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夢見る世界のシャボン玉  作者: 竹内謙作
We must be betrayed by the world.
12/18

報復

 そこには、見まがうことなき恐怖の光景が広がっていた。

 少し以前の世界では、彼女はまったく意のままに缶ジュースを握りつぶしているはずだった。現にわたしは、握られ、ねじられる缶ジュースの、異様に作り上げられた皺の一つ一つを妙な行動主義の感動をもって眺めていたのだ。しかし次の瞬間にわたしの目に飛び込んできたのは、彼女によって握られ、ねじられる小さな彼女の肉体の姿だった。これはどういうことなんだ。わたしの精神は混乱を極めた。彼女は、小さい彼女の肉体を弄んでいるのだった。小さな彼女の肉体は悲鳴を上げていた。それは大いなる支配に対するあまりにもひ弱な反抗だった。そのとき無意識の自我は、意識的なわたしにそっとささやいた。

 自己は何かを支配すると同時に、その何かによって支配される。

 君よ、ごらん。これが、世界による報復の風景だ。

 彼女は、このことを知らない。彼女が飲み込んだ現実が、その飲み込んだ行為そのものによって、彼女を飲み込んでいることを知らない。支配とは、つまりは依存であるにすぎない。支配がはじまったときすでに、わたしたちは支配されたものに対する隷従を余儀なくされる。精神は肉体に勝利したように見えて、その勝利そのものによって肉体に敗北している。このことを、彼女に知らせなければ。行動によって築き上げられた美しい彼女の王国は、世界の手のひらの表面に居座っていただけだということを、彼女に理解させなければ。

 わたしは、実在の美であふれる彼女の肩を激しく揺さぶって、ただ彼女にもうこれ以上缶ジュースを握りつぶすのをやめてほしいと哀願した。しかし、わたしの言うことが理解できず彼女が依然として缶ジュースを縛り上げるのをみて、わたしはとうとう我慢できずその缶ジュースをひったくった。

「何をするの?あなた、気が狂ったんじゃないの?」

彼女がいぶかし気にこちらをにらんでいる。わたしが狂人であると?確かに、狂人であるかもしれない。今までの生活からかけ離れたこの事実を会得したという意味では、わたしは狂人である。しかし、世界の精神のあたたかな光が差し込まれたとき、わたしたちの行動は世界の肉体を相手にする限りまったく無益にすぎないということを認めなければならない。自己の王国は、その設立時点で矛盾を抱えるということを認めなければならない。

 意識が混濁し、視界があいまいになってくる。ふと、頬に痛みを感じる自己をわたしは見出した。彼女がわたしの頬を平手打ちしていたのだ。彼女は泣いていた。そうして、いま彼女の目の前にいるわたしが、偽物であることを訴え続けた。

「意地の悪い悪魔よ。彼の中から立ち去りなさい。彼はこんな人じゃない。わたしに意味不明な願いを押し付けるような人じゃない。わたしが悪かったわ。わたしが彼を言いように利用したのが悪かったの。わたしの寂しさを、彼によって少しでも和らげようとしたことがいけなかったわ。だから、目を覚まして。なんでそんな恐ろしい形相でわたしを見るの?いつもの、優しい温和な表情を見せて。何ものも受け入れる屈託のない心を見せて。お願いだから。」

その言葉を聞いたとき、わたしは自己の思想が激しい意識の潮流によって外界に押し流されるのを感じていた。わたしの精神は、一つの事実しか思考していなかった。すなわち、世界の肉体に自己を組み込むことだけに固執して世界の精神を見なければ、世界の精神に報復されるということだ。世界の精神は、自己を嘲笑っているということだ。

「わかってくれ、君が握っていた缶ジュースは君自身なんだ。君は、君自身を苦しめているんだ。」

わたしは自分自身を押し殺すことができなかったのだ。彼女の王国では、彼女に理解されないことが最大の重罪であるはずなのに、その事実を十分に自分に言い聞かせることができなかったのだ。

彼女は一瞬、きょとんとしていた。わたしの中の時間と彼女の中の時間が少しだけずれたように、そこに空白の時間が突如浮かび上がったかのように、無動の空間が二人の間に広がっていた。ふっと堰を切ったかのように、彼女は笑い出した。彼女の高笑いが、暗闇を切り裂いていった。

「これが、わたし?この捻じ曲げられた哀れな缶が、わたしだって言うの?悪い冗談はやめてよ。あなたは悪い夢でも見ているのよ。それじゃなけりゃ、本当に狂っているんだわ。」

彼女に馬鹿にされ、笑いものにされても、わたしは自分の態度を変えることはできなかった。わたしは自分の目に見える彼女の小さな愛おしい肉体が傷だらけになってわたしの手のひらに横たわっているのをぼんやりと黙って見つめていた。

 その様子を目の当たりにして彼女は息をのみ、驚きを隠せない様子だった。そうして、彼女の精神に流れてくる膨大な怒りの情念をわたしの肉体に一心にぶつけた。彼女の精神が、率直な誇りに満ちた純粋な魂が、さんざんにわたしの肉体を傷つけた。わたしはただ、なされるがままに彼女にわたしのすべてをさらしていた。

 彼女のこぶしが、わたしの頬を殴った。彼女の手のひらが、わたしの心を弄び、どうしようもないほどにいたぶった。わたしの肉体が、彼女の行動による傷によっていっぱいになり、まさにわたしは彼女の行動の跡そのものでしかありえなかったのだ。わたしはここで、気味の悪い一つの情景を提示しなければならない。わたしにもたらされた多くの傷たちが、彼女そのものであることを示さなければならない。

 わたしは、彼女の残片に囲まれ、彼女の肉体の中にいたのだ。わたしの中にあふれる無数の傷たちは、あるときは彼女の顔そのものあったし、またあるときは彼女の美しい肩や、首や、胸や、あまたのなだらかな曲線たちであった。それぞれの傷が、精一杯の生命力をもって彼女のありとあらゆる断片をわたしの肉体に反映させていた。わたしの表面は、傷ができればできるほど黒い穴だらけになり、その空洞から彼女の笑顔がこぼれることもあれば、彼女の人工的な構成物が登場することもあった。だから彼女はわたしを殴り、自己の王国をわたしの中に刻み付けようとしたのだが、実際のところはまったく傷が彼女を殴っているのであり、傷によってつくりあげられたおぞましい空洞が彼女の王国を支配しているだけなのだ。

「あっ。」

うめき声とも叫び声とも判断がつかないような音が彼女の口から洩れた。そのとき、わたしは彼女の身を借りて彼女の顔面に征服されているわたし自身を見ていた。わたしの身体を身に着けた彼女は驚いていた。おそらく彼女の目には、穴だらけの彼女自身の姿が映っているはずだ。その穴からわたしのありとあらゆる残片が見えているはずだ。

「あれっ。なんでわたしがわたしを見ているの?なんでわたしの顔は、肩は、腕は、胴は、足は、穴だらけなの?なんでその穴からあなたの顔や、肩や、胴や、足が見えるの?どこからどこまでがわたしなの?どこからどこまでがあなた?わたしは、あなたを殴っていたはずなのに?あなたは誰?わたしは誰?わたしは、あなた自身なの?」

当惑で唇を震わせながら、わたしの姿をもった彼女がこぼれそうなほど目を大きく開けてみせた。わたしは、非常に愉快だった。なぜこれほど単純な事実をすっかり無視してしまっていたのだろう?これは、単なる行動主義の罠でしかないのだ。

「だから言ったじゃないか。君が僕を殴ったということは、まさしく僕が君を殴っているというわけなんだよ。君は僕なんだから、君が君を殴ったのだし、僕が僕を殴ったことにもなるんだ。」

不敵な笑みを見せたわたしの精神に、彼女の精神は逆上した。倒錯した心理が、かわいそうなほど彼女の理論を崩壊させ始めた。彼女の精神は、彼女の肉体を先ほどよりもいっそうの激しさをもって殴り始めた。しかしその勢いも時間がたつと次第に失われ、最後には力なくわたしの精神に手を触れるばかりであった。恐怖で顔面を痙攣させながら、彼女はわたしの精神を呆然と見上げていた。精神の瞳はもはや虚空を見ていた。迷子のこどものような圧倒的な寂しさの中に自分自身を落ち着かせていた。

 一体どれほどの闇の恐怖が彼女を襲っているのだろう。まったくわたしには見当がつかなかった。ただ理解できることは、彼女の肉体の穴が殴れば殴るほど大きくなり、最終的にはわたしの肉体の部分たちが彼女の肉体を完全に消し去る風景を、彼女が確実に見ているということだ。

 なんという皮肉だろう。行動主義によって、彼女の王国が極限まで世界の肉体を征服したとき、その征服の行動によって彼女は自らの王国を崩壊させてしまったのだ。しかしここにどれだけの幸福が眠っていることだろうか。いつのまにかわたしは彼女をやさしく抱いていた。彼女に自らの幸福を自覚させるために、わたしは故意に自らの肉体を彼女の肉体に擦り寄せていた。

「あなた、いたのね。」

眠い、とろんとした垂れ下がった目で、彼女はわたしを見ていた。彼女の肩は、触れたわたしの手のひらの熱を感じていた。

「あったかいのね。」

「あったかいんだよ。」

精一杯のやさしさでわたしは彼女の耳にささやいた。荒れ狂った心の波は、穏やかな日差しに照らされて嘘のように静まり返っていた。

 すべては元の世界に戻っていた。二人は、橋の上にいた。缶ジュースがわたしの手を離れ川へと転がり落ち、水の表面で小さな音を立てた。

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