桜の下で待ってる
「――――約束の日が来たわ」
穏やかな春の日差しが陰りを見せ始める、午後三時。
空の色が飴色に変わっていく。
太陽が落ちるまで、あとどれくらいだろう。
そんなことを思いながら、私は服を着替え始めた。
シャツを脱ぎ、スカートをベッドの上に置いて、下着姿になる。
「どの服がいいかしら……」
私室のクローゼットを開いて、そこに並んだ洋服を眺めた。
持っている服の数は多くない。
それでも悩むのが、少し滑稽に思えたりもする。
「これに、決めたわ」
淡い水色のワンピースを選んだ。
あの人が買ってくれたものの中で、一番気に入っている。
私はハンガーからそれを外し、頭から被るようにして着付けた。
部屋にある鏡で、自分の姿を確認した。
あの人は桜の木の下にいる。
待ち合わせをしている。
桜色と水色が、きっと良いコントラストになるだろう。
「――――うん」
彼はどう思うだろう、と考えると、自分の顔が赤くなっていくのがわかった。
いけない、いけない。
期待しても仕方のないことだ。
だって、私は、会ってはいけない人と会うのだから。
どうなるかなんて、わからない。
けど、会えないよりは、いい。
愛しい人。
「そう、私はあなたを――――」
鏡は私の顔を映していた。
これでは私自身に告白しているみたいだ、と思ったら、ひどく滑稽に思えてきた。
ふふふ、と声を漏らし、そのまま身だしなみを整えた。
最後の確認をすると、私は部屋から出る。
足取りは軽い。
玄関を出る前に、誰もいない家に向かって、いってきます、と言う。
くせみたいなものだ。
ドアを閉めた。
さあ、いこう。
見上げた空は焼け始めていて、地平線から鮮やかな藍が這い出してきている。
すぐに夜へと変わるだろう。
約束の時間は、そこまで迫っていた。
柔らかな日差しで温められた空気は、次第に熱を失い、刺々しさを増す。
鼻の頭が冷たいなぁ、などと思う。
薄手のワンピースは、容赦なくその冷気を身体に伝えた。
「ふふふ」
手を擦り合わせながら、それでも上機嫌でいられたのは、あの人と会えるから。
それ以外に、何もいらない。
私は知らぬ間に、小走りになっていた。
小高い丘の上に、辿り着く。
春なのに、息が白い。
「――――ぁ」
丘の上は、桜色の霧に覆われていた。
しんしんと散る花弁は、音も無く地面に積み上げられていく。
一面の桜。
私は夢でも見ているような気分になって、とある桜の木に向かって歩を進めた。
一歩進むごとに、嬉しさが込み上げてくる。
あの人まで、もう少し。
あと一歩。
私は桜の木に辿り着いた。
「……会いに来たよ」
人影は私しか無い。
花弁が私に降り積もる。
空は既に夜の帳を下し、ざあ、と風が舞う。
桜の花弁が散る。
「は、はは」
私は力を無くすように、膝をついた。
地面に両手を置き、感情のままに涙を流した。
「ねぇ、約束したでしょ?」
地面を力任せに握る。
爪の間に、土くれが入る。
けれど、手の痛みなど、何の役にも立たない。
彼以外に、何もいらない。
だったら、この手に、どれだけの価値があるというのだろう。
「――――っ」
地面を掻いた。
何度も、何度も、感覚が無くなるまで。
爪が剥がれ、皮膚が裂け、血が流れ、手が本物の土くれになってしまったかのようになるまで。
必死だった。
私の指先は、短くなってしまった。
「は、っは、あははは、はっ」
吐いた息が白く流れる。
私は両手を抱えるようにして、真っ白な骨を見つけた。
「うふふふ、うふっ」
それが、彼だ。
私の腕の中で抱かれている頭蓋骨こそが、彼だ。
ようやく会えた。
約束を果たした。
私は彼についた土を払ってやり、舌で舐めて綺麗にした。
真っ白な彼。
優しかった彼。
桜の木の下で、待っていてくれた。
私の大切なあの人。
「久しぶりね」
私は彼に口づけをした。
桜が舞い散る。
丘から、街の明かりが遠くに見えた。
私と彼に、桜の雨が降る。
すべてを埋め尽くしてしまえばいいのに、と私は思った。
短編を切れ味重視で書こうとすると、途端にホラーが増えます。
やっぱり印象が強いからでしょうね。