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夢見る世界のシャボン玉  作者: 竹内謙作
We must be betrayed by the world.
15/18

悟性

長軸が32センチメートル、短軸が15センチメートルの楕円軌道を下になぞるような優し気なカーブ-瞳-。そのカーブから、3センチメートル程度の多くの直線-睫毛-が垂れている。

 透明な定規越しに、わたしはすやすやと眠る彼女の瞳を見つめていた。この世のものではないような奇怪で不可解な存在であった彼女を、こんなにもやすやすと自分の領域に入れ込めるなんて。わたしは驚きを隠せなかった。定規に存在を映されることによって、あっけないほどに彼女は自身の映像をわたしの意識の中に現在させることに成功していた。わたしは、今もってようやく彼女を手に入れることができたのだ。むしろそれは、紛れもないわたし自身の意思の力が、彼女をここに在らしめたと言っても過言ではなかった。

 そうである。彼女はもともといなかったのだ。そうして今ここでやっとわたしの手によって創造されたのだ。今までの一度だって、彼女の質感を得たことがあっただろうか。彼女を実在として捉えたことがあっただろうか。そんな幸福な瞬間は一度だってなかったのだ。それは当然の話だ。それまでの過去の履歴において彼女は空白でしかなかったのだから。彼女は目に見えるだけで、生きてはいなかった。彼女の姿や、声や、においはわたしの五感を犯しただけで、そこに行動はなかった。わたしの強力な王国の力が、彼女を誕生させたのである。

 青い空を浮遊するおぼろげな雲のように形のないものを、わたしは丁寧に、一種の愛おしさを胸に抱きながら、輪郭をつけていった。それはわたしという成分が外界へと染み渡り、彼女の姿となって収束する感覚をわたしに与えた。結局はわたしがいるからこそ、彼女はいるのだ。わたしの意識や思考があるからこそ、彼女はここにいるのだ。次第にわたしは何かを感じているのか、何かを行動しているのかがわからなくなっていた。わたしの感覚と行動の美しい一致がそこにはあった。

 両目の目頭から3センチメートル離れたところを60センチメートルの直線-鼻-が上下に突っ切る。その直線の終点から5センチメートル下のところを左右に広がる50センチメートルの柔和で緩やかな線-唇-。耳は直径45センチメートルの半円だった。わたしの心をどうしようもないほど痛めつけ、散々に砕くあの扇情的なあごの角度は分度器で測定すると120度であった。首は直径100センチメートルの円を底面にした高さ40センチメートルの円柱。その円柱の下には250センチメートルの肩の線がまっすぐに左右に伸びている。

 次第にわたしは、自身の念願の想いが成就される喜びを感じながらも、全くの徒労を自分に課しているような、虚しい感情に押しつぶされそうになっていた。こんな行動をしても結局は何もしていないことと同じではあるまいか?むしろ、徒労を徒労であると再認識するためにわたしは行動しているのであろうか?わたしの精神はだんだんと自分の行動に対して嫌悪を感じ始めた。肩から腕にかけて描かれる曲線の角度を測定しようとしたとき、ついに恐ろしい不安がわたしを襲った。

 わたしが測定しているのは、だれだ?

 こんなことをしてもわたしは彼女を捕まえることなどできはしない。それどころか、わたしは彼女と自らの間に立ちはだかる、巨大な壁のような隔絶をはじめて感じ取ったのだ。わたしの感覚も、行動も、そうしてこの二つの融和、結合も、わたしがなしうるいかなる活動も、彼女を捉えることはできない。感覚の彼女、行動の彼女、そしてこの二つが融和した彼女を生み出すだけにすぎない。彼女の本質とは別の、まったく異質な存在を誕生させるだけなのだ。

 わたしのあらゆる活動は彼女の身体、その何の意味もない表面をなぞっているだけだった。その事実はただ、世界の肉体をどこまで研究しても、永遠に世界の精神にたどり着くことはできないことをわたしに提示させた。

 その瞬間、彼女の瞳は、およそわたしの意思とも意識とも関係なく、まさに彼女の王国の力によってパッチリと開いた。彼女はわたしをじっと見つめて、にっこりと微笑んでみせた。彼女ははじめて、わたしの意思とは関係なく、完全に独立した純粋な意思にもとづいて行動したのだ。彼女は口を開いて、ささやくように言った。

「あなたは何をしているの?」

この台詞は嘲笑ではありえない。どこかユーモラスを感じさせるわたしの奇怪な行動に対する、彼女の率直な疑問であった。にもかかわらず、内なる無意識的なわたしはあふれだす憤怒の念をもって意識的なわたしのもとへ迫ってきた。もはやどうすることもできない。無意識的なわたしは、確固たる強力な暴力によって、意識的なわたしの服従を命じた。わたしの意識は、犯罪という思考を無視し、行動の王国の暴走を無視し、ただそれらを見守るだけの傀儡になることを余儀なくされた。

 気が付くとわたしは彼女の美しい頬に傷をつけていた。わたしの行動のこぶしは、それ自体に狂気の感情を抱いた武器であった。わたしは何度も何度も彼女を殴った。世界の肉体をどこまでもいたぶった。わたしはどこまでも自分をだまし、欺いていたかったのだ。そうして、自分の思い通りになる事物だけが存在する桃源郷のような世界を、自己の王国によって満ち足りた世界を確立したいだけだったのだ。本当は世界の精神なんて見たくなかった。それ自体何の意味もない代物であることを知りながらも、それがただの幻であり自分に対して向けられた壮大なトリックであることを知りながらも、世界の肉体に定住し、その中でだけ生活する、愚かな人間の幸福を手に入れたいだけだったのだ。それなのに、なぜわたしは禁断の果実を食べてしまったのだろうか。人間の幸福とは程遠い場所にある、絶望と嫌悪と罪悪と羞恥と疎外と空疎と諦念と狂気に囲まれた、真実の世界をどうしてここまで追求しようとしたのだろうか。何もかもかなぐり捨てて、彼女をただの身体として見ていたときのほうが、どんなにかわたしを正常のままに押しとどめていたことだろう。しかしすべては過去のことだ。わたしはついにこれから安住することになる、世界の精神の光に照らされた王国をこの目で見てしまったのだ。

 わたしは、永遠にすべての事物の本質-無意識的な自己の本質も、意識的な自己の本質でさえ-を認識することはかなわないだろう。それらはすべて、わたしの嗜好と傾向性と欲望によって支配された自己の王国の世界であり、世界の肉体でしかない。そして万物の本質の唯一の特徴である、わたしが認識できないというこの不可能性-わたし自身を燃え尽くすほどの、この無理解と嫌悪と絶望感-こそが、世界の精神を認識するということなのだ。

 わたしは世界に裏切られた。そしてこの「世界の裏切り」こそが紛れもない世界の精神の認識である。

 興奮と熱情と憤怒と悲愴が幾十にも重なり合ったわたしの精神の成れの果ては、瞳から零れ落ちる涙となって彼女の身体に吸い寄せられた。彼女はわたしに殴られても、彼女の頬に無残な傷をつけられても、それらの現象に対して何の感情も、一片の興味さえ示さなかった。彼女の唯一の興味は、世界の精神をようやく受容し始めた、わたしの精神の王国にあった。彼女はすべてを了解していたのだ。彼女はわたしの精神の歴史を保護者として優しく眺めていた。そうして、じっとわたしの成長を見守っていた。わたしが世界の精神の存在を自覚するまで、決して彼女自身の王国を見せようとはしなかった。なぜなら、まさに彼女自身が世界の精神でありえたからだ。わたしが世界の精神を認めようとしない限り、彼女の王国などわたしにとっては存在さえしなかったのだ。仮に彼女がわたしにはじめて会ったあの瞬間に、すぐに自身の王国を見せようものなら、わたしは彼女を受容しなかっただろうし、ただ気味悪い別個の生物として認識しただけであっただろう。その後すぐに、彼女と会ったことなど意識的に忘却し充満した世界の肉体の海の中を遊泳していたことだろう。だから彼女は自分の正体を決して見せようとしなかった。あからさまに「空白」としてふるまうことでわたしに注意を向けさせること以外は何もしなかった。わたしが彼女を受け入れる準備をするまで、何の行動も示そうとはしなかったのだ。

「もう、殴ろうとはしないの?」

自分でも気が付かないうちに、いつしかわたしは殴ることをやめていた。じっと彼女を見据えて、彼女の精神を一心に感じ取ろうとしていた。今まで自己の認識のもとにあったすべての万物は、世界の精神をわたしが予期した瞬間、恐ろしい怪物のようなものに変わっていた。それは彼女でさえも例外ではなかった。わたしは自身の歴史が180度転換した、思考の大幅な転換が起こるずっと以前から彼女を見聞きし知り尽くしていたはずなのに、いま生まれたばかりの赤ん坊のような知識の空白さをもって彼女に対峙していた。彼女を、およそ予想もつかない奇妙な一個体の生物として好奇の目で見ていた。

「なんで、泣いているの?」

わたしは彼女の率直な問いに何一つ応えることはできなかった。無言で彼女の前に居座ることしかできなかった。彼女はわたしのすべてを知り尽くしているから、だからこそわたしに話させようとしているのだ。誕生したばかりの、今までとは全く異質の、新たな自己の王国を育て上げるために、この世界が恐怖で支配されていることを安心してわたしが受け入れるために、わたしに行動させようとしているのだ。

「どうしようもなく辛くて苦しくて気持ち悪いけど、少し安心したから。」

わたしは何度も何度も嗚咽を交えながら、彼女にそう訴えた。彼女は未だわたしに微笑みかけているだけだった。

「あなたはわたしを理解しようとしはじめてくれた。それだけでわたしはうれしいの。」

「僕はなにもわかっていなかったんだよ。でもこの自分の愚かさをやっとわかったんだよ。」

「そのために、わたしはあなたのそばにいたんだわ。」

彼女は微笑んではいたが、その微笑みはどこか憂いと悲しみが漂っていた。

「僕はもっと君のことが知りたい。もっと教えてほしい。君の構造と、そして君が取り囲むこの世界の仕組みのすべてを、もっと僕に教えてほしい。そのために、僕はここにいるんだ。」

「それはあなたが自分で見つけないといけないことだわ。」

いっそうの悲愴を胸に抱きながら、彼女は震える声でわたしに言った。

「わたしの役目はもう終わったの。あなたにそれとなく気づかせることだけが、わたしの責務だった。でもその任務はもう終わったの。わたしはわたしのもとに帰らなくてはならないし、あなたはあなたのもとに帰らなくてはならない。」

「でも僕は、やっと君のことがわかりかけてきて。君のことが本当に好きになってきて。君がいるからすべてのことを受け入れようとしはじめて。君がいなくては何もできない。」

「あなたも心の底では理解していることよ。知っているでしょ、わたしとあなたの断絶こそがわたしたちの正義であり、この世界の真理。」

「そうだけど、でも僕はまだ精神的に未熟だから。君の助けがないと…」

そのとき彼女はその美しい人差し指をわたしの唇のすぐ手前まで突き出して笑ってみせた。

「汝のなすべきことをなせ。」

次の瞬間には彼女は忽然と姿を消してしまった。あの澄んだ、この世のものとは思えない重複した声の重なりが、いつまでもわたしの耳の中で響いているだけだった。

 

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