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夢見る世界のシャボン玉  作者: 竹内謙作
We must link to the spirit of the world.
3/18

列車

 透き通った青い空が列車の中のわたしを見下ろしている。妹と彼女が通う中学校の校門で別れた後、わたしは高校に向かうために乗客がひしめき合う列車に乗った。狭い空間の中で幾度となく繰り返される肉体の波に揺られながら、わたしは独り自らを襲う得体のしれない恐怖におののいていた。一つの予感が、いやおうもなくわたしのこころをつかんで離さなかった。その確実に到来するであろう未来の像は、わたしが待ちくたびれてやまない理想であると同時に、言いようのない不安を導く最悪のシナリオでもあるのだ。


 ある刹那、わたしの精神がまた新たな現実を目の前に表せてみせた。ふと見ると、急に列車のなかに暗黒の闇が広がり、まわりの乗客たちがみなこちらを向いてわたしをみつめているのであった。そのとき、わたしは叫び声を上げるのを必死になって抑えていた。わたしの視界に入るありとあらゆる無機質な乗客の顔が、あの美しい少女の白い顔に変貌していたのである。その無数の少女の顔たちは、唇をきっと結んで何も感情をもたない冷酷な目をしていた。黒い背景に縁取られて白く光るために、より不気味に感じ取れた。まるでわたしの意識がゆっくりだが確実に、彼女のものになっていくような感覚だった。しかしそれは正確さを欠いた表現かもしれない。より正しく言うのならば、あの夢の中で彼女に魅せられたわたしの潜在した思考がー現在のわたしとしては実在しない過去のわたしがもつ思考がー徐々にいま存在しているわたしの意識を中心から表層までじわじわと支配するような感覚だった。わたしは彼女のなかに飲み込まれるように見えて、実のところもう一人の自分のなかに吸い寄せられすっぽりとおさまってしまうように感じられた。


 わたしは彼女の挑むように構える美しい顔を見た。それはただ存在するだけで、彼女自身に威厳と尊大さを、わたし自身に苦痛と寂漠を感じさせるのには十分だった。わたしは常に、彼女の美にうろたえる自分自身に恐怖を抱いているのである。そうしてわたしは自分自身を呪わずにはいられなかった。彼女の顔が映り込んだわたしの眼球の網膜、それを脳へと導く神経回路、そして美しいというおぞましい観念を自分自身に植え付けるわたしの脳を恨まないわけにはいかなかった。


 美しさとは、それ自体が大いなる存在の暴力である。


 わたしにとって美とは救いでもなければ歓喜でもありえなかった。その存在がわたし自身を消えさせる一つの残虐行為である。朝の陽光が、列車の中の暗闇を横切っていく。美しい彼女の顔の白い光を横切っていく。わたしは反射的に、どこかに助けを求めるようにして窓の向こう側の青空を見上げた。雲一つない一面の青がわたしの頭上を覆いかぶさるようにして確固たる存在を露わにしている。ほかには何もなく、ただ何もないという存在が青色に染まっている。美にとって必要なことは何もない。美の本当の脅威はむしろ、それが何ももたず、何ものでもありえない空白だということである。美は空っぽである。しかしそれこそが、わたしに対してそこに強固な存在がたしかにあるという思いをいっそう強くさせる。暗闇を照らす青は、わたしより彼が上位であるという特権を生かしてわたしのこころを隅々まで照らし出し、わたしがいまここにいるという自我の存在をどこまでも希薄に、空虚なものにしてしまうのだ。


 君にはどこにも逃げ場はないのだ。君自身が、君を自覚するわずかながらの領域も、希望さえ君には与えられていないのだよ。


 ふと何層にも重なった人間の音の旋律が無情にもわたしの耳に入り込んできた。それらのおびただしい数の音の羅列は、少し時間をずらすようにしていつまでも同じ言葉を繰り返し繰り返しわたしの中で鳴り響かせている。こころがゆらめく、からだがゆらめく。わたしをつらぬく鼓動の波が、じわじわとわたしの全面にどこまでも染み込んでいった。


 青空から目を転じて、わたしは彼女の顔の集合を見た。言うまでもなく、あの音の旋律の主は彼女の顔たちであった。彼女らは微笑んでいた。そして口々に同じ悲痛の訴えをわたしの耳に送り込んでいるのだった。わたしというこの空間には、どこにも自分など存在しない。すべてが見透かされていた。いつのまにか透明になってわたしは列車の闇と同じ存在になってしまったのか。列車は暗闇に包まれるわたしの体を背負って、どこまでも下へ、とほうもない地獄の門へとわたしを導いているように感じられた。

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