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夢見る世界のシャボン玉  作者: 竹内謙作
We must link to the spirit of the world.
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邂逅

ついに恐怖が現実となる瞬間がわたしを捉えようとしていた。高校はもう目の前まで来ていた。視界の左右にはきちんと整頓されて行儀よく並んでいる住宅が連なり、朝の陽光をきらびやかに反射して、わたしの瞳にそのくっきりとした姿を見せていた。


 わたしの足取りは重かった。足に何重にも鎖が巻き付いているかのようであった。なぜ歩く?これから始まる恐ろしさの連続を考えれば、いまここでそこから逃避するのが一番の得策ではないのか?しかしわたしは、一定のリズムを繰り返す右足と左足の動作を止めることはできなかった。まるでどこか途方もない遠くにいるわたしという意識を越えた何かが、無数の糸をわたしの身体のそこかしこに引っ付かせて、それらの糸を引っ張ったり押したりしてわたしを一定のリズムに引き込んでいるかのようであった。操り人形として仕立てあげられたわたしは、一歩一歩の精神的苦痛を知りながらも、自分をやがて訪れる恐怖に身を浸すための傀儡に成り下げることに夢中だった。


 いまわたしの意識の中に浮遊する一つの観念の泡末は、やはりあの少女の白い顔である。ふとまた脈略のない妄想に襲われた。必死に足を止めようとしているわたしの意思に反して、誰かが体中のあちこちを勝手に動かして前に進めているように感じられたのである。乱暴に腿をつかんで前方に押し込んでいるのは誰か?わたしは震えた目で下を向いた。そこには、白い少女の顔をもつ骸骨のような肉体があった。地面に開いているぽっかりとした黒い穴から這い出してきたその衰弱した身体は、骨ばった両手で肉に食い込むようにして腿を抑えていた。その体の見た目に反して、骸骨は強大な力でわたしを抑え込んでいた。おそるおそる頭上を見上げた。そこにも、空中に開いた穴から出てきてわたしの頭を掴んで離さない骸骨の白い肉体があった。その存在のせいで後ろを振り向くことはできなかったが、はっきりと自らの体の後方のありとあらゆる場所を掴む数えきれないほどの骸骨たちの気配を感じ取ることができた。わたしの肩に、背中に、腕に、首に食い込む乾ききった骨と皮だけの手の集団。わけのわからない不気味さのために、声を張り上げて叫ぶ気力さえ失い、青ざめた顔でただその肉体たちのなすがままになるしか法はなかった。


 ついにその瞬間が歩み寄ってくる。心臓は言うことを聞かなくなっていた。急に動悸がいままでにも増して大きくなり、自分でも滑稽に思えるくらいわたしは犬のように舌を出して懸命に呼吸をしていた。ぴくぴくと瞳孔が小刻みに動いているのがよくわかる。これほどの精神的苦痛を味わいながらも、どうすることもできなかった。そうして自分の網膜に広がっていく景色を凝視していた。なんというおぞましさだろう。そこには、これから通うことになる高校の名物の一つである桜並木の通りがあった。薄桃色の花びらを一心不乱にまき散らす桜たち。ずっしりとした根元から柱のように頑強な幹が突出し、その幹に網目状の細い枝が付着している。しかしそれは桜の真の姿ではないのだ。注視せよ、その立派な地上の仮の姿を身にまとい、地面に眠るようにして横たわる妖艶な影のシルエットを。それこそが本当なのだ。その様相は、わたしを誘い込み幻想の彼方へと導いてしまうような悪魔の姿であった。その存在は、わたしを日常の平和なリズムから遠く離れたどこかへ突き放す強大なエネルギーを有しているのだ。


 ふと辺りが暗くなり、視界がぼやけてきた。目がくらみ喉元から何かがこみあげてくるような吐き気がした。心は破れ気力は尽き今にも倒れそうな精神を引きずっているのに、奇妙なことにわたしと現実を分ける境界線において肉体は極めて健全であった。ここにおいて精神と肉体はずたずたに引き裂かれてしまった。わたしは独り、外見からは決してわからないであろう得体のしれない精神の断絶に苦しんでいた。


 あっ。自我の意識から脱却したように、そうして一つの独立した意思を持ったかのように唇が小さなうめき声をあげた。それは何とも形容しがたい感覚だった。わたしの内部を形作る精神の裂け目からあの美しい女が顔を覗かしている。そして裂け目に手を入れ、無理やりにでも中から外に出るために精神の穴をこじ開けようとするのだ。その女が穴を広げようと手に力を入れるたびに突き破るような悲壮な痛みがわたしを襲った。彼女は精一杯の力でわたしを内側から砕こうとしていた。その苦痛の深淵に身を浸すだけでわたしは満ち足りていた。彼女が強大な力によって小気味よい響きとともにわたしの精神を破壊したとき、わたしは一種の解放された感覚を味わっていた。自分のすべてが外界に拡散していくのがよくわかった。


 彼女はわたしの胸を抜け出して現実世界にその美しい姿を露わにしてみせた。次の瞬間、彼女の姿は消失し無限に続くように思われる二つの桜の行列の真ん中をはるか奥の方から歩いてこちらに向かってくるのが見えた。しかしそこに、背景の空間とは別の物質が存在しているとはにわかには信じがたかった。少しでも目を離すと、彼女の姿はその境界線を失い薄桃色の背景のなかに溶け込んでしまうのはないかと思われた。それほど彼女の輪郭は弱弱しく儚げだった。彼女の存在は半透明であり、わたしが懸命に認識しようと、その場所に彼女がいるという事実を強く頭に刻み付けなければ、簡単にわたしの前から姿を消してしまうのではないか。


 徐々に近づいてくる彼女の足取りによってかすかに揺れる大地の震動がわたしの足の裏を伝わって全身へと流れてくる。彼女の存在の夢のような不確実さが、わたしをまた自分一人だけの空想の世界へと誘う。線の細い肉体の輪郭は、まるで亡霊のようであった。一瞬太陽の白い光が桜の幹の間をかいくぐり彼女を包み込んで消し去った。そして次の瞬間には彼女はわたしの目の前に立っていた。


 わたしはすべてをはっきりと自覚していた。もうこの一日がはじまるその以前から、この情景、におい、音、肌に触れる感覚がいつかわたしを襲うときがあるとしっかりと了解していた。夢想として現れるこの不可解で説明のつきようのないわたしの能力ーそれは世間体に言えば予知夢ということかーは、いつももだえ苦しむ自分自身の姿を嘲笑っているのだ。そうして永遠に自身を悩ませるにちがいない。自分がこれから体験する未来が先にわかっているとは、その未来がたとえ自分が望んでいるものであったとしても、なんと恐ろしいことであろうか。過去の自己によって決められた道のりをただ歩んでいくだけの人生など、いま現在の自己を消失させる恐怖でしかありえないではないか。わたしは馬鹿である。そして愚かである。しかしこの現象は逆らうことなどできない自身に委ねられた一つの宿命である。過去のわたしが、この思い描いた未来が理想であり、妄想であり、そしてどうしようもない現実であると固く信じている限り、宿命を忠実に受容するほかはない。


 彼女は微笑んでいる。いたずらに、無邪気にわたしを見つめている。その眼差しは、頭上に存在する途方もなく遠い黒い宇宙の一点から、青い空を突き破ってわたしに降り注いでいるようであった。彼女にはなにもない。彼女は空白である。彼女の肉体、精神、思考、感覚はすべて真っ白に染められている。そしていつだって愚直に、それでいて残酷にたたずんでいるのだ。


 わたしは彼女に勝利しなければならない。打ち負かさなければならないだろう。もう覚悟はできていた。無限に続く現実との戦いはすでに始まっているのだ。少し首をかしげて、彼女は透き通った声であの音の旋律を奏でた。


「あの、、、。S高校へはこの道をまっすぐ行けばよいのでしょうか。」


そのとき、わたしが感じた観念は突飛なものだった。彼女のセリフ、情景は確かに夢のなかでみたはずなのに、それがこの現実世界のどこかで過去のある時間に経験したことのように思えたのである。わたしはとっさに口を開いていた。そして自分でも驚くような言葉を彼女に浴びせていた。


「そうです。この道の向こうに高校があるはずです。あの、つかぬ事を伺いますが、以前にどこかでお会いしたことはありましたか。」


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