躍動
教室の隅に居座るわたしは、何か突発的な現実の破壊によってこの授業が終わらないものかと考えながら、黒板に埋められていく白い文字たちを無感情に見つめていた。わたしの関心は、この白い文字たちの肉体ではなく、彼らの奥にある、より高次で高尚な精神に向けられていた。しかしそんなものは見えるはずもない。だからこそ、いまわたしが直面している問題はより崇高なものと化しているのだ。わたしはこの難題を、まるで誰も解き明かすことのできない数学の問題に挑戦するかのように、興奮した面持ちで頭の中でこねくりまわしていた。
保健室での夢想の中で構築された、一連のわたしの妄想、観念、思考の転換は、むしろわたし自身をいま見える現実へと導く助けになった。わたしは自分自身の中から湧き出てくる不可解な情動をありのままとして受け入れ、むしろそうした情動が存在することこそが、自身の精神の健康についての、何よりの証拠となることを自覚していた。自己の精神の投影こそ現実であるという価値観は、自己と現実を分断し、見かけ上自分を守り抜くという価値観よりも、わたし自身により多くの知見と感動と安らぎを与えていた。唯一の懸念は、自己と現実の統合によって自己の喪失を招くということであったが、その迷いからもわたしは解放されていたのだ。それはわたしの精神と現実の肉体が一つになっているだけであって、わたしの精神と現実の精神との統合ではありえない。それらは明確に区分され、いまその二つの間にはとても立ち入ることのできない屈強な壁が出来上がっている。わたしのこれからの仕事は、この壁を取り払い自己の精神と現実の精神を結合させることにあった。
奇妙なことに、わたしを取り巻くこの世界がいまだその真の姿を見せていないという残酷な事実が、そしてこの世界が自己の解釈に過ぎないという諦念が、わたし自身を、この世界を忠実に記述しようとする努力に向かわせていた。虚構の世界をそのままの形で認識することで、時折このまやかしのベールで包まれた世界が、その本質を少しだけでもよいからちらりと見せてはくれないものだろうか。あるいはわたし自身の分析によって、そのベールを剝がせはしないものか。わたしは祈るような気持ちで、そうした認識にわたし自身を誘うことを決断したのだ。
黒板の白い文字から窓の方へと、わたしは視野を移した。わたしの視線は、自然に運動場を走り回る多くの人間たちの躍動へと吸い込まれていった。彼らの肉体の迷いのなさ、その純真さ、率直さにわたしは心を打たれていた。無限に繰り返されるようにさえ錯覚するあの無駄のない洗練された足の運び。はつらつとした筋細胞の収縮、弛緩。それらは機械的に動き、そして人工的な構成物としての意思の光に満ち満ちていたのだ。その感動を、わたしは自身の湖面に現れる意識としてのみ認識することを嫌った。すべては形にしなければならない。わたしの指はいつのまにか鉛筆を取り、夢中になって真っ白なノートの上に何かを書き始めていた。朦朧とした思考が明瞭なものへと変化したとき、ようやくわたしは自分の文面を理解することができた。
循環。連続。客観。
当時の興奮したわたしの心情を反映したように殴り書きされた文字たちはまるで踊っているかのように奇妙な格好をしてわたしを見据えていた。苦労してその字を読み取ったわたしは、文字の向こう側に隠されたわたし自身の編み出した意味を必死になって追っていた。自己は、つねに自己自身との闘争にさらされている。わたしは、丁寧に昔のわたしが構成した思考を現在のわたしの思考に再現させることに成功した。
循環。朝もやの中で白く光り輝く太陽が、やがては橙色の光子を散乱させながら消えていくように、現実は循環していく。あの運動場に位置する彼らの肉体が淀みない足の連動を繰り返すように、世界は一定の法則で回っている。しかしその永遠の回転は、常に変化へと進行する循環である。微妙な変化ではあるが、太陽はその顕在の開始と終焉の位置を変化させていくのであり、彼らの肉体を取り囲む景色たちは変化を続けることをやめない。世界は一定の型をもちながら、その型を少しずつ変えていく。
連続。これは時間の連続性と空間の連続性の二つに分類されるが、それさえもさしたる問題ではない。つまりは意識の連続性を表している。点の連続は線であり、線の連続は平面であり、平面の連続は空間である。しかしわたしたちはそれらの空間の特性を現実の中で観察することは許されない。人間が認識しようとするとき、それらは人工的に分断され、単位としての原子としてバラバラになるだけであって、その傷だらけのおぞましい姿は、空間や時間の真の姿でもありえないし、意識的な自己によって作られたまやかしでしかない。実際、時間も空間もわたしたちの意識に委ねられたあわれな存在であって、その気になれば空間を弯曲させたり時間を逆行させたり停止させたりすることも可能である。それらは意識に付随した形で存在するので、意識が存続し絶え間ない連続を重ねる限りにおいて、従属する空間も時間も連続にならざるをえない。
客観。これこそが世界の精神に近づいているように見えて、もっとも遠い存在である。わたしは自己の意識による束縛から脱し、真実としての世界を見ようと躍起になっているが、多くの人々はそれを客観的世界への探求であると結論付けてしまうかもしれない。しかしわたしは他者に対して信頼を置いたことはない。客観とは自己の認識と多くの他者の認識との共通点のみを真実とする方法であるが、誰でも知覚できる認識こそが正しいといえるのだろうか。なぜなら自己が意識的に他者をだまし、そして自分自身さえもだますことができるのと同じように、他者は自己をだまし、そして他者自身さえもあざむくことができるのである。こうして世界の精神は影をひそめ、利害関係と欲望の葛藤にまみれた世界の肉体の恐ろしい姿が人間の意識を蹂躙することになる。わたしたちが唯一見ることができるのはそうした他者の表面の肉体であり、中核となる精神を見ることはない。肉体という表現によって現出した無意識の存在、そのむきだしの欲求を捉えているだけなのだ。
わたしは唇をかんだ。圧倒的に何かが、決定的に何かが足りなかった。これらの世界の肉体についての記述は、世界の精神には全然関係のないものなのだ。自己意識が世界の肉体を作り出す限り、結局のところすべてはどうにでもなることなのだ。わたしは窓の方を向いた。もはやどうすることもできない。絶望の渦に自らを投げ込むくらいならば、いっそこの熱を帯びた世界の肉体に自己のすべてを埋没させた方が幸せなのではないか。諦念と悲愴が混じり合ったこの感情の混沌は永久に消えはしないのだ。
そんなことを考えていたとき、運動場の土色の光に包まれた白い腕がふとわたしの目に飛び込んできた。その白い腕は、一定のふり幅をもって左右に機械的に動いていた。その白い腕の主は、ジャージ姿に身をまとった彼女であった。周りの人の目を全然気にせず、明らかにわたしの方を向いて明朗で無邪気な笑顔を見せている。わたしは思わず吹き出しそうになった。これほど明確に自己の精神を表に出す人間をわたしは見たことがなかったのだ。口の形を察するに、「おーい」と叫んでいるように聞こえた。わたしはくすくす笑いながら、小さな声で「おーい」とつぶやきながら彼女に小さく手を振っていた。その行動に満足したのか、彼女はふっとわたしから目をそらしてまた快活で人為的な肉体の行動に自らを従わせていた。
わたしは彼女を尊敬していた。その美しく、純粋な精神を尊敬していた。彼女の光と影が、彼女の存在の形をいかに明瞭に表していることか。彼女の一挙手一投足がいかに彼女自身の混じりけのない心をすがすがしく描写していることか。わたしはようやく目に見えるそうした現実の中に、感動を覚えることができるようになったのだ。