苦悶
目を覚ましたわたしの眼球が最初に捉えたのは、白い天井だった。とっさにわたしは、また自分の目を閉ざそうとした。何よりも自分が一番怖い。あの空白のキャンパスのなかに、わたしは何を見せつけられるのだろう。薄桃色の桜の花びらか、彼女の美しい顔か、それともわたし自身の顔か。思考をやめたい。これ以上の苦しみがわたしを待っているのなら、消えてしまった方がましではないのか。あの観念に溺れて一生夢と戯れ遊んでいた方がどんなにいいことか。ふと、この現実を脱する一番の得策を思いついた気がした。それは、無為である。もはや何もしないということでしか、わたしは自身に勝利することなどできないのではないか。それは破滅的な勝利である。わたしは自らの内に秘める敵を抱きながら断崖絶壁に飛び降りる覚悟であった。
「空白が怖いの?でも目を閉じたところで、結局暗黒の背景に白いイメージが広がっていくのよ。何も状況は変わらないわ。」
あどけない少女の声?いや中年の女性の声か?それとも年老いた婆の声?どちらとも判別のつかない囁きが近くから次第に遠ざかっていくように、あるいは遠くから近づいてくるように聞こえた。あるときには大勢の女性たちが口々に発する叫び声として、あるときには一人の女性の嘲りとしてその音たちはわたしの耳に届いた。わたしは反射的に目を開けてその声の主の姿を確かめようとしたが、そんなことをする必要はなかったにちがいない。たとえわたしの視界が真っ黒に染まっていたとしても、それこそその声の主は白いイメージとしてわたしの前に姿を現したであろう。
そこには白い布に包まれた制服姿の少女がいた。肩にぎりぎり届かない程度の短い髪の毛が眉毛を隠すところまで垂れている。その眉毛の下には細長い楕円型の瞳が思慮深げにこちらを見つめている。山の丘陵を思わせるすらりと伸びた鼻の下には固く結ばれた唇。青白い頬は引き締まっていて少し痩せこけているようにも見える。全体的に弱弱しく映る顔の輪郭全体が見る者に不安を与えていた。その不健康で脆弱な出で立ちが、何を考えているかわからない不気味な彼女の魅力を生み出していた。
「あなたは何をそんなに怯えているのかしら?この世界が怖いの、それともわたしが怖いのかしら?」
「僕は、僕自身が怖いのです。この世界を認識する僕という存在が怖いのです。」
わたしが喉から絞り出すようなうめき声でそう言ったとき、彼女は大声でゲラゲラと笑っていた。その笑い方は人間が面白おかしいときに行うそれでは決してなかった。それは欧米人が未開の地に住む野蛮人の行動を観察するときの反応のような、圧倒的に上位の視点からの嘲笑であった。
「はじめてこの世界に生まれ出でた子供のようなことを言うのね。」
ひとしきり笑った後、彼女はいたずらっぽく少し眉を吊り上げながらそう言った。それは母親が何も知らない幼い子供に家事を教えるときのような、馬鹿にゆっくりとした声色だった。わたしは不快さを露わにしていることを自覚しながら、怪訝そうに聞き直した。
「子供?」
「そう、子供よ。あなたの心はまっさらで汚れがないわ。でもその分だけ何も知らず、この世界のありとあらゆる事象の幾ばくかの断片に鋭敏になっているだけなの。誰もが分かり切っているがゆえに、生きる上で当然無視しなければならない恐怖を、わざわざ死ぬために感じ取っているだけなんだわ。」
「なにもかも知らないふりをすればいいということか?わたしの中に住み着く無意識も、空白の美も、予知夢も、あの観念も、なにもかもを。そんなことはできない。いっそう得体のしれない恐怖に襲われるだけだ。もはや逃れられないのだ。どうすることもできないのだ。」
わたしの声はしゃがれて、悲愴な音を奏でていた。何も意味のないことに精を出しているようにーまるでそれは乗客のいないメリーゴーランドが真夜中に無言で回り続けているようにー惰性でわたしの舌はもつれながら一つの言語を形成するために動き続けていた。何度も自らの歯や唇に衝突しながらも、わたしは自らの内に秘める不安の連続をどうにか形にしようと四苦八苦していた。
「知らないふりをするのじゃなくて、何もかも知っているふりをするのよ。そして自分が知っているというその思い込みさえ忘れてしまうのよ。当然のことよ。至極当然の前提。この世界で生きていくためには、暗黙のうちに了解した気になっていなければならない世界の秘密なのよ。あなただけが気づいているわけではないの。あなた以外のこの世の人たちが無知で愚直で哀れな存在ではないの。本当に可哀そうなのは、あなた自身よ。あの観念を、意識的に忘却の彼方へと投げ出すこともできず、かといって立ち向かうこともできない、ただ自分自身を堕落させるために存在しているあなた。ああ、なんて弱いの。なんて愛らしいの。」
彼女は部屋の隅で縮こまる子犬のように怯えているわたしを憂いの目で見つめている。ふと彼女は白い布の呪縛から解放されたように立ち上がり、白い呪縛のなかで横たわるわたしのそばに歩み寄ってきた。そうして仰向けになって白い天井の世界へと自らを引き込もうとしているわたしを妨げるように、わたしの肉体のすべてを覆うようにしてわたしの体の上に倒れこんだ。彼女の柔らかな感触が、わたしの精神を握りしめるように悲痛に感じられる。わたしの肉体は泣いているのだ。もはや一片の快楽さえ感じることもできず、自らの身体を戯れにまるでおもちゃのように彼女の前に差し出すことさえもできなかった。
彼女はわたしの頭を細やかな腕を引き延ばして擦りながら、陽ざしに包まれたかすかな風のようにわたしの耳にひたすら「怖くない怖くない、誰もが知っている、一人じゃない」とつぶやきつづけていた。しかしその行為がどれほどの慰めになるというのだろうか?わたしの中で渦巻き続けているあの恐怖を誰かと共有したところで、それはわたしが没頭し自らを奈落の底に落とし続ける思索の観念から引き起こされる不安を軽減することになりはしないのだ。
「わたしが知覚するこの現実は、無意識のわたしによってコントロールされているのか?すべて自分の都合の良いように変化させ、『運命』という名のもとに彼の意思によって意図的に作り出されたストーリーを表面的なわたしが追体験しているだけなのか?もし意識と言うものがいくつもの精神の層が積み重なった球体であるのなら、その中心ーわたしの核であり母体であり源泉であるその絶対的存在ーの思い描いた世界を、球体の一番外側の薄っぺらな上皮である、自己不安を抱える哀れで醜いわたしが観察しているというだけなのだろうか?なんてちっぽけな現実!なんて脆く、儚い現実!現実は無意識のベッドで眠っている。現実は夢を見ている。無意識のわたしが調合した恐ろしいほど効き目のある睡眠薬によって永遠に眠り続ける、孤独で寂しい現実!」
視界がぼやけて、はっきりと認知していた彼女の肖像が乳白色の霧のなかでかすんで見える。意識することのできない闇に閉ざされた永遠の孤独の姿が、脳裏に浮かび上がったような気がした。いくつもの感情が混じり合った頑強な塊を自らの身体の外に追い出すために、わたしは涙を流していた。わたしのもとを離れるその滴たちは彼女の白い首に、肩に、胸に落ちていく。涙でぬれるわたしの現実は、ピントのぼけたカメラから見える世界のようにあまりにも歪んでいた。考えてみるとわたしの苦悩は、日常にあるありふれた事象でしかないのかもしれない。それはわたしが気づいていなかっただけで、いつでもわたしの傍にいた。一体自己の内的な変化に全く影響を受けない現実などありうるのだろうか?すべての現実は、わたし個人によっていくらでも変わる。現にいまわたしは、自らの悲しみで満たされた眼球の水滴によって、現実を異様に弯曲することができるのだ。わたしの思考に反応するかのように、彼女は口を開いた。
「真に現実を操るのは、無意識のあなたではないのよ。あなたの言葉を借りれば、意識の上皮の中に存在するあなた自身ーいま確かに存在する意識できるあなたーがこの現実を操ることができるんだわ。あなたの自由な解釈で、独断と偏見にまみれた現実を構築することができるのよ。あなたが認知しようとしなければ、あるものの存在は消えてなくなるわ。あなたがこの世界にいてほしいと願う者だけが、存在するのよ。そんな事実は、今まで誰もが気づいていたことだわ。そうして誰もが意識的にそれを利用してこの世界で生きているのよ。あなたはただその世界の仕組みを、無意識のあなたに託していただけ。夢を見ていたのは、意識するあなた自身よ。そうしていまあなたは目覚めたんだわ。全く新しい、今までの憂鬱な時間が嘘のように感じられる素晴らしい人生があなたを待っている。あなたは生まれ変わったんだわ。くだらない妄想なんてすぐに捨てなさい。今からあなたは自分自身の確固たる決意と大いなる意志によって、この世界を作り上げていくのだわ。」
わたしは彼女の胸の中に抱かれ圧倒的な包容に支配されながらも、どうにかして彼女に反逆できないものかと思索を巡らせていた。実際どうして自分がここまでむきになっているのかも謎であった。彼女の言葉は非常に感覚的であり曖昧である。わたしが彼女の思考を否定できないのは、その理論ー彼女がわたしの内に込めた恐ろしい自己中心的世界の創造理論ーが決して理路整然として非の打ちどころがないからではなく、その理論があまりにも不確定で不確実であるがために、ちょうど砂浜の上に浮かんで美しい情景を投影する蜃気楼の幻惑をわたしたちの誰一人として触れることができないように、決して論理的に捉えることも理性のもとで自らを服従させることもできないからであった。
だから、もう少しだけだ。わたしは自分自身に暗示を重ねる。だから、もう少しだけ彼女と思考を重ねてみよう。わたしが自分を破壊しない程度に。わたしが自己を崩壊させない、限界のところまで。