第7話
フォークを床に落とす音まで加わり、店内は水を打ったような静けさに変わった。立ち上がった小西先輩が泣きわめくので、視線がそこに集まる。先輩はパンケーキを指差していた。
「最悪! 虫よ、虫が料理に入ってる!」
すぐさま海一郎さんが立ち上がり、小西先輩に近づいていった。私は血の気の引いた顔でそれを黙って見つめていた。重なったパンケーキの間から、黒い虫の頭がはみ出ていた。
「申し訳ございません。すぐにお取り替えします」
そう言って伸ばされた海一郎さんの手を小西先輩は振り払った。
「いらないわよ! だから言ったのよ、あそこのスタッフは人に虫を食べさせようとばかりするって。私に対する嫌がらせでしょ。それともなあに? ここの責任者はそれを知っててあの人を雇ってるの? 責任者を出して!」
「私が責任者です」
「ああそう。だったらあの女に謝罪するよう言ったらどう?」
「いえ、まずは私がお話しを伺います」
海一郎さんはわめく小西先輩から私を守ろうとしてくれている。だけどそれでは何も変わらない。自分で言わなきゃ。そう思うのに、震えるばかりで言葉が出てこない。
「私はフードコーディネーターとして雑誌に連載を持ってるの。この店のことを書き連ねても構わないのよ!」
どうしよう、私のせいでお店が。
「あ、あの……」
やっとの思いで声を振り絞った。
「私は、虫を人さまに提供する料理に使ったことはありません」
「証拠がないじゃない。それに見てたのよ、この料理をあなたが作っているところ。あなた以外のほかの誰も手を付けてなかったわ」
嫌な思い出がフラッシュバックしてきた。あの時と同じだ。虫を料理に混ぜられ、罪を着せられた。今回もまた、無実の証明が出来そうにない。
すると虫を見つめながら目をしばたかせていた海一郎さんが、急に素っ頓狂な声を上げた。
「これ、食用のイナゴじゃないですか? トッピングにしちゃ奇抜だけど、食用なら別に問題ないですね」
小西先輩の表情がさらに怒りに歪んでしまった。海一郎さんは慌てて手を振った。
「あいや、気に障ったならすいません。けどお客さん、ご自分でしたトッピングに何を文句つけてるのかと」
「呆れた、ありえない。上司がこんなんだから部下も部下なのよ。こんなの自分でやるわけないでしょう? 第一ふつう、虫なんて食べないわよ」
「そうですか? でも、食べてみたら意外とおいしいですよ、虫」
にわかに店内がざわつき始めた。小西先輩が一瞬言葉に詰まった。
「汚いし、どんな寄生虫を持ってるかわからないわ」
「衛生面はきちんと処理してから食べればいい話です。魚だって一緒でしょ」
その時、黙って傍観していた健吾君が急に叫んだ。
「あー! かいちゃん、あれ、あれ!」
健吾君の指さす先は小西先輩の座っていた座席の足元だった。先輩のバッグが横に倒れ、中を一匹の毛むくじゃらな生き物が漁っていた。
私もぎょっとしたし、小西先輩なんかは悲鳴を上げて飛びのいた。毛むくじゃらは黒くてサイズも見た目もモルモットに似ていたが、二本足で立ち器用な手つきで中身を放り出す動作がどこか人間にも見えた。その毛むくじゃらがバッグの中から黒いものの入った筒を取り出して蓋をかじりだした。よく見ると、筒の中身はイナゴの佃煮だ。
「これ、あっちいけ。そりゃお客さんのだ」
海一郎さんが足で小突くと毛むくじゃらは飛び上がって四足歩行になり、入り口へとすっ飛んでいった。私の足元を通るので思わず身をすくめた。砂浜に出ていく毛むくじゃらを見送り視線を戻すと、健吾君がパンケーキに挟まったイナゴをつまみ上げていた。
「証拠発見、じゃねえのこれ」
海一郎さんはそれと足元で転がるイナゴの佃煮を交互に見ると、ぱっと笑顔になった。
「ほら、やっぱりご自身でトッピングなさったんじゃないですか。イナゴなら食べられるんですね」
「……た、食べないわよ」
「かいちゃんバカなの。これ太蔵さんとこのイナゴだよ。食べるためじゃなく、料理に混入するために買ったんだよ。土産目的であの店に寄ったら、目ざとく見っけたんだろ。大方、自分で虫を捕まえられないから、これならと思って買ってきたってとこだ」
「んあ? そうなのか」
小西先輩の顔は真っ赤になっていた。否定する声が一段と大きくなっている。
「イナゴの佃煮なんて買った覚えもバッグに入れた覚えもないわ。さっきの動物、あれなんなのよ! あれが入れたんじゃないの」
「ううん、そんなことするかなあ」
海一郎さんは顎に手を当てた。
「あれは広島の山中に生息しているヒバゴンの近縁種ですよ。見た目通りにモルモットくらいの知能しかありません。ヒバゴンは昭和四十年代によく目撃されていた未確認生物なんですが、絶滅しちまったのか近頃は現れません。今残っているのはそれの小型タイプだけですね。ちなみにイナゴの佃煮は大好物なんで、漬物屋のご主人には気を付けるよう伝えたのですが」
「そんなこと聞きたいわけじゃ――」
「あそこのイナゴ、年に二、三パックくらいしか売れないってんだよねえ」
小西先輩の言葉を遮った健吾君はしらけた目を向けていた。
「最近誰が買いに来たか、聞きにいけばわかるんじゃねえの?」
小西先輩は唇をかむと健吾君と海一郎さんを睨みつけていた。店内で同窓会中だったおばさまたちがやおら立ち上がると、小西先輩に不敵な笑みを向けた。
「あんた、海一郎ちゃんバカにしてんのかい」
「海一郎ちゃんが食べた虫の数は星の数。イナゴごときでビビり散らしてんじゃないよ」
「待て待て」
海一郎さんはおばさんたちに掌を向けた。
「さすがにそこまで食っちゃいねえ」
店内の異様な空気に私の動揺は収まらない。何も出来ない歯がゆさの中立ち尽くす私に、将生おじさんの奥さんがそっと寄り添ってくれていた。
海一郎さんは小西先輩に向き直ると、困ったように眉を下げて笑った。
「あなたはフードコーディネーターとしてプライドを持っているんだな、となんとなく感じます。しかしあなたには味覚の偏見がある。そうじゃありませんか? 奈々は確かに昆虫を食せます。それは純粋に味覚への探求心があるからで、偏見がない証拠なんです。あなたは自分にプライドがあるゆえ、自分にないそれが、気になって仕方ないのでは? 奈々は誠実な人です。彼女が虫を混ぜていないと言うからには、そうなんでしょう。責任者である私は、奈々を信じます」
今や小西先輩の声は金切り声になっていた。
「変よ! 感覚がいかれているのよ、あんたたちは!」
「あ、さっきそこの磯でアメフラシ採ってきたんですけど、食べます? 味覚の偏見が治るかも」
海一郎さんの発言を受け、さっと動いた沢西のおばさんが厨房の奥からアメフラシのバケツを持ってきた。中身を見せられた小西先輩は鳥肌を立てて悲鳴を上げていた。
「もう二度と来ないわよ、こんな店!」
バッグを拾い上げて足早に店を逃げ出していく。呆然と眺めていた私は、急に我に返ってそのあとを追った。
店を出て、先輩は砂浜で寝転ぶ仲間の元まで砂を蹴り上げながら歩いている。その背に声をかけた。
「何よ?」
振り返った先輩は苛立ちを視線でぶつけてきた。
「あの」
私は胸元で拳を握りしめた。
「もう二度とこんなこと、しないでください。私はもう逃げませんから。今回のこと、会社には黙っておきます。けどもし海一郎さんやコアニアニのことを悪く噂するようなことがあったら、その時は」
勇気を振り絞って先輩を直視した。舌打ちして先輩は吐き捨てた。
「都会から逃げた女が、田舎でうまくやってけるなんて思ってんじゃないよ」
それから先輩は踵を返して仲間のもとに戻っていく。仲間たちが何してたのかと問うと、先輩は怒鳴り声を上げていた。
都会から逃げた女、か。
***
その日の晩、酔いつぶれたという海一郎さんを飲み屋まで迎えに行き、陽向家の敷地で介抱していた。同窓会の三次会にまで連れまわされた挙句、限度を超えるまで飲まされたらしい。
「海一郎さんザルかと思ってました」
タープの下、バケツを抱えて吐き気に耐える海一郎さんは蒼白い顔に苦笑いを浮かべた。
「思ってるより底の浅い男なんよ」
「またそんな言い方」
くすりと笑いが出てしまう。
「飲めないなら断ったらどうですか?」
「そうなんだけどさ、みんな大事だから。誰も彼も、あの人も、あの人も」
首をかしげた。
「今日は本当に助けられました。みなさんにも、海一郎さんにも」
「俺? 俺は助けた覚えはないけどなあ。思ったことを口にしただけで。それにマジでアメフラシの煮つけ、食べさせてやりたかったんだけど。助けたのはおばちゃんたちと健吾じゃない? あとミニヒバゴン」
「そうですね、ミニヒバゴンもでした」
夜になって風は陸風に変わり、山から熱を逃がす風が吹き降りてくる。風は私たちの間を通り、海へと抜ける。
海一郎さんはごろりと地面に寝転ぶと、目をつぶって歌い始めた。
椰子の実というタイトルの歌で、どこかの島から流れついた椰子の実は、故郷の岸を離れて幾月になるのか、という内容だった。
海一郎さんは目を開け、薄っすらと微笑む。
「みんな、沖谷に生まれてここを出て行った人たちなんだ。結婚や進学、就職なんかの理由でね。でも毎年集まって、俺んとこくるの。そのたった一年に一度の縁なのに、時々こんな風に俺を助けてくれる」
「海一郎さんが助けられたんですか?」
「そうだよ。みんなが奈々ちゃんに勇気をくれたから。俺だけじゃそうさせてやることは出来なかった」
頬がほんのり熱くなった。最後の先輩とのやり取り、聞かれてたんだ。
「都会から逃げた女って言われちゃいました」
「そういう発想、シガラミに囚われてるっていうんだよ。どう考えるかは奈々ちゃん次第よ」
小さくうなずいて、闇にまぎれた遠い海を見つめた。海一郎さんは続きを歌った。椰子の実は島崎藤村の詩に曲をつけたものなのだとか。
詩の中で作者は椰子の実に自身を重ね、海に沈む日を見ながらいずれ国に帰ると涙する。
東京か。帰りたくないな。
「夏が終わったら、私はどこにいるんでしょう」
「ゆっくり考えて選んだらいいよ。君がふるさとの岸を離れて遠く流れる椰子の実になるのか、ふるさとの地に根をはる椰子の木になるのか」
どっちだっていい、どっちだって大丈夫。
椰子の実のような海一郎さんはそう言った。
どう選ぶにしても、まだ確信は何もない。それはこの夏で見つかるのだろうか。
海は夜でも見えるものだと思っていたけれど、まったく見えないものなんだとここに来てから初めて知った。表情は見えず、ただ波音は優しい。
「あら」
眼下の民家の敷地から光る眼がかけ出てきた。ランタンの光にあの黒いけむくじゃらが照らされた。ミニヒバゴンだっけ。ミニヒバゴンは海一郎さんのお腹の上に飛び乗ると、這い上がって顎を舐めていた。
「くすぐってえ」
ケラケラと海一郎さんは笑って半身を起こすと、ミニヒバゴンを手の平に乗せ指先で顎を撫で返していた。
「お前は広島に帰んな」
ミニヒバゴンがこくりと頷いたように見えたのは気のせいだろうか。恐る恐る指を伸ばして、海一郎さんのように顎を撫でてみた。ふわふわとした毛と柔らかな肉付きをしていて結構気持ちがいい。
「今日はありがとね、ミニヒバゴン」
またこくりと頷いた。ように見えただけだろうか。もしかしたら、そういう動きをする生物なだけかもしれない。ミニヒバゴンは海一郎さんの手から飛び降りると、背後の真っ暗な雑木林に向かって駆け出した。
「ちゃんと帰れるんでしょうか?」
「あれで本能は優秀なんだ。大丈夫だよ」
ミニヒバゴンはくるりとこちらを振り返った。二本足で立ちあがると、小さく右手を持ち上げた。そしてまた背を向けると、林の中に消えていった。
「そうだ。奈々ちゃんアメフラシ食べる?」
「はい、頂きます」
「よっしゃ。んじゃ、いっちょ作りますか」
酔いが回っていることを忘れていたのか、海一郎さんは勢いよく立ち上がると、蒼ざめてまたバケツを抱え込んでいた。
※次回から2章です。




