第4話
八月十七日、木曜日。私は久しぶりにバイトの休みをもらった。台風は九州に足をかけ、そこで大雨をもたらしているようだ。沖谷ではまだ雨は降っておらず、曇り空の中セミが何匹も鳴くごく日常的な夏模様だ。
天気予報を確認してから、陽向家の敷地を出て海岸沿いの道へ向かった。海に目をやると、砂が舞って濁った波が強く寄せては引いている。監視塔に掲げられた旗は赤旗だ。つまりは遊泳禁止。コアニアニの建物も夜には避難される予定だと聞いていた。
私は民宿沢西の前で足を止めた。綺麗さを保った古民家で、玄関には暖簾がかかっている。そこをくぐり、曇りガラスの戸を開けると真ん中に囲炉裏のある少し広めのホールが広がっていた。奥のカウンターで、沢西のおばさんがほほ笑んで手を振った。手を振り返して、頷いた。予定していた通りに、沢西のおばさんは私を乙葉さんの部屋まで案内してくれた。
乙葉さんは海側の二階に泊まっていた。おばさんが声をかけてすぐに、戸が開かれる。緊張で顔がこわばってしまう。出迎えた乙葉さんに笑みはなく、淡々と頭を垂れたので私も深々と頭を下げた。
「突然の訪問で申し訳ありません。岸田奈々と申します。海一郎さんが経営する海の家でアルバイトをしている者です」
「吉仲乙葉です。夕べ、ご連絡をいただいた時には驚きましたけど、海一郎のことでしたっけね」
改めて間近で見ると、綺麗な顔をした人だった。ただ肌につやがなくて、血色が悪く見える。後ろでまとめた髪も見た目を意識したものというより、邪魔だからとりあえずまとめたという感じだ。昔からこうなのだろうか。それとも、五年前のあの日から――
お茶を淹れて来ます、と言って沢西のおばさんがとてとてと階段を下りていく。部屋には備え付けのお茶があるというのに、おばさんも気になっているのだろう。
窓際に寄せられた座椅子に向かい合って座った。間に挟んだちゃぶ台に乙葉さんは掌を重ねて乗せていた。緊張から、私はその手と窓の外に目を泳がせる。障子は開け放たれていて、海が見渡せた。
「台風が来るそうですね」
乙葉さんも荒れる海を見ていた。
「あの日と同じ。訊きたいのは、五年前のあの日のことでしょうか」
ゆっくりと視線がこちらに向けられた。私はそっと呼吸を整え、見つめ返した。
「お辛いことを訊くようで、申し訳なく思います。ですが、出来る限りありのままに教えて欲しいんです。どうしてあの日だったのか。あの時、具体的に何があったのか。海一郎さんはもう一度メロウに会おうとしています。その目的がわかるなら、それも教えて欲しいんです」
視線が外れて、乙葉さんは窓のふちの辺りを見ていた。腕をさすりながら、しばらく押し黙っていた。記憶を辿るような顔だ。
「どうしてあの日、八月十八日でなければならなかったのか、それは私にもよくわかりません。確か、海一郎は台風の日でなければならない、とよく言っていました。台風で大しけの海に近づこうだなんて、危険だからよして、とよく言い聞かそうとしていたのを覚えています。けれど海一郎は、会えたらすぐに帰るからと、いつもそう笑っていました」
「やっぱり、台風なんですね。他には何か言っていませんでしたか? メロウが陸に近づく条件をです」
「どうだったか」
乙葉さんは小首をかしげ、頬に手を当てた。
「メロウは人に見られるのを避けている。だから台風の荒天は人目が避けられるから近づいてくるんだ、というような説明は受けた気がします。けれど、その他にもそうあることじゃない自然現象の組み合わせが必要で、チャンスはあまりないと話していたかと」
私はゆっくりと頷いて、今の話しを頭に刻むべく、反芻した。自然現象の組み合わせ。条件はすべて、自然現象にまつわるものだ。
「それ以上のことは聞いたことがなかったと思います」
「ありがとうございます。それで海一郎さんは実際にメロウに会いに行き、事故が起きたと聞いています」
「そこで具体的に何があったのか、ですよね」
はいと頷いて返すと、乙葉さんは困ったような顔になってしまった。唇を噛みしめ、考え込んでいた。子どもを失ったこの人には、やはり残酷な質問だったろうか。
沈黙が続いてしばらくすると、戸がノックされ沢西のおばさんが入ってきた。女ふたりだからと気を使ったのか、盆には紅茶とマドレーヌが乗っていた。
おばさんはあえて乙葉さんには視線を送らずにお茶出しを終えると、会釈をして出て行った。そのあとに、ようやく乙葉さんが口を開いた。
「私の娘は、海一郎に本当によく懐いていました。誰が教え込んだわけでもないのに、いつの間にかパパと呼んでいたんです。海一郎も自分の子ではないのに可愛がってくれて、いつか籍を入れてちゃんと父親になろうと思う、なんて話してくれた時は嬉しかったものです。だけどそれだけ、あのふたりは近すぎた」
言葉が途切れて、乙葉さんは下を向いた。私は辛抱強く、彼女が再び顔を上げるのを黙って待った。
「きっとこれから話すことは、海一郎が誰にも教えていないことだと思います」
意を決したように乙葉さんが顔を上げた。だけど視線ははるか遠くを見ていた。私は姿勢を正して、彼女の言葉に耳を傾けた。
「海一郎の魂を寄越すなら娘の命を助けると、メロウはそう言ったと聞いているかと思います。この言葉には、実は続きがあるんです。『魂を寄越すなら、それが何年先だったとしても娘を助けてあげましょう。私たちは何年でも待てる。五年でも、十年でも。娘の肉体は朽ちずにずっとあり続ける。私たちがあきれ果てない限りは、約束を守りましょう』これが真実です」
目を見張った。額にじっとりと嫌な汗がにじむ。
「じゃあつまり、海一郎さんがもう一度メロウに会おうとしているのは……」
「償いなのでしょう。いよいよ今年、それが叶うかもしれないから、それまで沖谷にいてくれと彼は私に言いました。私は彼を止められません。止める言葉すら、浮かびませんでした」
たまらず、私は立ち上がって頭を下げた。
「ありがとうございました。海一郎さんのもとに帰ります」
乙葉さんは瞳を揺らしながら小さく会釈をした。
部屋を出ると、ドアのすぐ前に顔を強張らせた沢西のおばさんが立っていた。互いに小さく頷き合い、私はその場を後にする。
キャンピングカーに戻ると、タープの下で渚さんが腕を組んで立ち尽くしていた。地面には口の開いた段ボール箱がいくつか置かれている。近づいていくと、渚さんは苛立った様子で車を指さした。
「あいつ、いったい何してんの?」
すぐさまドアを開けて中に入ると、渚さんも後に続いた。そこでは海一郎さんが、棚という棚を開いて中の荷物を取り出していた。取り出した物を少し眺め、それぞれ別の段ボールにしまったり、燃えるゴミと書かれた袋に入れたりしていた。
「海一郎さん?」
声をかけると、ちらりと私を見て微笑み、色鉛筆の木箱を顔の横に掲げた。それを一つの段ボールにしまう。その段ボールには油性ペンで私の名前が書かれていた。
「ああ、あったあった」
戸棚から書類の束をつかむと、その中から薄いクリアファイルを抜き取って渚さんに差し出した。
「なにこれ?」
渚さんは仏頂面のまま手を出そうとしない。
「コアニアニの権利書。と、諸々の書類。お前に渡しておく」
「なんで? いらないから、バカ兄」
拗ねた真似で唇を尖らせると、海一郎さんはそれを戸棚に戻した。
今なら、海一郎さんの考えていることがわかってしまう。動悸が治まらず、私は胸を押さえた。
雨がパラパラと窓を打ちつけ始めた。その場を渚さんに任せて、私は走ってコアニアニに向かった。着いたころには、みんなすでに深刻な顔をしていた。沢西のおばさんが乙葉さんから得た情報を伝えていたのだ。
「万が一に備える」
将生おじさんはそう言うと、健吾君を連れて沢西さんの民宿に向かった。
店が閉められると、コアニアニは飲食スぺ―ス、シャワー室、ワークショップスペースで分離され、クレーンで吊り上げられた。建物の全てが陽向家の敷地まで運ばれ、砂浜には打ち込まれた土台だけが残っていた。
雨に打たれながら、私はコアニアニのあった場所に立ち尽くした。
メロウが陸に近づく条件の全ては結局わからずじまいだけど、深夜には沖谷を台風が包み込む。明日を憂いだ。
しかし翌日、私たちの緊張とは裏腹に、海一郎さんはどこにも行かなかった。ぐっすりと朝まで眠り、そのあとは車の中で鼻歌を響かせながら、ほとんどネットサーフィンをして過ごしていた。
昼前には雨が上がり、風も弱まって青空が広がり出していた。
海一郎さんはすっかり天候が落ち着いてから、車を出た。花屋に寄り、ピンクと白の小花が可愛らしい花束を仕立ててもらっていた。それを持って浜に行くと、波打ち際に献花した。
手を合わせようとはしなかった。砂浜に胡坐をかいて座り、ただじっと波に揺らされる花束を見つめていた。少し離れたところから、私はずっと、その背を見守った。
台風が雲をぬぐい取っていった空は晴れ渡り、次第に夕焼けが訪れた。涼しく湿った風が身に染みる。
渚さん一家は今日、広島に帰る。
「見送ってよ」
渚さんにそう声をかけられて、海一郎さんはようやく立ち上がった。
「勝手に実家を解体したことがそもそも許しがたいんだけどさ、その上あんたまでいなくなったら、もう絶対に許さないからね」
浜を歩きながら、渚さんは海一郎さんの背にげんこつを当てた。
「わかってる」
そう呟いたきり、海一郎さんは喋らない。
渚さんは私を見つけると、きりっとした目を向けて来た。
「バカ兄のこと、頼んだから」
唇を引き締めて頷いた。
だけどさ、わからない。メロウが陸に近づく条件って、何なんだろう。




