遊戯
「じゃあ、僕はこれで。」
わたしはそう言って列車を降りようとした。瞬間、彼女の腕はわたしの手をがっちりと掴み、思いつめた顔でわたしを見つめていた。まるでもう決して触れることない宝物を握って離さない子供のような表情だった。いつまでも力を入れている右腕が少し震えている様子がなんとも愛らしく、わたしはその単振動を確かな尊い意志として眺めていた。
「わたしもここの駅の近くに家があるの。だからわたしはここで降りるの。」
正直言っている意味がまるでわからなかった。わたしはいつも彼女が、わたしが降りる駅の二つ先の駅で降りていることを知っていた。事実、彼女がそう言ったのだ。だから本来であれば、彼女がここの駅で降りる理由など、一つもありえない。ただ、わたしともう少しだけでもいいから話していたいだけなのだ。ここに、わたしが畏敬の念を込める彼女の王国の姿がありありと目の前に浮かび上がってくる。わたし自身の王国など太刀打ちもできないほど巨大な彼女の中の現実がわたしを蝕んでいく。なぜかわからないが、その事象はわたしにとても心地よい故郷の味を感じさせた。
列車を降りて駅から出ると、わたしたちはあてもなくさまよい、いつしか足の下に大きな川が流れる橋の上に立っていた。心もとなく点々と散らばる家やビルの明かりたちが川の奥底に光り輝き、二人の網膜に捕らわれることでむしろ安心して眠ってしまっているように見えた。彼女は橋の欄干にもたれかかって黒ずんだ宇宙を見上げていた。わたしはただ彼女がしたいように任せて、背後で亡霊のようにたたずんで、ただただ押し黙っていた。
「ジュースを買ってこい。」
彼女はぶっきらぼうに、振り返ってわたしに叫んだ。きっとにらみつけるようにわたしを見て、まさに一国の王女、それも強力な独裁者のように言い放った。わたしに拒否権などあるはずもない。
彼女は橋の上で待っているというので、わたしは一人、橋の近くのコンビニでジュースを買っていた。レジカウンターの上に置かれた電子モニターに浮かぶ文字の羅列を凝視しているとき、わたしは思いかけず、何の前触れもなく、何の疑いもさしはさまずに彼女は死ぬのではないか、と思っていた。その瞬間、どこからきたのかわからない非常な可笑しみ、異常な快楽を感じて、わたしは一人呆然とモニターの文字の羅列を、それ自体に何の印象ももたずに見つめていた。
またなぜ、わたしの中の本質は、こんな不可解な幻影をわたしのスクリーンに提示するのだろうか。こんな暗示をかけても、決して彼女は自ら命を絶つことはしないだろうし、意識的な自我はこの無意識の自我の横暴による浸食を断固として受け付けないにきまっている。これは夢想だ。わたしはそう認識している。しかしこの夢想は、一段と大きな暴力によってわたしを圧倒していた。そして見過ごせない一つの現実としての形を、ともすればわたし自身が吸い寄せられかねない一つの真実としての視点を、ここに打ち立てる。わたしの目は見た。彼女が満面の笑みでわたしを見ながら、まるで逆上がりをするかのような要領で欄干にひっかけた手に力をいれ、前方へ身を乗り出し、暗闇の中で体を宙に一回転しているのを。そうして重力の強制に身を委ねて、安らかに下に、広大な水の海に落ちていくのを。
存外馬鹿げた妄想でしかない。生に強力な自我を見出す彼女がそんな生と死の遊戯に興じるわけがない。無意識の自我による根拠のない確信によって意識的な自我がだまされるのを知っていたから、わたしはこれから起こることに対してあまり信頼を抱かなかった。
だから橋まで戻ってきたわたしは、欄干の上に立っている彼女を見ても少しも驚かなかった。さらにわたしを驚かそうとして彼女が欄干の上を歩いていても少しも反応を示さなかった。この現象はすべて嘘である。彼女の王国にふさわしい景色ではありえないからだ。ただ、あまりにも放置していると彼女が機嫌を損ねるだろうと思ったので、わたしは一つだけ質問をした。
「そんなところに立っていて、怖くはないのかい?」
「全然。」
彼女は嘲笑うかのようにわたしを見下ろしながら、なんでもなさそうに言った。
「全然?」
「そう、全然。だって、死ぬのなんか怖くないの。」
目を見開いてわたしの残像を少しでも残してから死のうと思っているかのようだった。今にも後方へ身を倒して、彼女自身があのビルやわずかばかりの星たちの光の点に紛れることを期待しているような顔だった。わたしの中の意識的な自我が悲鳴を上げて、恐怖に占領された精神は、いつのまにか彼女を抱き上げ欄干から引きずり下ろしていた。
わたしは今にも泣きそうになりながら、黙って彼女に缶ジュースを渡した。彼女は嬉しそうにそれらをごくごくと飲んだ。
「なんでさっき手すりの上になんか立っていたの?」
「あなたが抱き上げてくれると思ったから。」
「そんな危険なことをしていいの?」
彼女はわたしの顔をじっと見据えて、赤らめた顔で幾分卑屈そうに言った。
「怒ってる?」
怒っているわけではなかった。わたしの中に渦巻く恐怖をなんとか具現化して、その恐怖を打ち消そうとしているだけであった。それは消極的な好奇心というべきものであった。
「怒ってないよ。でも恐怖心はなかったの?」
「あるわけないわ。だって、こんなに楽しいんですもの。生きていても死んでいても、大して変りはしないわ。」
何気なく言い放った彼女の一言が、ずっしりと重い足かせとなってわたしの両足を縛り上げる。彼女の王国はすでに現実を飲み込んでいた。強靭な精神が肉体を征服し、そうして外界さえもわがものとしたいま、彼女には肉体も精神も重要なものではありえなかったのだ。
彼女は飲み干した缶ジュースを握りつぶした。そのとき無意識のわたしは、この問題の核心へと迫る映像を意識的なわたしに認識させることに成功したのだ。握りつぶされているのは、缶ジュースではありえなかった。それは彼女そのものでしかなかった。




