石を蹴り、唾を飛ばした。
威厳はない。回廊の下で怯える様を、皆見ていたのだ。
誰ともなくため息が漏れ出し、波のように広がっていった。
「ええい。散れ、散れ」
集会が終わり、北面の武士たちはぞろぞろと持ち場へ戻っていく。
腰抜けはどっちだ、と誰かが呟いた。
「左大臣殿が」
皆が振り返った先に、一人の若武者が未だ座り込んでいた。
背筋が真っすぐに伸び、よく通る声だった。
「二条左大臣殿が、隠岐次郎広有という者を連れておりまする」
………
……
…
「なぜ俺を巻き込んだ?」
紫宸殿の庭。
建て直された櫓の上で夜空を眺め、一人の鎧武者がぽつりと呟いた。
無精髭が生え、背中の曲がった小男であった。
脇に抱えた弓だけが異様に大きい。
「広有殿は源氏でございましょう」
返ってきた声はまだ少し高く、澄みきっていた。
太刀を肩にかついで堂々とした立ち姿は、いかにもな若武者ぶりだ。
「違う」
「えっ、違うのですか」
「誰に聞いた」
「北面の皆がいつも。だから弓が上手いと」
広有は舌打ちし、隣に立つ若武者を軽くぶった。
勘違いで巻き込まれたのだ。
本来、紫宸殿の厄介ごとは北面の管轄である。
「数がいるだけか、おのれらは」
「ははは、私も逃げ惑いました」
聞くに、件の怪鳥は奇声と共に火と雷を吐くという。
幾夜も紫宸殿の上空で鳴き続け、昨夜はとうとう北面の武士たちを蹴散らした。
公卿達の怯えたるや、政務どころではない。
帝も清涼殿に籠り、怪しげな僧共に祈祷をさせているらしい。
「左大臣殿の屋敷まで聞こえるでしょう」
「ああ、うるさくて毎晩目が覚める」
「屋根の上を舞うのです。皆、耳を塞いで射るどころではなかった」
広有はちら、と櫓の下を見た。
負傷者が多数出たこともあり、備える武士は普段より少ない。
見下ろす広有に気づいた者が、源氏殿と野次ってきた。
矢を一本抜き、足元に投げおろして黙らせる。
「今夜来なかったらどうする」
「絶対来ますよ。ここ一週間、私の役は火消しでした」
「そりゃいいな。また都が戦場になっても役に立つぞ」
「滅多なことを」
「どうかな、わからんぞ」
他愛のない問答に、広有の緊張が緩む。
鵺討ちの再来を、と大勢の北面に押しかけられたのだ。
拒むことすらできず、あれよあれよと今夜紫宸殿に侍っている。
冗談ではなかった。自分は伝説に名高い源三位ではない。
「射落とせば、どれほどの褒美が貰えましょうね」
「くれてやるぞ、お前が射てみろ」
「無理ですね。あれが来たら逃げますから」
広有は瓶子を傾け、中の酒を一口呑んだ。
気つけ用だ。酔わないように薄くしてある。
二条の神事で射る時も同じようにして呑む。
怪鳥はたとえ射ても、神仏に捧げるほかない。
捧げ物は己の技一つで捧げると、決めていた。
「あっ。来た、来ました」
櫓の下から欠伸が聞こえ出す頃。
夜空を眺めていた若武者が、声をあげた。
広有はもっと先に気づいていた。
満点の星の中に蠢く、どす黒い雲一つ。
目を凝らすまでもなく、巨大な羽が羽ばたいていた。
「広有殿、弓を」
「下りるぞ」
「なぜ」
「庭に射落とす」
にわかにざわめき始めた庭に、広有は下りていった。
「いつまで」
ばさばさと羽音が近づき、奇声が轟き出す。
北面の武士達は既に殿舎の中に逃げていた。
誰も弓など構えていない。
皆火消しの水桶を持ち、息を潜めて怯えている。
若武者だけが広有と共に、紫宸殿の庇の下にいた。
「いつまで、いつまで」
櫓がまたも吹き飛ばされた。
轟音と共に屋根が火に包まれて宙を舞う。
奇声が一段と大きくなった。
耳が裂けるほどに轟き、人々を苦しめる。
「広有殿、早く」
「まだだ、まだ」
火の玉が降り始めた。
庭が炎上し、夜が明らんでいく。
「いつまで、いつまで」
怪鳥は紫宸殿のすぐ上に来た。
口から稲光が迸り、二人の傍にも着弾する。
若武者は歯を打ち鳴らし、もう狂わんばかりだ。
「広有殿、広有殿」
「………」
怪鳥は奇声を上げつつ、紫宸殿の上で旋回を始める。
広有は無言で弓を構えた。
矢は鏑矢だ。魔を祓う矢である。
「いつまで、いつまで」
「石を投げろ」
「へ…」
「石だ」
若武者に促し、予め持たせていた小石を投げさせる。
震える手での投石は見当違いの方に飛び、雷に貫かれて砕け散った。
投げた方には気づかれていない。怪鳥も所詮は獣だ。
「いつまで、いつまで」
「石」
「だめ、怖い」
「いいから石だ。庭の真ん中、二つ」
若武者は両手を降りかぶった。
一個が庭の中央に飛んですぐ火に焼かれ、もう一個がその脇をすり抜けた。
「いつまで、いつまで」
怪鳥が高度を落とす。
屋根の上空から、屋根と同じ高さまで。
おぞましい顔つきが篝火に照らされた。
「石」
「どこ、どこに」
「顔にあてろ」
若武者が息を呑んだ。
数拍の後、えいと放った。
「いつまで」
「死ね」
鏑矢が鳴り響いた。
ずずんと内裏が揺れ、奇声が止んだ。
………
……
…
数日後。
「広有殿」
「ん、おのれか」
内裏に続く大路で、広有と若武者は出会った。
若武者は鎧姿ながら広有は平服。
非番の日であった。
「おめでとうございます。因幡国の大荘園を賜ったとか」
「この時世に、僻地の所領を貰ってもな」
「ははは、照れ隠しですか」
「そういうおのれは、ようやくお目覚めかい」
「いや、面目ない」
頭を下げる青年の背を、広有は軽くぶった。
怪鳥退治の直後、泡を吐いて倒れたのだ。
そのまま数日、眠っていた。
「しかも帝より"真弓"の姓を賜ったらしいですね」
「ああ。ありがたくもこっ恥ずかしいことだ」
「とんでもない。北面の詰め所ではまだ噂ばかりしてますよ」
「へぇ、なんて」
「さすがは源氏だって」
広有はもう一度、若武者をぶった。
"以津真天"
建武の秋に紫宸殿に現れ、隠岐次郎広有に討たれた怪鳥である。
頭は人、身体は蛇、嘴には鋸歯が生え、羽を広げれば一丈六尺あったという。
「いつまで、いつまで」と鳴くその声は、失政への批判とも死者の怨嗟とも。
その真意は、誰にも分からない。
続きません。