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夢見る世界のシャボン玉  作者: 竹内謙作
We must be betrayed by the world.
13/18

行動

 目を覚ますと、見慣れた天井がわたしを見据えていた。わたしはしばらくの間、自分の家の天井をそうしてにらみ続けていた。

 内容はすっかり忘れてしまったが、どうやらわたしはとても安らかな夢を見ていたのだろうか。わたしの精神は柔らかな感動に包まれ、平穏な恍惚の余韻に浸っていた。心は一片の曇りもない純粋な光の中に現れ、わたしの歴史上の新たな発見に胸を躍らせている。唯一の汚点は、わたしがその思考の成果を忘却の彼方へ放り出してしまった、ということだ。わたしの記憶は、あの行動主義の彼女と列車に乗り、彼女が行動主義への参画をわたしに命じたところで終わっていた。

 彼女の言葉の一つ一つは、わたしの中に渦巻くありとあらゆる迷いを払拭していた。ふと右腕を天井の方へ突き出すと、掌から生える指先の一本一本が鮮やかな朝の日差しを率直に吸収し、そして反射させていた。確かな輪郭が完全に外界と一線を画し、目に見える現実の中に自己が存在することをわたしは静かな喜びをもって確信していた。そのとき頭は少しだけズキズキと痛んだが、すぐに治まってしまった。わたしはこの論理に浸ってしまっていて、ここに何らかの間違いがあるなんてことは思いもよらなかった。

 思い浮かぶのは、空白の彼女の姿であった。わたしの使命は、不確かな、正体のわからない不可視なものに形を与えること。まさに、行動によって空白の美を実在の美へと変化させることである。すべてを目に見える現実へと投影することで、あらゆる恐怖は消えてなくなるにちがいない。

 そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。わたしは自らの身体を起こして日常の生活の歯車にかみ合わせた。


 授業の二時間目が終了したあと、わたしは彼女のもとへ急いだ。彼女は机の上にうつぶせになって眠っていた。肩を揺さぶって無理やり起こさせると、眠そうな目をこすりながらかすかな声でつぶやいた。

「どうしたの?」

「いや、今日一緒に遊べないかなと思って」

「いいよー部活休みだし。あなたは部活ないの?」

「あるけど、サボるわ。」

彼女はニヤッと笑った。

「悪い子だね。」

「なぜだかわからないけど、遊びに行きたい気分になったんだ。午後5時に校門の前で待ってて。」

「わかった。」

彼女は何事に対してもこだわりのない女の子であった。わたしは、極めて人付き合いがよく、あけっぴろげな彼女の性格をよく知ってはいたが、裏を返せばこの事実は彼女の空白さに由来しているものではないかと疑っている。彼女が人間に対してこだわりがないのは、ひとえに人間一般に好奇心を感じることがないからなのではないか。彼女は他人に対してはそれほど興味がなく、自分自身に対しても案外興味がないのであろうか。とびきり好きなのは小説や、音楽や、美術といった文芸の道であった。こうした話については驚くほど雄弁に、饒舌に話をした。しかしそれ以外の事柄については関心があるようなふりをしてその実何も頭に入っていない様子であった。わたしが自分の友人の話をしてもすぐに忘れているようである。いつもどこか空想を弄んでいるような顔をしてわたしの顔を見ると彼女独特の微妙な微笑みを見せる。

 だからわたしはまるで彼女の精神を知らなかった。彼女にはついぞ意思というものが存在しなかった。彼女はわたしの思うがままに行動し、まさにわたしの分身であり、傀儡であった。あえてそういうふるまいをして一種の快楽にふけっているような様子だった。自己をどこまでも消し去り、ただひたすらに奉仕をしつづける従順な空白さが、そこにはあった。

 この清純で、どこにも汚れがない恐ろしいまでの空白に対して、わたしは一つの畏怖にも似たおそれを感じていた。だから、彼女が自身の精神の輪郭だけでも、影のようなおぼつかない形だけでも示してくれはしないか、と祈りにも似た願いを心の内に秘めていた。いままさに、この長年の願望を目に見える行動へと映しかえるときがきたのだ。わたしが主体的に行動を起こしたとき、外界に現在しているその痕跡を観察することで、そこに自己の王国を見て取ることができる。これはあの行動主義の彼女が打ち出した自己認識の道具だったが、わたしはこの自己の行動の中にもう一つの意義を与えることができる。すなわち、自己の行動は、外界の認識を高めようとする目的のために使用することも可能であるということだ。わたしは彼女がこの現実に確かに存在していることを感覚として確立させるために、その目的を純粋な行動の原理として採用し、この原理のもとに率直に行動することにしよう。これは、革命的なわたしの思考の発展であった。保健室で会った彼女との対話の中で作り上げた全く感覚主義の自己認識と、行動主義の彼女が披露しわたしを勇気づけた行動主義の自己認識の融和が、形となってわたしの思考の中に生み出されたのである。感覚によって外界が自己の中に容赦なく染み込むことによって得られる一つの世界と、行動によって自己を外界へと染み込ませることによって得られるもう一つの世界がようやく重なり、和解をはじめたのである。

 感覚と行動の一致。この震えるほどの感動に浸りながら、わたしは彼女が目の前に現れるのを校門の前で待っていた。内面の満ち足りた情動に呼応するかのように、世界は光り輝く色彩の積み重ねでわたしを魅了していた。光と影が風に揺れて交差する桜の木々たちを地面で見て取りながら、わたしはそれらの繊細な姿をはじめてしっかりと見入ることができたような気がした。明瞭で画然とした光と影の遊戯は、漠然とふるまうように観衆を錯覚させながら、それでいて一つの普遍的な法則に忠実に即していることを喜んでいるようだった。わたしは、空白の彼女に法則を与えたかった。ただわたしに付き従うだけの彼女に、彼女自身によってつくりだされた一つの自由な法則をこしらえてあげたかった。

 やがて彼女がやってきた。少し小走りにわたしの視界を一定の速さで、その気味の悪い正確な速度で移動していく現実体としての彼女。しかし、どれほどその行動の一つ一つがわたしを不安にさせることだろうか。まるで何かに追われているような、何かのために自分を捧げているような不安定な存在。わたしは彼女の話が聞きたかった。わたしは彼女自身が何かしらの感情に揺り動かされるのを見たかった。わたしは彼女の無邪気な意識の表層を感じたかった。わたしは彼女に対して、あらゆる実在としての思考の顕在化を要求していたのだ。

 

 

 

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