空白
一瞬時間が止まったように感じられた。彼女がわたしの顔をじっと見つめているとき、わたしの心はすっかり冷えて固まってしまっていた。ふいに足にまとわりついていた鎖がわたしの全身を縛り上げはじめた。割れた精神の裂け目からまた自我の意識の泡沫が空中へと出ていく。彼女の存在を作り出す薄桃色の曲線が黒色の輪郭に変貌していく。彼女がこの世に力強く存在している限り、わたしを作り出す境界線はいっそう希薄になってしまうだろう。
「いえ、たぶん会ったことないと思いますけど。でもあたし全然記憶力ない方だから正直よくわかりません。どこか街角であたしを見たんじゃないんですか?」
彼女は首をかしげながら幾分真面目な顔でそう言った。わたしはなぜ自分がこんな馬鹿げた質問をしたのか不可解でならなかった。そうしてまた、悪魔が冷たい手で背中に触ったかのような悪寒を感じた。自分の夢が、現実を塗り替えられていく恐怖。わたしの思考が、現実をじわじわと犯していく恐怖。背景に見える桜の姿がゆらゆらと揺れ始めた。言いようのない吐き気、目まい。もうここにはいられなかった。
「ごめんなさい、たぶん僕の気のせいだと思います。それじゃあ、またどこかで。」
わたしは足早にこの場を去ろうとした。すると彼女は前を通り過ぎようとするわたしの腕を驚くほど力強くつかんだ。痛みと恐ろしさから、わたしの全身に激震が走った。
「待ってください。なんでそんなに逃げようとするのですか?あたし、極度の方向音痴なんです。あなた、あたしと同じ学校の生徒ですよね?学校まで一緒に連れて行ってほしいのですけれど。」
哀願するような彼女の瞳が、またわたしを凍らせようとする。わたしは自分の凍結を避けるように彼女から目をそらした。以前のわたしなら、この状況をどんなに願っていたことか。この日が来ることをどんなに待ち望んでいたことか。しかしいざその夢のような世界の魔の手がわたしを追いかけ捕まえ、自己を中心にして回るこの現実を侵食したとき、わたしには何も残されていなかった。わたしと名の付くものはすべて、彼女に奪われてしまった。だからわたしは、彼女という宿命に従順になることによって、自分自身を確認するしかないのだ。
「連れていくって言っても、もうすぐそこにあると思いますよ。いまあなたの目に映る桜並木の通りを抜けたところにあるはずです。」
会話をすることで徐々に心も安定してきたのか、ようやくわたしは落ち着いてまわりの風景を見渡すことができた。どうやら学校は思ったよりも上の方にあるらしい。いまは桜の木に隠れて一部しか見えなかったが、少し登ったところ、傾斜の緩やかな丘の上に学校が存在することはわかった。ショックの連続のためか、わたしは昨日入学式で同じ道を通ったというのに、学校の位置さえ記憶がおぼろげだった。
「でも、やっぱり不安なんですよ。誰かそばにいないとすごく寂しいし。何かお話ししながら行きましょうよ。」
彼女は照れくさそうに唇から少し舌を出した。変わった子だ。実に変わった子である。初対面の、名も知らない男と話す?一体、何を話すというのだろうか?少しの間、わたしは口を開くことができなかった。
「あーー!!いますごい変な顔したーー!!話すことなんて何もないとか思ってたんでしょ?ちっちっち。わかってないでやんすな、旦那。会話は中身じゃないんですよ。会話をするというその行為が大事なんです。そんなんじゃモテないですよ?ところで、あなた何年生ですか?」
先輩と会話している可能性もあるというのに、よくもそんなセリフが吐けるな。わたしは心の中でそうつぶやいた。いつのまにかため口になっているし。どうやら思ったことをすぐに口に出すたちらしい。わたしにとってはとても苦手な女の子の類だった。
「一年生ですよ。」
わたしは軽蔑の目で彼女を見つめながら、そうぶっきらぼうに言った。しかし彼女は桜の美しさに目を奪われてわたしの方を見てはいなかった。
「やっぱり!そうだと思ったの!だってあたしに道を教えるとき、ちょっと自信のない顔をしていたもの!なんだ、同級生じゃん!全然タメでいいよね?ねえねえ、部活とかどこに入るか決めた?」
「中学のときソフトテニスやってたから、硬式テニスでもやろうかな…と」
「へー、あたしは中学のときと同じで、吹奏楽部とかやろうかなと思っているの。」
なんだか安っぽいドラマの、どうでもいい日常の情景を切り取ったような会話に身を委ねたからか、わたしは拍子抜けしたような、気まずい感覚に打ちひしがれていた。わたしは彼女がこんなに人付き合いがよく、元気で明るい女性であることなど知らなかった。わたしは彼女がこんなに他人のことなどお構いなしに、いま自分が思ったことを率直に話す女性であることなど知らなかった。いまのいままでわたしは彼女を、まるで美術館に飾られた美しい風景画のように眺めていただけだった。そうして避けがたい尊敬と畏敬の念で、彼女の内に神としての絶対性を見ていたのだ。わたしは自分でもよく気が付かないうちに、彼女が空白であることを望み、彼女が明るい光で彩られることを決して願ってはいなかったのである。わたしは彼女の中に思考も、知能も、性格も、精神と名のつくどんな性質も求めてはいなかった。ただ空白の、空っぽの、魂が抜けた後の肉体に自分の思考を乗せて、恐怖し憧れ、敬いたかったに過ぎない。
彼女はもはや美しくはなかった。彼女はただの醜い人間だった。後方へ通り過ぎていく桜の薄桃色の背景からは完全に隔絶した、色彩をもった一つの個体である。日の光に当たって幾重もの光のスペクトルをその身にまとった、完全なる一個人である。しかし、その確固たる存在がどれほどわたしに安らぎを与えてくれたことだろう。消えかかっていたわたしの存在がくっきりとその輪郭を現しはじめた。地平線からゆっくりと太陽が昇るときに見える、あの病的なほど力強い光の輪がふいにわたしの全身を覆いはじめた。彼女が、わたしには予想もつかない、わたしという存在とはかけ離れた個人であるということ。わたしには、わたしの現実がある。彼女には、彼女の現実がある。この世界の無数の現実たちの中のたった二つが、この会話を通して少しずつ重なっていく。それらは別々の意思をもつにもかかわらず、それでいてこの瞬間だけは、彼女がカラカラと明るい響きをもって笑いわたしに微笑みかけるこの瞬間だけは、確かにつながっているのだ。
吐き気はなくなっていた。恐怖はなくなっていた。美しさも、幻想も、妄想もすべてわたしから遠ざかっていた。わたしは彼女のなかに救いを求めていた。彼女とつながっている現実を求めていた。君よ、どうか黙らないでくれ。どうかいつまでも笑いながら話し、永遠にわたしに微笑んでいてくれ。わたしは孤独であり、そうして君とつながっているという感触を永遠に繋ぎとめていてくれ。
「見て、学校だよ。」
彼女が喜々としてつぶやいた。はしゃぎながら丘の上に建つ荘厳な学校を指さしている。これからわたしの素晴らしい劇場がはじまる。わたしによって繰り広げられる世界がはじまる。何も怖がることはない。わたしには彼女がいるのだ。大丈夫、大丈夫だ。彼女はわたしの妄想の中に亡霊のごとく現れる恐怖では決してない。わたしが見ていたのはすべて、いまわたしのそばにいる彼女ではない。あれは、あの美は、わたし自身だ。すべて独りよがりの、お遊びだったんだ。現実は、わたしを捕まえたりはしない。現実は、わたしとは全然関係なくいつもここにあるのだ。
わたしは彼女に笑いかけていた。それは、自分自身に対するわたしの恐怖が終焉に達していたことを象徴していた。勝利、まぎれもない勝利だ。完全なる、唯一無二の勝利。わたしは、わたしに勝ったのだ。
わたし?わたしは誰に勝ったというのか?
その瞬間、わたしは誰にも解き明かすことのできない、誰も捨て去ることのできないあの観念を思い出した。無意識のわたし、わたし自身が決して捉えることのできない、わたしの中核にいてわたしを中心とするこの世界のすべてを操るこの絶対の存在。
あの存在が、無邪気にわたしの傍で笑う彼女を制御していないと誰が言うことができよう?わたしがいま感じているどんな意識の波もすべて、ただわたしの意識の表面にだけ起きている。わたしという意識の海の奥底では、わたしとは別個に存在するわたしが、この見せかけの、偽りのわたしにこの安らぎも、この恐怖も、この妄想も、この喜びも、この悲しみも与えているというのか?
わたしの中に脈々と流れる血という血がすべて沸騰し、蒸発したかのような怒り。結局は、彼の手のひらで踊り狂うだけの傀儡としてのわたし。全身のありとあらゆる場所に糸を付着させどこかでわたしを動かす彼に、なすすべのないわたし。何もかもが、意味のないことなのか。わたしの存在も、彼女の存在も、彼がつくりだす淡い水色のシャボン玉のように、わたしの精神の割れ目から吹き出るいくつもの泡沫のように、何の意味もないことなのだろうか。
目の前が真っ暗になった。むしろわたしは意識的に、自分の目を閉ざしていた。そうしてゆっくりと、しかし確実に意識の海の深淵へと落ち込んでいった。まるでもう一人の、神としてのわたしと一体化しようとするように。何も、見たくはなかった。何も、感じたくはなかった。
「ねえ、大丈夫?大丈夫?」
誰かがわたしの肩を揺さぶってささやいている。まるでうわごとのように、おぼつかなく不安げな声を奏でながら。