01 氷を食む①
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五秒くらい、耐えてください。
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長い刀身が喉元に向かって飛んだ。すぐさま血飛沫を見る筈が、手応えがない。空ぶった。思わず舌打ちする。氷上を滑走する音が聞こえる。それは徐々にスピードを上げ、鋭い音へと変貌していく。
そして――跳んだ。跳ぶ音だ。目で追いつく前に向こうの攻撃が入るだろう。たった一撃でも十二分に重い。視覚には頼れない――ならば、聴覚、触覚。
背後に――正確にいえば、真後ろより右に十六度、高度は自らの頭部を基準に三十八度の位置に――冷気を感じた。
思い切り、振り抜く。
烏刃徹による一撃は、たしかに敵の腹を斬った。想像していた通りの量で、返り血。冷たい血だった――そう肌が感じて、次に耳が呻き声を捉えた。効いている。効いているが――浅い。
固い音が響く。氷上に着地した音だ。殺すには足りない。まだまだ足りない。敵はしぶとい――と、今度は敵を目で捉えた。
ところどころ凍てついた長い黒髪。
太陽に当たったことがないかのような蒼白い肌。
人間でないこと明白であるその女は、しかしどこかの学校の制服を身に着けていた。
刀を、構える。黒のロングコートが風になびく。深夜、立体駐車場、四階。高級そうな車がずらりと並ぶ中、繰り広げられていた戦闘。異質な空間だった。床はスケートリンクのように綺麗な氷が張られ、天井からは氷柱がめきめきと音を立てて伸びる。冬ですらあり得ない光景、しかしいまは春だった。
先に動いたのは、女だった。
ふっと消えた――遅れて滑走音が聞こえる。音速、それ以上。音が同期して届かないのならば、いよいよ聴覚にも頼れない。
勘と、皮膚。
生まれて三十余年、ここまでの緊張感はそうそうなかった――烏刃は脳の片隅でそう思う。ひとつのミスが死に直結する。感覚が研ぎ澄まされていく。世界がスロウテンポになる。右に回った。そのまま高速で移動し――
左。
スッと斬りつければ、再びの鮮血が舞った。その紅の色は宙に飛び散り、一瞬の光沢を放つと、色を失い凍った。
――凍った。その先端は、鋭利。
烏刃を目がけ、飛び散った。
「クソがッ」
長いコートを翻し、その鋭い氷たちを弾く。その瞬間できた隙を、女は見逃さなかった。違う、この一瞬の隙の為に、女はすすんで斬られた。
ひとつのミスが死に直結する。
背後、完全に死角であった。超速の一撃が烏刃の胴を貫いた。
そのはずだった。
血飛沫はない。
女には手応えもない。
――鉄のにおいがした。
立体駐車場の中、乾いた発砲音が鳴り響いた。それは残響を轟かせ、女の耳にも聞こえていた。聴覚が発砲音を感じ取ったのとほぼ同時、肩に激痛が走る。絶叫する、女がいた。
背後にいたのは烏刃だった。右手の刀を肩に担ぎ、左手には自動拳銃。肩を撃ち抜かれた女は、呻きながらよろよろと逃げようとする。再度、烏刃は容赦なく発砲した。しかし銃弾は二度とは当たらなかった。手負いとはいえ、人外。銃弾を避けるくらいの体力は残されているようだった。
女は烏刃から遠ざかるように動く。烏刃は女ににじり寄りながら、もう一発、二発、三発、四発と撃つ。そのなかの一発が女の太ももを掠めた。恐怖が、女の顔を歪め彩っている。
勝敗は決していた。
恐怖に屈した方の負けだ。
また女が消える。今度は音も同時に聞こえた。烏刃にとっては、それほど速くない。むしろ――遅い。目で追えてしまっている。女は烏刃との距離を図っているようであった。
仕掛けてきた瞬間に、斬り返す。それで勝てる。
しかしそれが甘かった。
女は氷を蹴った。来る、身構えたが違った。それは加速の為ではなく、氷の礫を空中に蹴り上げるためだった。礫は意志を持つように烏刃に向かってきた。それを軽くいなすが――肝心の女は襲ってこない。
まさか。
気付いたときには遅かった。女は既にこの立体駐車場から脱出していた。四階という高さから、飛び降りるという形で。
逃げられた。やつが逃げる筈がないと思っていた――いや、逃げられる筈がないと。
「……結界」
烏刃はそう独り言ちた。戦闘の最中は気付かなかったが――事前に張っておいた筈の結界が消えている。
人ではないものが、越えられない障壁。それが結界である。
結界は自然に消えることなどない。取り除けるのは結界を張った本人――つまり烏刃のみである。しかし、もちろん烏刃は結界を解除などしていない。
だとすれば。
「……壊されたのか? だれかに」
厄介なことになりそうだ。烏刃は溜息を吐いて、ポケットから取り出した煙草に火を点けた。