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夢見る世界のシャボン玉  作者: 竹内謙作
We must link to the spirit of the world.
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幻影

 わたしは疑惑の目を彼女に向けずにはいられなかった。そうすることでしか、恐怖の感情がわたしの意識の湖面に現れるのを抑えることはできなかったのだ。ところがわたしの厳しく険しい目は、むしろ彼女の思惑通りに話を進めるために好都合だった。彼女はこれから、魔法と呼ばれる紛れもないひとつの現実をわたしに示すだろう。そうしたこれから起こる一連の出来事をわたしは知っていた。しかしその自らの予見を否定することでしか、わたしは自己を存続させることはできないのだ。


「まだ本当に信用してはくれないようね。では目に見える形の現実として、疑いようのない確固たる証拠を提示しましょうか。」


彼女はうきうきとした気分で微笑んだ。わたしの硬い髪の毛を柔和な手のひらで擦りながら抱き抱え、次の瞬間には仰向けに寝ているわたしの肉体を起こし、驚くべき強靭な力を発揮して白い天井を突き破るかのような勢いで斜め上の空間へわたしを放り投げた。そのときわたしは静かに、身じろぎもせず、ただ事のなりゆきだけを見つめる冷徹な思考をもっていたので、わたしの肉体が鮮やかな放物線を描き、そして地上への堕落という型の鎖で縛られる様相を思い描いていた。しかし実際にはそうはならなかったのだ!わたしは空中で停止していた。静かに、身じろぎもせず、わずかな動作を起こすことも、外部の環境によって無理矢理起こることもなく、厳粛に静止していた。もはやわたしの肉体は外側に広がっているいかなる物理現象とも隔絶していたのだ。


「ほらね。理解するのは簡単なことでしょう。意識によって、人は翼がなくとも特定の空間に浮遊できるようになったのよ。どうして人間は地上に張り付いていなければならないの?なぜ小鳥のようにあの美しい青空の中へ溶け込むことができないの?誰がそうならなければならないと決めつけたの?それはあなた自身が決めつけているのよ。あなた自身が、自分の願望を寒空のもと舞い落ちる白くて小さい雪の粒のように卑小で脆弱のものとして捉えていて、『暴力的なほど広大な外の空間にはとても敵わない。すぐに押しつぶれてしまう』と思い込んでいるからよ。その広大な外の空間を作り上げているのは誰?それは独裁者でもなく、あなたを取り巻くおびただしい人々でもなく、自然でもなく、ましてや無意識のあなたでもなく、思考し意識し自我であると自負しているあなた自身が作り上げているの。あなたは途方もなく偉大で、尊大な存在なのよ。」


彼女が止めどなく弄び続ける言葉の連続ーそうだ、この表現がなんと的確にそのときの彼女の状態を指し示していることか!確かに彼女は、壮大な音楽を構成する五線譜に並ぶ音符の羅列をバラバラに分解してまるで意味のない記号に仕立てあげるかのように、全体の文章の意味をまったく考慮に入れずに、ただバラバラに散らばった音たちを言葉のように見せかけ、「弄んでいた」のだ。ーにわたしは驚愕の思いを乗せるべきであったのだろうか。わたし自身の悔恨と悲しみと憂いを打ち消すような歓喜の表情を彼女に見せつけるべきであったのだろうか。あの瞬間、彼女が欲求する彼女の現実を成り立たせるためには、どのような反応が適切だったのだろう。ところがわたしの中で芽生え花開いた感情は無関心、無頓着でしかなかったのだ。わたしはきわめて冷徹に、一つも感情が揺さぶられることもなく、空中に浮いたまま彼女を見上げていた。そんなわたしを見てむしろ彼女はさも可笑しそうにはにかんでみせた。


「あら、馬鹿におとなしいのね。きっと、驚いたり慌てふためいたり怒り狂ったりすると思ったのに。あなたがあんなにも大切に抱き、守り続けていた『現実』が無残に崩れ去っていくのを目の前にしても、こんなに冷静でいられるとは思ってもみなかったわ。本当に、面白い人ね。」


彼女は、無表情に空中の一点を浮遊しているわたしの姿を見つめながら、くすくす笑っていた。どうやら自分が予想していた通りに現実が動くことを前提として生きてきたために、かつてない例外が現れたことに快感を得ているようであった。しかしその例外も、次の一瞬の間には彼女の頭の中から消失されるにちがいない。たとえ彼女の脳が作り上げた理路整然にまとめあがられた世界ー原因と結果がもっともな根拠によって順序良く並びあげられた世界ーがわたしの無反応によって揺れ動き不安定になることがあったとしても、ゆがめられた彼女の思い込みと解釈によってすぐに回復するだろう。わたしにとっても現実とは、こんなにも無意味でくだらないものなのだろうか。


あの観念が、わたしの頭の奥底でうずいている。


わたしが観察し、認知できるすべての万物は、わたしが作り上げたものである。


「あなた、願いなさい。自分の願望を心の中で言いなさい。わたしがすべてその通りにしてあげるから。あなたが望むままに現実を構築してあげるから。なんでも、好きなことを言えばいいのよ。自分の欲望を吐き出せばいいの。遠慮することはないのよ。ほら、今すぐにでも。もういい加減その顔はやめて、不快なの。早く、言って!!言いなさい!!」


彼女はわたしが全然表情を変えないことに対して焦りを感じたのだろうか、次第に語気を強めて狂ったように叫びはじめた。金切り声にも似た彼女の嘆願を生み出す唇は唾液で不気味に光り輝き、その唇の間から覗く歯と歯の狭間の闇から、わたしは彼女の口がどこまでも続く暗い空洞であることを確認できた。ふと興奮した彼女が鼻息を鳴らしながら自らの小さな身体を浮かせて、わたしの方へ近づいてきた。そしてわたしの胸ぐらを掴み、つばを飛ばしながら低い中性的な声色で同じような嘆願を繰り返し耳元でつぶやき始めた。


「言いなさい、望みを。あなたが願う世界を。何ものにも代えがたいあなたの思考そのものがこの世界に反映していくのを見たくはないの。早く、早く言いなさい。あなたがこの現実の神なの。あなたのためにすべてが存在しているの。願いなさい。あなたにはそれをする権利があるのよ。」


それらは一定のリズムと音程で繰り返し繰り返しわたしの耳の中で、わたしのちっぽけな意識の表層の中で響き渡っていた。わたしの意識の海は、彼女の恫喝の波紋でいっぱいになった。それらの波紋は幾重にも重なり合い、そして徐々にその丸い、きらびやかな線がわたしの海面を覆い始めた。彼女の圧力に押されてわたしは正体のわからない言いようのない苦痛を抱き、ポロポロと涙を流し、自らの目を水分で一杯にしながら、小さくうめき声をあげるようにしてつぶやいた。


「僕は、この世界のすべてを見たい。過去も、現在も、未来も、すべてを見てみたい。広大な現実、すばらしい現実、圧倒される現実を見たい。」


嗚咽をもらしながらわたしは獣の鳴き声のように言葉として判別のつかないような声色で喉を鳴らしていた。彼女はその声を聴いて幾分満足げにうなずきながら、はじめからそういえばいいのに、と小さくつぶやいていた。


「あなたの願望を叶えましょう。」


彼女はわたしに向かって悪魔のような魅惑で微笑んでみせた。こちらを震え上がらせるようなその笑顔を見てわたしは、まるで彼女がわたしの心臓を無造作につかみ粉々に砕いてしまったような感覚を受けた。


 ふと、また体が浮き始めた。わたしたちは純白の天井を突き抜け、そのほかの多くの天井を突き抜けて、気が付いたときには青空の中に自らの身体を投げ出していた。眼下には、正方形、長方形、ときには円を組み合わせた多様な幾何学模様が広がっていた。それらの模様の間を、たくさんの細かな直線たちが埋めていた。わたしは、それらの均整の取れた造形を美しく心の中にとどめていた。まるで広大な砂浜から少しだけ姿をのぞかせている小さくて可愛らしい貝殻を見つけたかのように喜びの表情を浮かべながら。それらの幾何学模様のさらに向こうには、緑の曲線たちが縦横微塵に青い背景を横切っていた。よく目を凝らしてみると、それらは小さな起伏で構成され、無限にうねり続ける大きな怪物のようだった。その怪物の背中には、青い画面を自由に散らばっていく白い斑点たちが見えた。完成したキャンバスにいたずら好きな少女がその華奢な手でこっそり忍ばせた白い絵の具たち。


 うっとりとその風景に見入っていたわたしは、その感情とは背反する恐ろしい予感を無視していた。しかしその予感は見る見るうちに膨れ上がり、もはやわたし一人の力ではどうにもできないほどわたしの精神を満たしてしまった。そうして着実にそれらのわたしの恐怖は、目に見える現実のものになり始めていた。わたしの身体は次第に自らが描いたキャンバスの青に溶け込み始めていた。ゆっくりと、しかし確実に、自らの存在が透き通っていくのをわたしは感じていた。やがてこの世界に、わたしはいなくなる。わたしは、消えてなくなる。わたしを構成するあらゆる物質たちが、優しい輪郭をつくりあがるのをやめてしまう。わたしの肉体から白く光り輝く泡沫たちが浮き出てきた。それらはわたしをせせら笑うように、また一つまた一つと宙に浮かび、少女がいたずらに描き上げた白い斑点たちに同化していくようであった。わたしは痛みに耐えきれなくなって悲鳴を上げた。全身から押し寄せてくるこの悲しみ。彼女はわたしが抱える人間存在の悲愴を必死にごまかそうとして、わたしの哀れな肉体を抱いて包み込み、残酷な言葉でいっそうわたしを苦しめるのだ。


「怖がらなくていいのよ。何も心配しなくていいの。これは当然のあなたの物語の終結なのよ。あなたが思い描いていた世界の実現なのよ。あなたも、あなたを取り巻くこの世界も、実質としてはまったく同じ存在なの。でもあなたはその紛れもない事実をいつまでも意固地に否定して、別々の存在であるように錯覚していただけ。あなたは、この美しい風景そのものなのよ。信じて、わたしを信じて。お願いだから。」


「嘘だ、嘘だ、絶対に嘘に決まっている!」


わたしは、わけのわからない衝動に駆り立てられ、まるでいまこの世界に生み出された赤ん坊のようにわめいていた。鼻水を彼女の胸に押し付け、わたしの目からあふれ出る透明な液体たちを彼女の首に垂らして、わたしは泣いていた。こんなの、認めない。わたしは、ここにいるのだ。ここに存在するのだ。それでなければ一体、この肉体はなんだ。いま思考するこの物質はなんだ。これが自我ではないのか。確かに存在するといえる絶対的存在ではないのか。


「そんな戯言にはだまされない。僕は、僕である。それ以外の何者でもありえない。僕は、僕というこの自己の空間ー一定の物理的範囲を占める肉体ーがここに、存在することを知っている。僕の脳が、その内部の思考が、僕自身を作り上げていることを知っている。ちっぽけな僕が、ちっぽけな君とは全く異なる存在であることを知っている。僕は、僕が見ているこの世界とは断たれた、独立した個人であることを知っている。醜いこの指先の一本一本が、貧相だがれっきとした輪郭で、僕と外界とを無情にも分断してしまうことを知っている。この見える客観的な事実を誰が否定することができよう。」


わたしは、必死に言葉を紡いでわたしの内部から泡沫が湧き出てくるのを止めようとしていた。わたしがここに存在することを示そうとしていた。しかしそれらの無邪気で脆弱なわたしの行動は、まったくの徒労であるという予感を消し去ることはできなかった。彼女はせせら笑いながらわたしにまくしたてる。


「あなた、自分がわけのわからないことを言っていることを自覚してる?見える客観的な事実を問題にするのならば、それこそいまここであなたの身に起こっていることを説明しなければならないのよ。どうやって説明するつもり?あなたの言うように、世界とあなたが独立して存在するのならば、どうしてあなたの身体が泡沫となって風景に吸い取られなければならないの?絶対にあなたにはそんなこと証明できないわ。だって、あなたが考えていることは間違っているのだもの。人間が、その肉体に輪郭をもっているのはあくまで仮の姿としてなのよ。そしていつしか、いまのあなたのように世界の一部となって溶解する真実の姿になる。それこそが、本当の現実なのよ。」


「しかし、いやでもしかし、僕は僕なんだ。いまこの瞬間、思考している、君と会話しているこの存在が、僕なんだ。僕は、僕という存在を信じていたいんだ。この意地悪い泡沫を、何とかしてくれ!僕は、死にたくない!まだ生きていたいんだ!もう勘弁だ、やめてくれ!」


わたしは駄々をこねる赤ん坊のようにしきりに手足をバタバタさせて、何かわたしには決して否定できないような、わけのわからない見えないものに対して、もがき苦しみながら必死に抵抗していた。彼女は、そんなわたしの奇行をその柔らかな腕でやさしく、しかし力強く抑え込んでいた。


「わたしたちは、見えるもの、知覚できるもの、認識できるものを現実だと考えることしかできないわ。だって、それ以外のものの肖像を浮かび上がらせることなど、できるはずがないもの。そしてそれらの現実は、他でもないあなた自身が見ているのよ。この世界は、あなたの視線ーあなたの解釈と思考と論理ーによって生まれ出でたのよ。それを誰も否定することができない。この世界は、あなたの反映でしかない。だから現実とは、あなたと世界が一体化した姿であるという結論の方がどんなに自然で合理的なものか、お利口なあなたならわかってくれると思うのだけれど。」


わたしは何も言い返せなかった。わたしが彼女の精巧な欺瞞を覆す反論の材料を一つも持ち合わせていなかったからであり、またわたし自身の精神が世界に吸収されるその絶望感を絶え間なく味わっていたからでもあった。実際、どんな文言も思いつくことなどできなかったのだ。死ぬこととは、分断されているように見える自我と外界が、そのまやかしを取り払って完全に適合する瞬間、その当然の帰結を言うのかもしれない。わたしたちは、死ぬことによって真実に生きることができるのかもしれない。しかし、それではいまわたしがここにいて、自我を感じることができるのはなぜなのか?この現象の意味とはなんだ?どんなに試案をめぐらせても引っかかるこの不安はなんだ?


「ごらんなさい。これがあなたの思考が現実へと変化していく瞬間なのよ。」



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