美麗高校 クイズ同好会
「先輩、こんにちは」
井ノ瀬がおよそ30度の綺麗なお辞儀をした先には、2人の女性がいた。
「やあ、千鶴。そんなかしこまらなくていいっていつも言ってるのに」
「まったく真面目だねー千鶴ちゃんは」
「おや、そこにいるのは、……えーと、千鶴の彼氏かな?」
「違います」
井ノ瀬は即答する。もちろんそんな関係ではないことはわかっているのだが、流石に0コンマ1秒で否定されると少しばかりへこんでしまう。
「冗談だよ。ということは……入部希望の方かな?」
「……そうです」
井ノ瀬がそういうと、2人の女性は突然大声を上げて騒ぎ出した。「やっと人数がそろった!」「これで大会に出られる!」などと叫び、最後には二人抱き合って体で喜びを表現していた。
ここでも状況はまったく理解できないが、本日3度目であったので、平静を保つことができた。
「……すみません、言っている意味がわかりません」
正直に俺は告げる。
「え、クイズ同好会に入りたくてここにきたんじゃないのか」
そう言われて隣にいる井ノ瀬を見るが、彼女はそっぽを向いている。ずっと彼女を睨んでいると、観念したのだろうか井ノ瀬は口を開いた。
「さっき勉強は一人でするより大勢でやった方が捗るって言っていたから、クイズ同好会に入って皆で勉強した方が、若葉君にとっていいのかなと思って」
井ノ瀬の予想外の言葉には驚きを隠せなかった。この短い時間の中でそんなことを考えてくれていたのか。この人はいい人なのかもしれない。それでも、一つの疑問が浮かんでいたのでそれを投げかける。
「それならどうしてここに来る前に言ってくれなかったんだ?」
「その場で話すより、部室に来て話した方が、話がスムーズに進むと思ったのよ」
「初っ端で躓いたけどね」
俺は嫌味たらしく言葉をぶつける。
「文句を言うなら先輩に言って」
二人の女性の方を見ると、俺と井ノ瀬をずっと見ていた。静かに見守ってくれていたらしい。
「つまり……君は入部するってことでよろしいかな?」
「いいわけないだろー!」
井ノ瀬が先輩と呼ぶことから推測すると、二人は2年、あるいは3年のどちらかである。つまり、俺は会って数分しか経っていない目上の人に突っ込みを、しかもため口でしてしまったのだ。もし、会社員なら否応なくクビである。怒られても仕方がない、と思っていたのだが……
「君、なかなかいいツッコミするねぇー」
とても優しい先輩だった。先輩の心の広さに感謝である。だが、隣でくすくすと笑っている井ノ瀬を許すわけにはいかない。
「話を戻すけど、君は入部するのか?」
男性口調で喋るこの人は、どんどん核心を突いてくる。
「……それは少し待ってください。まず、その……クイズ同好会について詳しく聞かせてください」
入るつもりは毛頭なかったが、とりあえず話を聞くことにした。ここで話も聞かず断るのは、流石に無作法だろう。
「確かに何も知らない君にただ入れとせがむのは失礼だったね。なんでも聞いてくれ」
「クイズ同好会の活動頻度と内容を教えてほしいです」
俺はありきたりかつ最も本質的な質問を投げかけた。
「活動は週に5回、平日の放課後だ。また、活動とは別に私とこっちの○○は土日にどちらか一方の家に集まり活動することがたまにある。だが、土日は活動時間外であるから、強制はしない。活動内容は、はっきりと決まったものはないが、様々な分野の問題を互いに出し合ったり、担当になった者が小テスト形式で問題を作り、それをプリントアウトしたものを持ってきて全員に配る。それぞれが解いた後に皆で解答をチェックし合うという活動を担当の順番に変えてやったりしているよ」
「小テストか……」
そのワードを聞くだけで、耳が痛くなる。
「だが、私たちはただクイズを出し合って楽しむだけではない、目的がある」
「目的……?」
「それは、《高校生クイズ王》の本戦に出場し、日本一の栄冠を勝ち取ることだ」
《高校生クイズ王》に関しては勉強嫌いな俺でもよく知っている。一年に一度12月に開催され、戦後から今に至るまで続く歴史の長い大会だ。現在では、地上波で放送されていることから高校生だけでなく老若男女様々な世代に知られており、年末の風物詩となっている。
「去年は予選の決勝で負けてしまったのでな、今年こそはと私も隣にいる七海も雪辱に燃えている」
先輩の目は先ほどと違って、真剣な眼差しに変わり、隣の七海先輩と思われる人はにこっと笑っている。だが、それも俺には関係のないことだ。力になる・ならないの問題以前になれないのだから。
「他に聞きたいことはあるか?」
「話を聞いている中で気になったんですが、どうしてうちのような強豪校が、俺が入部すると勘違いした時に、人数が揃うだか、大会に出られるだか言って喜んでいたんですか?」
「君、記憶力いいねー。数分前の会話をはっきり覚えているなんて」
思い違いもいいところである。俺より記憶力悪い奴なんてこの世にいるのかと思うくらい、記憶力の悪さには自信がある。中3の時、周りが突然勉強し始めたのに焦り、学校で貰った英単語本に載っていた単語を嫌々ながら100個覚えたのだが、翌日にはすべて忘れていたという武勇伝をもっている。
「そりゃあんな叫びながら言われたら誰だって覚えてますよ」
俺の記憶力のなさについてもう少し議論したいところであったが、これ以上話が膨らむと大切な昼休みがどんどん削られてしまうので、否定するのは辞めておこう。
目線をちらっと横に向け時計を見た。時刻は12時55分。昼休みが始まってから既に15分が経過してしまっている。
「私が喜んでいた理由だったな。君もおおよそ予想はついているだろうが……、部員不足で大会に出ることができないのだ」
「強豪校なのに部員不足ですか?」
「今年同様去年も新入生を募集したのだが、一人も部員が集まらなくてな。それに強豪校というのも昔の話だ。10年以上前に本戦に出場して以来、ずっと予選落ちしている」
ここまで来てようやく話の筋が見えてきた。とはいえ、部員不足はしょうがないように感じる。美麗高校はいわゆるマンモス校で、2000人を超える生徒が在籍しているが、その分部活や同好会の数は多い。
さらに、最近では生徒の数はほとんど変わっていないのに、同好会の数が急激に増えていると聞く。その状況の中、言ってしまえば地味なクイズ同好会に人が集まってこないのは当然と言えば当然である。
「だが、今年は君と千鶴、今は不在だが、新入生がもう二人入部することが決まっている。そして私と七海を含めて、大会出場人数の6人にちょうど達したことになる」
「ちゃっかり俺を人数に含めるのをやめてもらっていいですか?」
先ほどの過ちを犯すまいと今回はしっかりと敬語で突っ込みを入れる。
「入部するんじゃなかったのか?」
「…………」
ボケにボケを重ねてきた。どうやら先輩も先ほどとは違うらしい。
ここで、部員不足の話を聞いていてあることがふと思い浮かんだ。
「井ノ瀬、お前人数合わせのために俺を呼んだのか?」
「もちろんそれもあるけれど……、あなたのこと思ってここに呼んだのよ」
「ほんとかよー」
「ほんとよ。部員不足問題8割、あなたのこと2割よ」
「俺の割合少なっ!」
こいつ場合ボケで言っているわけではなく、天然で言っているのだから先輩よりもいっそう質が悪い。
「他に聞きたいことはあるか?」
他にも聞くべきことがまだまだあるのだろうが、こちらにも詳しい話を始める前からずっと言いたかったことがあった。
「一つ言ってもいいですか?」
「なんだ?」
「俺……馬鹿ですよ」
「え…………」
ほとんど表情を変えなかった先輩がきょとんとしている。それもそのはずか、唐突に「自分頭悪いですよ」アピールを相手にされて、なにもリアクションするなというのは少々無理があるだろう。ましては、ここは偏差値70の美麗高校である。
「……ちょっと意味がわからないな。もう少し詳しく説明してくれるか?」
先輩には同情する。もし、先輩の立場だったら俺も同じようなリアクションをとっているだろうから。
「わかりました」と言いかけたところ、なぜか井ノ瀬が俺の言葉を搔っ攫っていった。
「わかりました」
井ノ瀬はそう口にして、ある一枚の紙を先輩に向けてドンと見せつけた。一瞬何をしているのかわからなかったが、横目でその紙の中身を見て状況をすべて吞み込んだ。紙の中心部はほとんどがチェックマークで埋め尽くされ、紙の右上には黒字で若葉春男、その上にはでかでかと赤字で『3』と書かれている。そう、俺の朝の小テストである。
「先輩理解して頂けたでしょうか?」
「理解できないのはお前だよ! なんでそれをもってるんだよ!」
俺は叫んだ後、再びパニックに陥る。何故今日はこんな目にばかり合うのだろう。朝の占いは見ていないが、俺の牡羊座はおそらく12位だろう。ラッキーアイテムはなんだろうか。
「廊下で若葉君がプリントを落とした時、一向に拾う素振りを見せなかったから私が拾っておいたのよ」
あの時は混乱していたが、大事なプリントを拾うのを忘れ、さらに井ノ瀬が拾ったことにも気づかなかったとは……。我ながら無様である。
「それならどうしてその場で、渡してくれなかったんだ?」
素朴な疑問だ。そうしていれば、今こんな状況に陥ることはなかったのだから。
「それは……びっくりしちゃって……」
「…………」
返す言葉もなかった。多くの生徒が満点を取るような小テストで、3点という不名誉な点数が書かれた紙が、話したことのない男子生徒のポケットから急に落ちてきたのだから。あの場で混乱していたのは、俺だけではなかったらしい。
沈黙が続いていたので、しょうがなく俺は口を開く。
「こういうことなんで、力にはなれそうにないです」
これを聞いた先輩は、先ほどよりも神妙な顔つきをして俺に訊ねてきた。
「君の名前を教えてくれ」
「若葉春男ですよ!!」
ボケで言っているのか、俺が小テストで本当に3点を取ったのか審議するために言ったのかわからなかったが、この場ではもうボケにしか聞こえない。いっそのこと俺を若葉春男以外の誰かと勘違いしてほしかったが、反射的に突っ込んでしまった以上もう手遅れであった。
先輩は座った状態のまま、肘を机につき、両手を握り合い、顔を少しの間俯かせた後、俺に告げた。
「そうか、君の言いたいことはわかったよ。けど、もう少し詳しく話を聞きたいね」
俺は少し考える。そして、決心する。あまり乗り気ではなかったが、先輩に俺が入部することを諦めてもらうため、美麗高校に入学した経緯を洗いざらい話し、ついでに美麗高校の人とはできるだけ関わらないようにするというしょうもない固定概念についても詳しく話した。もしかしたら志の低い俺が美麗高校に入学したことに腹を立てるかと思ったが、先輩はただ一言
「……そうか」
と言うだけであった。
先輩の反応もそうだったが、それよりも意外だったのは井ノ瀬の方であった。神妙な顔つきで話を聞く先輩とは対照的に、悲壮感あふれた目をして俺の方ずっと見ていた。そんな反応をするとは思ってもみなかったので、戸惑いを感じざるをえなかった。 雰囲気的に沈黙が続くと思われたが、俺の予想は見事に外れた。
「よし、それなら尚更クイズ同好会に入らないか?」
急に机を叩いて立ち上がり大声でそんなことを言うものだから、思わず狼狽してしまった。それでも気を取り直し、あまり陽気な雰囲気ではなかったが、先ほどと同じように突っ込みを入れようとした。が、先輩はそれを許さない。
「君は勉強しなければいけないと思っていながらも、モチベーションが上がらず、勉強できないのだろう? それなら、放課後ここに来て、一緒に勉強すればいい。周りがやっているのを見れば自然とやる気も出てくるはずだ」
最後に「かわいい女子もいるしな」とつけ加えて先輩はしたり顔で言った。確かに生きてきた15年間で女子との関わり合いはほとんどなかったため、絶好の機会であるのは違いないのだが、今考えるべきはそこではない。
先輩の言うことはなかなか理に叶っており、反論するのは少し難しい。今しているやりとりは会話というより交渉に近いものを感じる。ここで相手に探りを入れてみる。
「先輩のおっしゃりたいことはよくわかりました。ですが、それだけでは喜んで入ろうという気にまでにはなりません」
先輩は黙り込んでいる。ここまでは予定通りだ。相手の言いたいことは理解しているが、だからといって了承したわけではないというずる賢い手法で、相手側をお手上げ状態にさせるやり口である。完全に優勢に立ったと思ったのも束の間、先ほどまで沈黙を破って先輩が口を開く。
「つまり君は、自分がクイズ同好会に入る絶対的なメリットを提示しろといっているわけだね」
「……失礼ながら」
ここで負けるわけにはいかないので俺は正直にそう告げる。
「ならば私たちが勉強を教えてやろう」
「!?」
これは想像していなかった展開である。そして同時にこのタイミングでこのカードを切ってきた先輩には見事としか言う他ない。将来いい交渉人になるだろう。
さらに追い打ちをかけるように先輩は続ける。
「学校の勉強もクイズ同好会の活動の一部に当たる。なんせ、我々が学ぶのは全分野だからな。君に勉強を教えるのも活動の一環だ」
困ったことになった。学校の勉強も活動の一環だなんて単なるこじつけにしか思えないが、新入生が集まらなかった件から推測するに3年の先輩がそうだとはっきりと言うのだから、クイズ同好会について何も知らない人間が活動内容にあれこれと反論することはできない。
さらに、悔しいことに先輩の提案は俺にとってもいいことづくめであった。というのも、俺が塾に通わせてもらえないというところにある。母によれば、「私立に行くだけでたくさん学費がかかるっているんだから、塾に通わせるお金なんてないよ」だそうだ。なら、どうして俺をこの学校にいれたのだろうか。
そんなところで、家で勉強するしかないのだが、自分の部屋というのは意外と集中できない。そもそも美麗高校で配られた教科書は難しすぎて独学で解くのは不可能だ。
そこで、俺の状況を察しているかのように、先輩はこんな提案をしてくるものだから恐ろしい。まさに絶対的なメリットだ。
完全に為す術がなくなってしまったが、出来る限りあがくほかない。
「先輩にそこまでしてもらうわけにはいきません」
「私は別にかまわんよ。人に教えるのは自分の勉強になるしな」
「自分、先輩が想像しているよりもはるかに頭悪いですよ? 自分に付きっ切りになって先輩の時間がまったく取れなっちゃうと思いますが」
「もしそうだったとしても、みんなで順番に君を見るから気にしなくていいさ」
八方塞がりである。あまり使いたくなかった自虐ネタを行使してもこの様だ。
自分が先輩に勉強を教わることによってどのようなデメリットがあるかを必死に考えたのだが、これ以上何も思い浮かばない。自分の頭の回転の悪さに絶望する。
なんとか逃げ道を見つけようと必死に苦しむ中、先輩はにっこりと笑っている。いつもであれば端正な顔立ちをしている先輩の笑顔はこちらを晴れやかな気分にさせてくれものだが、今は罪人を地獄へ誘う悪魔のようにしか見えない。
「どうかな?」
先輩は不敵な笑みを続ける。もうその顔でこちらを見るのをやめてほしい。
最終手段で論理的に話すのは諦めて、とても不本意ではあるが感情的に訴える手段に移行しようとした。が、ここで思わぬ展開に変わる。
「……入ろうよ」
今まで話を聞いているだけだった井ノ瀬が突然口を開いた。自分から話すことのなかった井ノ瀬が、不意に俺に同好会に入るよう勧めてきたことはもちろん意外であったが、それより驚きなのは――先ほどからの悲しみに溢れた雰囲気を醸し出す井ノ瀬だ。
初めて彼女を見た時とは別人のようで、その様子は俺が美麗高校に入った経緯等々を話した辺りらへんから変わったようだ。
「部員不足ってのが理由なら、他を当たればいいんじゃないか?」
「まあ……、そうなんだけど……」
「どうしてそこまで俺にこだわるんだ?」
「それは……、とにかくあなたは入るべきだわ」
釈然としない。井ノ瀬は何を考えているのか全く読めない。女心を理解するのは俺にはまだまだ難しい。
「……入って」
何が井ノ瀬をそうさせるのだろうか?まだ初めて話してから1時間も経ってないというのに。
彼女のすることは驚きだらけだが、驚いているといえば自分自身にもだ。こんなに真面目な雰囲気なのに、いや雰囲気だからこそだろうか、必死に説得している井ノ瀬を見て、不覚にも可愛いと思ってしまっているのだから。
「なら、こうしないか。入部するかしないかはひとまず置いておいて、今日から一週間仮入部として部室に来るというのは?」
と先輩は提案する。
お互いが妥協し合う形をとってきたか。やはり、先輩は交渉術に長けている。
「……わかりました。そういうことなら」
あまり乗り気ではなかったが、このままでは永遠に話が終わらない気がしてきたので、仕方なく先輩の提案に乗じることにした。
「よし、決まりだな。今日の放課後ここで待っているよ」
「あんまり俺に期待しない方がいいですよ」
「いいや、私は君に期待しているよ」
「根拠のないこと言わないでくださいよ」
「根拠ならあるさ。君は記憶力があるじゃないか」
またその話か。先輩は洞察力のある人だと思っていたが、それは勘違いだったらしい。
「記憶力なんてないですよ」
さっきは長くなるのを避けるため話すのをやめておいたが、仮入部することを考えるとこの場で誤解を解いておきたかったので、話すことに決めた。いいだろう、俺の残念な武勇伝を聞かせてやる。と思ったが、武勇伝を言う前に先に先輩が話し始めてしまった。
「君は先ほど私たちが叫んでいた話の内容を覚えていたよね? どうして覚えていたと思う?」
俺が入部すると先輩が勘違いしたあの時か。不思議なことを聞いてくる先輩だ。
「……そりゃあ、印象的だったから」
「そう! 印象的だったんだよ」
「???」
全く話が読めてこない。
「ここからは私の仮説なんだけど――君は勉強を嫌々やっていた。けど、嫌々する勉強に印象なんて残るはずないよね――つまり印象に残るような勉強の仕方をすればいいんだよ」
「!?」
この人はほんとに凄いことを言う。そんなことを考えたことは一度もなかった。先輩の言葉に納得しかかってしまったが、俺はすかさず反論する。
「お言葉ですが、そもそも勉強に楽しいだなんてありえないですよ」
「それは違うな。確かに楽しく勉強するのは私たちでさえ難しい。ただ、コツを掴んで勉強すれば、以前よりも勉強することが苦ではなくなるはずだ」
「信じられません」
「試してみるか? 君、勉強で苦手なのは?」
「勉強と呼ぶものはすべて苦手ですが、特に英単語を覚えるのは苦手ですね」
そういって中3の時の英単語事件を思い出す。
「英単語はどうやって覚えていた?」
「そりゃ……眺めて」
紙に書いて覚える方法もあったが、手が疲れるからというしょうもない理由で断念した記憶が蘇ってきた。
「その方法ではなかなか覚えられないだろ」
はっきり言われてしまった。が、正論である。
「となると、やはり紙にひたすら書く方法ですか?」
「違う。書くんじゃない、聴くんだ」
「……聴く?」
俺の知り合いにネイティブな英語を話せる人なんかいないぞ……。
「単語帳には付録でCDが入っているはずだろ? それを使うんだ」
なるほど。だが、今のところ先輩のいいたいことはわからない。
「CDを使って、聴いて覚える方法があるのはわかりました。ですが、それが他の方法よりもなぜ優れているんですか?」
「わかりやすく例えを出そう、君は歌の歌詞はどうやって覚える?」
「……そうですね、歌詞を見て覚えるか、曲を聞いて覚えるかのどちらかでしょうか? 流石に書いて覚えることはありませんね」
と最後に軽く笑いながら答える。
「まあ、そうだろうな。なら、どの方法が一番印象に残る?」
「あっ」
ここで、一本取られたことに気づく。
「そう、眼で見たものはその時は憶えられるが、少し時間が経つと忘れてしまう。だが、耳で聞いたものはなかなか忘れにくい。これは、英単語を覚えることにも置き換えられる」
これには勉強嫌いの俺でも納得してしまった。例えも実にわかりやすい。そのまま先輩は続ける。
「英語を覚える第一段階としてテキストを使わず、まず英語を聞くことが推奨されているのも同じ理由だ」
「聴くことってそんな重要だったんですね……」
「そうだ。だが、最後にもっと重要なことがある」
「最後……?」
既に満足しているが、まだ何かあるのだろうか?
「聞いた後に発音することだ。これも歌を例に挙げよう、歌詞を覚えた後にカラオケに行き、その曲を歌うとする。1回目は、初めて歌うわけだからどうしてもぎこちなくなってしまう。だが、2回目、3回目と歌ううちに徐々に慣れてきて、最終的には歌詞を見ずに歌えるようになる。これを英単語に置き換える。もう言わなくてもわかるよな?」
ドヤ顔で言い放った先輩は最後に高笑いをして見せた。
勉強にコツがあるなんて思っても見なかったので、ただただ驚くばかりだ。中3の頃の自分に聞かせてやりたいものだ。
それにしても頭のいい人間は皆この方法で英単語を覚えているのだろうか。明日、透に聞いてみよう。
「どうだ、勉強は好きになれそうか?」
「それは無理ですね。けど……」
他にも俺が知らない勉強のコツがまだまだあるのだろう。そう思うと、馬鹿で勉強嫌いな自分でも、もしかすると変われるのもしれないなんて本気で思い始めてしまっている。
「やってみようかと思います」
先輩はこくりと頷く。
「今いない他の2人も個性的で負けず嫌いそうな性格をしているよ。君ら4人で競い高め合ってくれたまえ」
「俺まだ入るって言ってないんですけど」
「そうだったな」
ここで、今日初めて2人で笑いあった。同時に、お互いの心が通じ合ったような感覚を覚える。
「そういえば、名前を名乗り忘れていたな。部長の早乙女咲だ。よろしく」
「プリントの件でもう知っていると思いますが、一応……若葉春男です。よろしくお願いします」
「岩渕七海です。よろしくね、若葉君」
と透き通ったような声が早乙女先輩の隣から聞こえてきた。ずっと黙っていたので、気にかかってはいたのだが、ここに来てようやく声を聞くことができた。落ち着いた雰囲気を醸し出しているが、俺の記憶が正しければ先ほど早乙女先輩と一緒にバカ騒ぎをしていたはずだが、あれは錯覚だったのだろうか?
そんな俺の考えを察したかのごとく早乙女先輩は口を開く。
「七海は普段は落ち着いているが、テンションが上がると釈変するから驚かないようにな」
変わりすぎだ。そして、既にもう驚いている。
「……よろしくお願いします」
最後に少し驚きはあったが、ひとまずは話の区切りはついたようだ。
「……よかったね」
井ノ瀬がここで呟く。おそらく「仮入部が決まってよかったね」ということだろう。先ほどの暗い雰囲気とは違い、今は最初に合った時の落ち着いた雰囲気に加えて、晴れやかな笑顔をしていた。
一安心してほっと息を吐く。いくら今日あったばかりの人だからといって、女の子を悲しませてしまうというのはいささか体裁が悪い。
「……まあ、……そうだな」
なんとなく気恥ずかしい感じがしたので、俺は曖昧に返事を返す。
「そうだ、若葉。君をうちに入れたい理由がもうひとつあったぞ」
まだ他にもあるのか。褒められることの少ない人生を送ってきた俺にとって、誉め言葉ならお世辞だとしても有り難い限りである。
「なんです?」
「君は突っ込みがうまい」
「……」
「今まで突っ込みをされてもしっくり来ないことばかりだったが、今日君にされてなんだかグッと来たよ」
今までのいい雰囲気が台無しである。ここがお笑い同好会なら最高の誉め言葉なんだろうが、ここはクイズ同好会、突っ込みが上手くても問題が解けなければ意味がない。まさか遠回しにお笑い同好会に入るよう勧められているのだろうか。
「先輩のボケもなかなか独特でよかったですよ」
「最高の誉め言葉、感謝する」
「褒めてないですよ」
嫌味が通じない。いや、すべてを理解してのこの返しか。かなり手強い。
「ところで、……時間大丈夫か?」
先輩は時計を指して言う。時刻は13時15分。5限の開始が13時半からなので、お昼を食べなければならないことを考えれば少しギリギリだ。
「大丈夫ですよ。少しギリギリですが、今から急いで戻れば、10分程お昼を食べる時間も取れますし」
「そうか、それは安心した」
時間もないことだし、早く先輩方に挨拶を済ませて教室に戻ろうとした。
「…忘れてた」
井ノ瀬がいきなりそんなことを呟いた。
「忘れてたって何を?」
「……資料集」
「あ」
どうして気づかなかったのだろうか。井ノ瀬が言い出すまで俺たちは本来の目的を忘れていたのだ。ここから歴史資料室に行き、さらに教室に戻ってお昼を食べるまでの時間を逆算しようとしたが、そんなことをしている時間さえ惜しいことに気づく。
「お疲れ様でした!」
と言って井ノ瀬は先輩に顔さえ向けず走り去っていった。
「どういうことだ?」
「すみません。詳しい話をしている時間はありません!」
と言って井ノ瀬に続いて俺も資料室に向けて走った。先輩方はクエスチョンマークを掲げていたが、その後「放課後ちゃんと来るんだぞ」という声が、廊下を走っている俺の耳に聞こえてきた。
廊下を走り始めて少ししてから、ようやく井ノ瀬に追い付いた。彼女も息を切らしながら走っている。火事の時でも廊下を走らなさそうな優等生が今この調子なのだから、驚きは隠せない。
「なんでもっと早く教えてくれなかったんだよ」
俺は走りながら井ノ瀬に問いかける。
「私だってちょうどあの時気づいたのよ! ていうか、そんなこと今はどうでもいいでしょ!」
あの優等生が「ていうか」なんて言葉遣いをしている。相当焦っているのだろう。
「わかったよ」
俺はそう言って、資料室に向けて一直線に走った。