第1話
八月に入ってから幾日が過ぎ、夏も真っただ中で朝からじっとりと汗がにじむ。騒々しく頭上でセミが鳴く林の中で、私はオオバコの葉を探して歩いていた。早朝の五時半。前夜に少し降った雨で足元がつややかだ。群生するオオバコを見つけて腰をかがめると、どこからともなく聞き覚えのある歌声が響いてきた。
それは記憶に新しい、椰子の実だ。声のする方をじっと見ていると、木々の先から海一郎さんが現れた。私に気づくと、うわっと声を上げ怪訝な顔を見せた。
「どしたのこんなところで。なに、虫捕り?」
「いいえ、山菜取りです」
入院から一週間ほどで、海一郎さんは退院した。予想外な場所で出会ったことがおかしくて、私が噴き出すと海一郎さんも二ッと笑った。
「この辺にオオバコがたくさんあるって聞いて。海一郎さんこそ、何してるんですか?」
「散歩だよ。心臓のために軽い有酸素運動は日課なんだ」
「まだダメですよ、大人しくしていないと」
「そうかい? ついでにあーなを探してたんだけど」
「ここ林の中ですよ? こんなところにいるわけないじゃないですか。さてはまた道に迷ったんですね、もう」
「んお? おかしいな、町の中を歩いていたつもりだったんだが。ここどこだい?」
開いた口が塞がらない。私は山菜取りを切り上げて、海一郎さんを連れて林を出た。
「あーなちゃんってどこに住んでるんですか?」
「知らないんだな、それが。沖谷の山の方ってことだけはわかるんだけど。実は夕べ、あーなのお袋さんがあーなを探してうちに来てね。それで探してるんだけど」
「え、どういうことですか。あーなちゃん家に帰ってないんですか?」
「うん、まあそれ自体はよくあることだし、そのうち帰るとは思うんだが」
たかだか十歳くらいの女の子がしょっちゅう無断外泊をしているというのに気にしなくていいのだろうか。思わず足元がぐらついて転びそうになったのは、自分の常識がぐらつきかけたせいだろうか。
近所の小道を脇にそれたところで山菜取りをしていたので、少し歩けばすぐにキャンピングカーが見えてきた。その脇に立てられたタープの下にあーなちゃんを見つけた。じーわじーわと鳴くセミの声に押しつぶされたかのように縮こまっていて、彼女の足元には、横たわったまま動かないタヌキのような動物が置かれていた。
「ムジナ……、死んでるのか」
海一郎さんがそう問うと、あーなちゃんは疲れた顔をもたげさせた。
「うん。ハンターに追われてるところを見かけたから助けようとしたんだけど、間に合わなかった」
「ハンターだって?」
「最近、山にふたりぐみのハンターが来るんだ。許可を取っての狩りかは、知らない」
「無許可の違法狩りだろう」
海一郎さんはムジナの遺体をそっと抱き上げた。それから三人で陽向家の敷地の端に穴を掘って、ムジナの小さな墓を作った。手を合わせたあと、海一郎さんはスマートフォンを取り出して時計を確認した。
「こうしちゃおれん、朝飯にしよう。わりぃ、あーな。飯食ったらすぐに朝市に仕入れに行かないといけないんだ」
「それはあの車で行くのか?」
あーなちゃんは眠たげに目をこすった。
「いや、沢西さんとこの冷凍トラックを借りてんだ。民宿まで歩いて車を取りに行く」
「なら寝場所を貸してくれ。夕べはあんまり寝てなくて、あーな眠いぞ。朝飯は起きてからひとりで食べるからいい」
「ああ、キー渡すから好きにしてな。それから、夕べお袋さんがお前のこと探してたぞ。ひと眠りしたら顔見せてやんな」
「うーん。聞くだけは聞いた」
「たく、しゃあねえな」
あくびをしてキャンピングカーに入っていくあーなちゃんを見送っていると、海一郎さんがこちらに振り返ったのでハッとなった。完全に傍観者になっていたらしい。
「どした?」
「いえ、別に。あははー」
このふたり、どことなく親子に見えてしまうのが、どうしようもなく気になっていた。
コアニアニに海一郎さんがいるとみんなどこかほっとしたような表情になる。空はあいにくの曇り空だったけれど、店内は白さのせいか晴れ間の中にいるようだ。
海一郎さんは早々に働きたがっていたけれど、さすがにみんなが止めるので今日は大人しく座っていることにしたらしい。暇つぶしにと駅前で買ってきたウクレレを、オーニングの下で地元のおじいさんに教わっていた。
戸惑ったような顔をした男性が海一郎さんのもとを訪れたのは、昼の少し前だった。
「なあ海一郎、かぶきり小僧が出たんだが」
調子はずれにウクレレの弦をはじきながら、海一郎さんは片眉を上げた。
「なんだその、かぶきり小僧って」
「勝浦の方にそういう伝承があっただろ。人に化けたムジナが山道で、水を飲めだの茶を飲めだの言ってくるっていうやつ。あれと似たようなことを言う輩にさっき会ってな」
「ただのいたずらとは違うんかい?」
「それが、少し妙なんだ。その男は『おらたちの水を断った男はどこだ?』って聞いてきたんだ。気味が悪くて知らんと言ってさっさと逃げてきたんだけどさ。相手は猫背の少年だったよ」
「知らねえなあ。危害を加えられたわけじゃないんだろ? 気にしなくてもいいんじゃないかね」
「そうかねえ。いや、またなんか変な生き物を海一郎が連れて来たのかと勘繰ったのよ。心当たりがないならいいよ」
その人はそれだけ言うと、手を振って帰っていった。海一郎さんは何を気にするでもなく、つっかえながら少年時代を弾き始めた。
しかし思いもよらず、かぶきり小僧の目撃証言は相次いだ。みな揃いも揃って海一郎さんに話しを持ってくるので、いよいよ海一郎さんも眉をひそめていた。目撃されるかぶきり小僧は様々な姿をしていた。ある人は老人だったといい、ある人は女性、はたまた子ども。『水を断った男はどこだ?』という文句は共通していて、出没した場所も山中の道路上と似通っていた。
「人に化けるムジナなんて存在するのか、海一郎」
「いたとしたらそれこそ未確認生物だろう。なんか知らないのかい? 海一郎」
地元の人々が海一郎さんを取り囲んで口々に言う。コアニアニの中で、私と健吾君は首を傾げながら耳をそばだてていた。
「うーん」
海一郎さんは眉間にしわを寄せていた。
「わりぃ、何とも言えねえ。この件、ちと俺に一任してくれや。調べてみるわ」
地元の人たちはそれで納得して散会していく。
私と健吾君は顔を見合わせると、ささやき合った。
「なんだろね?」
「さあ。けどメロウよりは安心じゃね。ムジナって山だろ?」
「今朝あーなちゃんがハンターに撃たれたムジナの遺体を連れて来たの。海一郎さんが言うには違法狩猟だって。なんか嫌な感じしない?」
「はーん。かいちゃんがハンターと遭遇しないとも限らねえな。そうなったら、取っ組み合いとかやりかねねえ」
「でしょ? 将生おじさんにも一応伝えておこうか」
健吾君はこくりと頷いた。
その日の晩、岸田家の食卓で夕食を囲いながら、私と健吾君は将生おじさんにかぶきり小僧の話しを聞かせた。
将生おじさんは難しい顔をしながら、たくあんをコリコリと言わせる間なにやら考えていた。
「おめえら、今晩から海一郎のとこ泊まりこめや」
ええ、と私と健吾君は間の抜けた声を上げた。
「いやな、メロウの件も含めてよ。海一郎がおかしなことをしねえか、付きっ切りで見張って欲しいのよ。健吾、お前の両親には俺からわけを説明しておくからよ」
「おもしれえじゃん。極秘任務みてえ」
そんな呑気な。どのみち健吾君はお父さんといまだ喧嘩中で家に帰っていないから、どこにいても同じだろうけど、私と来たら心臓がドキドキし始めている。味噌汁を飲んで落ち着こう。
将生おじさんは話しながら、箸を指揮棒のように振り回す。
「かぶきり小僧のことは俺もよくわからん。危険かそうでないのかは状況をよく見て判断してくれ。いいか、気をつけないといけないのはメロウだ。メロウが沖から陸に近づいて顔を出すには、条件がある。その条件の一つは時間帯がおそらく夜ってことだ。あとの条件はなんだかわからねえが、夜中も油断するなってことだ」
「海一郎さんならその条件を知っているんじゃないの?」
「それを教えやがらねえから、問題なんだ」
「どうして教えてくれないんだろ?」
将生おじさんは唸ってオオバコの天ぷらをつまみ上げた。代わりに答えたのは健吾君だ。
「メロウにもう一度会いに行こうとしてるからだろ。かいちゃん、俺らに邪魔されないように、メロウが現れる日を教えねえんだ」
将生おじさんの重たいため息が部屋に落ちる。隅のテレビでは天気予報が始まった。フィリピンの海上に台風が発生したらしい。今年はこれで、いくつめの台風だろう。波がまた、高まる。




