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夢見る世界のシャボン玉  作者: 竹内謙作
We must link to the spirit of the world.
8/18

希望

 見渡すと、景色は一変していた。


あの止めどないうねりでわたしを魅了していた緑の怪物は怒りと情熱を露わにした深紅の巨大生物へと変化し、その花の蕾のような上部の先端から赤い花粉のような火の玉を吐き出していた。空は血気盛んな男の子が自作の青黒い絵の具で塗りたくったせいか暗く淀んでおり、青いキャンバスに少女が描き残した白い絵の具たちはどこかに消えてなくなってしまった。真下に見えていた美しい幾何学模様は消失し、赤と黒のインクが混じった背景に葉脈のように枝分かれしている網目模様があの不気味な赤い花のふもとの方まではてしなく続いていた。


 わたしは懐かしい原風景に出会ったような述懐を感じ、それでいて初めて見た風景に対する深い感動を覚えながら、その光景に見入っていた。遠近感を失ったわたしの瞳は、背景のなかに無数に存在する点と線の躍動、その世界全体の融和にすっかり見とれていたのだ。そうして自分がその世界全体の一部に参画しているという自覚をようやく得ることができたのである。その一種の諦念にも似た享楽、安心の中の罪悪はわたしの精神にいつまでもとどまっていた。わたしは自らの心臓にナイフを仕込まれていることを知りながらそのナイフをこの上もなく愛でていたのだ。


「ニンゲンたちは、あの光景をカザンのフンカというつまらない音声の羅列としか感じ取ることができないわ。でも、神としての自覚をもったあなたならわかってくれると思うの。この世界は、本来分断できるはずがないということを。ニンゲンたちは、分断しなければ存在を認識できない脆弱な精神しか持ち合わせていないということを。あなたなら、正しいことを見極められるはずだわ。」


彼女がわたしにささやきかけるときにかすかに動く唇の鮮やかさ、わたしの身体を包容する彼女の身体がわたしに染み入ってくる和やかさ。所詮、言葉なぞ音に過ぎないのだ。わたしはいつから世界を勘違いしていたのだろう。わたし自身を差し置いて誰がこの世界を生み出したというのだろうか。


 彼女が指をくねらせてパチンと音を鳴らした。


 見渡すと、また世界は一変していた。


 わたしは、わたし自身の手のひらに、そしてこの風景全体の表層に、舞い落ちる少女が残したあの白い絵の具たちを眺めていた。それらはゆっくりと、しかし確実にわたしの身体のありとあらゆる表面に到達し、水色の滴に変化してわたしの中に浸透し、わたしを貫通していた。遠くを見ると、あの止めどない躍動をしていた曲線の波の集合体は冷徹な視線をわたしに向け、先ほどの情熱とは打って変わった邪心のない白色で自らの身体を満たしていた。上に見える青い空間はいつまでも点々と流れていく黒と白の入り混じったコントラストの塊を内包していた。眼下には、銀色の背景の中に黒い影のようなものが散らばっていた。


「これはユキよ、あれはヒョウザンよ。」


その一つ一つの音の信号に何の興味ももたないように、むしろそれ自体は何の意味ももたないということを誇示するように、彼女は誰に言うともなくつぶやいていた。


 彼女がまた指を鳴らすと、世界はまた変わった。


 今度は、わたしたちは澄んだ青い背景のもとになだらかで滑らかな黄色い世界の身体を見ていた。それらの世界の肉体はよく見ると無数の小さな黄色い粒子で構成されており、その粒子の一つ一つが頭上に浮かぶ光の玉に照らされて一心に自身の輝きをわたしたちに見せつけていた。風に流されて少しずつ流動していく彼らは、しかし常に変化しながらも全体として奇妙な一体感を示していた。わたしは彼らが無作為に動いているように見えてどうしてあんな美しい連携をとれるのかがわからなかった。


「タイヨウに照らされたサバクね。」


彼女がまた自分が吐いた台詞を排斥するような調子でつぶやいた。そしてまた指を鳴らした。世界はいとも簡単にその身体を入れ替えた。


 気が付くとわたしたちは濃い紫色の色彩に身を浸していた。視界の左の奥から手前に向かって、しっかりとした縁取りをもった大きな塊が積み重なって全体として壁のようなものを構成し、上の方にどこまでも伸びていた。眼下はいまいる位置よりもより暗い紫色に染まっており、世界の表層がどこにあるのかその境目は曖昧になっていた。視界の右側には色鮮やかないくつもの平べった物体が外界と楕円形の境界線を造形してゆらゆらと蠢いていた。中には、その平らな表面から光る頂点を突き出すようなものもいれば、表面全体を色彩豊かな縞模様で織りなすものもいた。ふと、視界の奥から大きな黒い影がじわじわと近づいてきて、辺りの平らな物体たちをその中心へと引きずり込んでいた。次第に色彩をもった多くの物体は姿を消し、ついには頭上へどこまでも突き出ていく壁とわたしたちのみがその濃淡の背景に取り残されてしまった。


「チカ深くのカイテイにいるサカナよ。」


彼女はもうすっかり退屈してしまったのか、あくびを交えながらそうつぶやいた。わたしは、めくるめく世界の変化に気を取られていて、彼女の言葉に感想をはさむことさえできはしなかった。


 彼女がまた指を鳴らした。次の瞬間には、わたしたちは暗黒の平野に自らの身体をさらしていた。


 視界の奥にはとても直視してはいられないほど強い光を放つ球体が浮遊しており、その球体の左側にはいくつもの球体が重なり合って少しずつ目には見えない円の軌道に沿ってゆっくりと動いていた。中には美しい光の環をもったものもあれば、その球体全身を覆ううすい霧のためにすっかり円周がぼやけているものもあった。視界の右側には澄んだ青い球体がわたしたちを見つめていた。その球体の表面にはあの少女の描いた白い斑点や流動する緑の怪物たちもいたし、先ほどわたしたちを覆っていた濃淡の紫色のコントラストもあった。計り知れない感動がわたしを包んでいた。わたしは声もなく、言葉もなく彼女の身体に包まれながらそれらの美しき表層をながめていた。世界の肉体をまるで美術館に陳列する絵画のような現実味のない思いで眺めていた。


 見ている。わたしが、見ているのだ。わたしの思考が、構想が、願望が、この世界に反映されていくのをこのわたしが。このわたしが見ている。わたしの目に、わたしの網膜に、すべての事象が内包されている。わたしの目がすべてを映し出している。この世界は、わたしの解釈が描いたものだ。わたしはこれからわたしが生んだ世界と一体化する。それは何の矛盾もないことなのだ。しかし自らの内に洪水のように押し寄せてくるこの疑念はなんだ?わたしの直観に問う、わたしは何を間違えたというのか?


 見上げると、彼女はさも得意げな調子でわたしに向かって話していた。


「もうわかったでしょ。この世界の仕組み。もう何もかも安心でしょ。わたしたちは、見えるものを通してしか判断することができない。絶対的で確実なことは見えるものをおいてはありえない。思考する存在を自らの内に意識したその時から、わたしたちは気づいていたわ。自己の存在を肯定したとき、世界は自己によって操られているということを。そして真にそれを自覚した瞬間に、世界と自己の境界線は消失し、わたしたちは世界のなかで生きる使命を負うのよ。」


 わたしの身体はもうほとんどなくなっていた。心もとない不安定な輪郭が、彼女の制服と暗黒の空間を背景としてかすかにその姿を現しているだけであった。どうしようもないジレンマ。自己の存在をどこまでも肯定した結果、わたしたちは自己の存在を消失するしかないのか?この自己と世界は異なる独立した存在ではないのか?しかしわたしは直観として知っていたのだ。わたしの認識を超えたどこかにーたとえ、その「わたし」がわたし自身が知覚できない「無意識のわたし」であったとしてもー、確固とした輪郭をもつ確実で絶対的な存在がわたしに手を差し伸べていることを。確かに彼女の言うように、自分の目を通して、自分の解釈を通して、物事はいかようにも変化させることができよう。わたしの意識が、いかなる表象を自らの目に見せることもできよう。わたしの頑強な意思のもとに、いかなる現実も創出することができよう。しかしその現実は、真の現実ではありえない。その現実世界は、ただ「世界の肉体」であるにすぎない。


 わたしの心に、宗教めいた不確実で曖昧な信念が渦巻いていた。しかしそれはわたしの儚き運命の、最後の希望であった。根拠もない。証明もない。どんな理論的な思考も、論理も浮かびはしなかった。しかしその考えこそがわたし自身を勇気づけ、復活させるものであることにわたしは確信を持っていたのだ。そしてただその事実のみが、この信念がわたしにとって有益であり理にかなっているものであるということをいやおうもなく示唆していた。


 わたしは、「世界の精神」に結合しなければならない。


 そうつぶやいたとたん、わたしは自分がいた太陽系の一点からその地位を失って制服姿の彼女の手を逃れて真っ逆さまに地球の重力に従って落ちていった。わたしの存在は大気圏に入り、青い澄んだ空に浮かぶ雲を突き抜けて、わたしがいたはずの、わたしが通っている学校の保健室のベッドに吸い込まれていった。

 

 そして次の瞬間、保健室のベッドに寝ていたわたしは目をぱっちりと開けて、わたしを上から心配そうに見つめる美しい「彼女」に向かってにっこりと笑ってみせた。彼女はそれでも、不安そうにわたしの耳元にささやいた。


「大丈夫?学校の前で倒れていたのよ。」


わたしは自分でもびっくりするほどの快活な声を出していた。


「大丈夫、大丈夫。ただの貧血だよ。」

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