第2話
「奈々ちゃん? 奈々ちゃんだよね?」
「はい。お久しぶりです。岸田奈々です」
「うっわあ、驚いたな。こんなに綺麗になって。今年はうちで働いてくれるんだろ? よろしくね」
両手を差し出されたので、私はおそるおそるその手を取って握手を交わした。若々しいけど笑うと目尻にシワが寄るので、やっぱり歳を重ねたんだな、と妙に実感する。
「こちらこそよろしくお願いします、えっと、陽向さん」
「なんだよ、水臭い。昔みたいに海一郎って呼んでよ」
「そうですか? それじゃあ、海一郎さん?」
にこりとして頷いてくれたので、なんともほっとした。緊張ぎみだった気持ちがすっと吸い取られて、波長のダイヤルが心地いいところで合わさった。たぶん、彼は誰に対してもそのダイヤル調整がうまいんだろう。そう、確か昔からこんな風だった。
「奈々は療養の目的もあってこっちに来てんだ」
将生おじさんが言った。
「あんまり無理させんなよ、海一郎」
「わかってるよ。気が向いた時に来てくれたらいいよ」
「え、シフトは組まないんですか?」
「ないない。おばちゃんたちと、なんとなーくな感じに相談しながらやってるから。気楽にやってちょうだいね」
身内経営だとそんなもんだろうか。それにしても、とわずかに心に影がさす。海一郎さんは私の心身について把握しているらしい。将生おじさんが教えたのだろう。
海一郎さんが建設作業にかかり始めたので、私も後を追った。
海の家は経費を抑えるために自分たちで建てるのが大概らしくて、市役所勤めの将生おじさんや漁師のおじさんなど、建築とは無関係な人たちがアイディアを出し合って作り上げていた。
それだけに、浜に三軒ある海の家、いずれも建設方法が違い、個性が出た。ここコアニアニは驚いたことに、建物が三つに分断された作りになっており、それぞれはクレーンで吊り上げることが出来るようになっていた。
厨房と海水浴客の飲食スペース、温水シャワースペース、そして表で海一郎さんがワークショップなどを行うスペースに分けられる。台風が通過する時はこの三つそれぞれをクレーンで吊り上げ、高台に避難させることが出来るそうで、避難先は先ほど私が雑草を抜いて綺麗にしたあの場所、元々陽向家があった土地だ。ご両親が亡くなり住む人のいなくなった陽向家の建物は、五年前に海一郎さんが解体してしまったらしい。
「この作りはよその浜にそういう海の家があってさ、真似したんだ。俺んとこの敷地は海の家くらいなら置いても充分車は止められるしね」
そう言いながら木製のルーバーに海一郎さんはペンキを塗っている。毎年やっているだけあって慣れたもので、手作りには見えない美しく丈夫そうな白と青の店が徐々に形を成していく。
脚立にまたがって雨どいを設置している将生おじさんに長いパイプを手渡しながら、私は海一郎さんに顔を向けた。
「それじゃあ、海一郎さんはキャンピングカーでいつも生活しているんですか?」
「そういうこと。夏以外はずっと放浪してるから理にかなってるのよ。治安の悪い国に行くんでもなきゃ、どこにでも連れてく相棒よ」
「海外にもですか!」
ちょうどその時、海一郎さんのキャンピングカーを興味津々で眺めていた子どもたちが海一郎さんを呼んだ。
「かいちゃんの車、変な足跡ついてるよ」
いかにもな見た目のキャブコンと呼ばれるタイプのキャンピングカーだった。その車体の後方に、小さな動物の足跡のようなものが点々とルーフまで続いていた。防潮堤裏の駐車場に戻ってそれを見た海一郎さんは、車に足をかけてルーフの上も確認していた。
「こりゃあ、ヒバゴンがついて来ちまったみたいだな」
ヒバゴン? とその場にいた人たちが首を傾げた。
「帰国して沖谷に戻る前に、先に広島に行ってたんだよ。向こうに妹が嫁いでてさ、顔を見に。そん時に会ったんだよ、ヒバゴンに」
黄色いラッシュガードを着た男の子が車に近づいてきて足跡をまじまじと眺めていた。大学生くらいの子で、ラッシュガードはライフセービングクラブのものだろう。
「この足跡、濡れてるじゃん。てことは出来たてだ」
「ああ。どっかに行っちまったみたいだ」
「ヒバゴンってどんなやつ?」
「厳密にはヒバゴンの近縁種で小さいから、俺はミニヒバゴンって呼んでる。ネズミみたいな小さな毛むくじゃらだよ。健吾、ちと漬物屋に行って太蔵さんに言伝頼む」
健吾と呼ばれたその男の子は海一郎さんから何やら伝言を受け取ると、たらたらと歩きながら小道の先に消えて行った。
結局ヒバゴンがなんなのか私にはわからなかったけれど、みんなあの説明だけで訳知り顔になってしまったので話しはそれで終わってしまった。
海の家に戻り、作業の傍らメニュー表の見せ方について話していると、先ほどどこかに消えた健吾という男の子がおじいさんを連れて戻ってきた。手にタッパを乗せたそのおじいさんは、顔を綻ばせて海一郎さんの手を取った。
「やあやあ、海一郎。今年も戻って来たってねえ。よかったよかった、みいんな喜ぶよお」
「お元気そうですね、太蔵さん。今年もお世話になります」
「はいよお、うちの店来てね。あれえ、こっちのお姉ちゃんは誰?」
「岸田さんのお孫さんですよ。覚えてませんか、奈々ちゃんです」
急に話しを振られたものだから、慌てて頭を下げた。漬物屋のご主人、太蔵さん。私の記憶にはなかったけれど、太蔵さんは私のことを覚えていてくれたらしい。成長を喜んでくれた。
「いいねえ、久しぶりに会えて嬉しいねえ。なんだかめでたい気分だよ。これ、差し入れに持ってきたの。みんなで食べて」
太蔵さんがタッパを差し出すと、なぜか海一郎さんを除く周囲の人たちがざわついてさっと離れた。開かれたタッパには羽をもがれたセミの素揚げがたくさん詰まっていた。
漬物屋なのに、セミ。まあ、でも――
「あ、これ美味しいんですよね。頂きますー」
ひとつ手に取って口に入れた。サクサクとした食感とピーナッツみたいな風味、ほどよい塩っけが口の中で広がり思わず頬に手を当てて喜んでしまう。ここにビールがあったらなお最高なのに……、って。
しまった!
瞬時に私は青ざめた。頭のてっぺんから足の先まで冷たくなる。やってしまった。周囲の人たちが、明らかに私を見て引いている。ドン引きもいいとこドン引いている。
父に散々口すっぱく言われていたことだった。結婚前の女が、それも人様に食事を提供する立場の女が喜んで虫を食うな、と。それどころではない、私はどんなに見た目がよろしくないものでも、惑わされることなく食せてしまう。それでこれまで、何度父に怒られ、友人から後ろ指をさされてきたことか。沖谷では、そういったことは辞めて、ごく普通の女であろうと決めて来たはずだったのに。
頭を抱えたくとも凍りついて動けず、みんなの視線から逃れるように誰もいない波打ちぎわに目を泳がせていた。その時だった。
「へえ、わかってるじゃない、奈々ちゃん」
ひょいとセミをつまみ上げた海一郎さんが、それを口に放り込んだ。もぐもぐと顎を動かし、小刻みに頷くとまた一匹、また一匹と口に入れて行く。
「うん、美味い」
海一郎さんが親指を立てて太蔵さんと笑い合っていると、引いていた人たちまですっと戻ってきてセミをつつき出した。
じんわりと、目頭が熱くなってきた。ぽかんと口を開けたまま、突っ立っていた。初めてだ、こんな人。こんな風に肯定的に捉えて一緒に虫を食べてくれる男性、これまで会ったことがない。
あっという間に私の心は解きほぐされた。今は体が温かくて温かくてたまらない。それは海一郎さんが優しい熱を帯びた人で、私にその熱を分けてくれたからだろう。
海からそよ風が吹いていた。これから迎える沖谷の夏が、楽しみでならなくなっていた。




