表象
退屈な授業が終わると、わたしは部活動をするために学校裏のテニスコートへと向かった。すでに多くの先輩や同年輩の人たちが集まっていた。
「おっす」
「うぃーす」
わたしの掛け声に幾人かが反応した。皆が皆、思い思いの行動に移っている。柔軟運動をしている人もいれば、友達とおしゃべりをしている人もいた。また、せっかちなためにもうラリーを始めている人もいた。わたし自身も柔軟運動をしようとしていると、自由に行動している先輩の一人が小声で話しかけてきた。
「おいお前、同じクラスの女の子と付き合っているんだって?」
彼がニヤニヤしながらわたしの応答を待っているのを眺めて、いささかわたしは興ざめであった。あの女性とは付き合っているかどうかが問題ではなかった。それは世界の肉体の問題であって、世界の精神の問題ではありえないからだ。
「仲良くしてもらっています。」
わたしはすがすがしく、精一杯の微笑みをもってその質問に答えた。実際、それ以外答える必要はなかった。いまだ表面的な関係でしかない。たとえば、一緒に映画を見たり、水族館に行ったり、食事に行ったり。そういったバラバラの事象が、それ自体として何らかの意味をもつことはない。それらは、世界の精神の温かい目の中で一貫した枠組みを与えられることによってはじめて、真の意味を見せることになる。彼女の精神を観察するためにわたしは言葉しか知覚できないが、真実の彼女の精神は言葉の向こう側に確固として存在する。知覚できない何者かを知覚することが、わたしの使命なのだ。
「そうか。」
先輩はわたしの精一杯の精神の表現をどのように解釈したのだろうか。まるでわたしには見当がつかなかったが、何度も彼は満足げにうなずいていた。
「さあみんな、そろそろはじめるとしようか。」
大げさに手を打ってコートの中心に皆を集合させたのは、うちのテニス部の部長さんである。凛々しく細い目の上に、何の迷いもなく、力強い筆で描かれたような眉。顔の中心を通る高い鼻は、彼自身のあけっぴろげで清純な心情を表す一本の支柱だった。男性的でたくましい精神が、彼自身の肉体と調和し、そこに美しく優しい融和が生まれていた。
ここに集まるすべての肉体たちは、その存在だけで芸術家であり、音楽家であり、詩人であった。ここには、精神の目覚めがあった。彼らの単純で汚れのない肉体の振動、波動、鼓動。それらは輝かしい自然の中に、その単調な運動から引き出される精神のすべてを表している。一瞬のうちに消失しうる儚い灯火のような夢幻の営みは、しかしいま脈打ち、ようやく行き場を見つけた精神の感動によって放たれたばかりなのだ。今までわたしを捉えたどんな妄念も消失しうるその多くの表象は、わたしに多くの安らぎと感動を与えるには十分すぎるくらいだった。
球出しが終わると、ラリーだった。解き放たれた精神の遊戯が、交代交代にその性質の表現に従順になっているのだ。偶然なことに、あるときわたしは自分に手を振っていたあのはつらつな彼女と相手をすることになった。彼女は緩やかで深いカーブと鋭くコートをさすようなネットぎりぎりの直線を広いコートのキャンバスに描いていた。わたしは彼女の絵画に酔いしれ、その中にどっぷりと浸かっていたために、全く思考というものを忘れて、ひたすら正確に彼女の胸元にボールを返し、彼女のしたいような意思に任せていた。思考は必要がない。それらはすでに肉体を通して外界に放たれている。わたしたちは、ボールをただ打ち返しているように見えたが、もはやボールなんて問題でもない。ありとあらゆる美しい輝線ももはやそれ自体として、なんの問題でもない。勝利も敗北も、もはや何の問題でもない。わたしたちは、そんなものよりももっと高次な別のものに勝利している。
わたしたちは、行動によってそれぞれの肉体に自己の精神が勝利する様を見ることができる。
ここにあるのは、精神の幻影でもなく肉体が強制する現実でもなく、精神が肉体を支配する確固たる意思の世界である。スローモーション映像のように、わたしは彼女の美しく光り輝く目がボールをとらえ、まるでボールをその手中に吸い込むかのように体を少し上体に移行してラケットのガットの網目でボールを柔らかく、それでいて力強く触れている様子を観察することができた。横向きになった彼女の足が徐々に前方を向くにしたがって、前足の膝が大きく突き出され後ろ足のアキレス腱は大きく引き伸ばされた。腕の肘は最初は強く前の方に弯曲していたが、もはやボールに触れる次の瞬間には緊張した一本の糸のように腕はまっすぐになっている。彼女はまったく集中しきっていて、目と目の間を垂れる汗さえもう気にならなくなっていた。意思が肉体を吸収しこの世界の肉体に一つの個人的な現実を創生するのを、わたしは生命がいままさに誕生するかのように時を忘れて見つめていた。
「そろそろ、終わりにしようか。」
爽やかで活気のある声がコート中に鳴り響いていた。部長さんが笑顔で練習の終了を告げていた。一年生のわたしは、コートの整備やボールの回収に全力を注がなくてはならなかった。気が付くともはや日は落ちていて、コートは太陽の残光と月の光に照らし出されて黒い描画に白い光の斑点を散乱させていた。
そのとき、わたしはようやく自己の行動の意味を理解することができた。わたしはどうして自分がこんなに得体のしれない感動に包まれているのかを悟った。
わたしは、確かな意志ある行動によって世界の肉体に自己の精神を散りばめる。自己の精神によって世界の肉体を装飾する。しかしそれは紛れもなく、この自己の精神が世界の肉体とは完全に分離されていて、つまりは自己の世界と現実の世界が区別されていて、そうして自己の世界の一部が現実の世界と結合することを意味しているのではないか。すべてが自己の解釈でしかないという世界の肉体からの呪縛から解放されることはなくとも、自己の行動によって明確に自己と現実を区分し、そうすることで自己の存在を示すことはできる。しかしそれは同時に、現実と自己とがそれぞれ独立した存在として互いに対話することでもありえる。自己は現実に寄り添うことによってしか自らを自覚できないからだ。このとき感覚はどうしようもなく貶められる。感覚によって世界を認識することは自己を世界の肉体によって縛り上げることになるからだ。わたしはもはや感覚をあてにはしない。感覚を認識することがあっても、それが現実認識として用いられることはない。重要なのは、わたしがいま何をするのかということだ。思考することによって分裂した自己と現実を、行動によって融和させることが自己認識の問題の一応の解決策にはなりうる。世界の肉体の問題を解決しえない限り、世界の精神を意識することにはならないが。
この行動主義の純粋な精神は、思いがけない別の意味さえも提示している。それは意識的な自己を外界に目に見える形で表すのと同時に、無意識的な自己さえも現実の中に投影させるということだ。わたしの最大の敵ーわたし自身を操る無意識の自己の存在ーを意識的に自覚することが、得体のしれないわたし自身を捉える何よりの利益となるにちがいない。わたしはようやく前に進めたような気がして、一人快感に浸っていた。
辺りはすっかり闇に包まれていた。練習後の片づけや掃除が終わると、部長さんのあいさつで今日の部活は終了になった。帰路に至る。わたしと友人たちは自分たちの家路に着くために列車に乗った。一人、また一人と友人たちが下りていき、気が付くとわたしの傍にいるのは活発で純粋なあの少女一人きりだった。彼女はいきなりわたしの顔をのぞきこんでささやいた。
「最近、まじめに練習しているの?」
少し眉を寄せ不信を顔に表しながらわたしを見る彼女の黒い目。この美しい目に映るわたしの間抜けな顔。この純真な光に対してわたしなどという小さな存在がいかほどの満足のいく回答を与えることができようか。わたしはいつもそうだ。結局ははぐらかすことしか能がないうそつきである。
「大丈夫だよ。ちゃんと遅刻しないで部活に来ているし、部活前の準備も部活後の片づけも積極的にやってるよ。」
「そういうことを言ってるんじゃなくて…」
彼女はふいに正面を向いて、自分の座席の向かい側に座っている綺麗な女の人を見つめていた。いやそうではなく、向かい側の列車の窓に映る彼女自身の顔を見つめていたのだろうか、それとも窓に反射するわたし自身の顔を見て対話していたのだろうか。何か思いつめたように、問題の核心に触れるのが怖いながらも、彼女の開放的な精神が言葉を出さずにはいられないといった雰囲気だった。
「ラリーのとき、なんで人のボールに合わせるだけなの?自分から打ちに行こうとしないの?自分から、こういうボールを打とうということはないの?わたし、あなたには素質があると思うの。だって、どんなボールも同じように、相手のもっとも打ちやすいところに返すことができるんですもの。こんなことは並外れたコントロールがなくてはできないことよ。だから、自分がこうしたいっていうのがあればもっともっとうまくなると思うの。わたし、あなたには伸びる可能性があるからこんなこと言うのよ。ほかの人にはこんなこと言わないわ。」
彼女ははっとして心なしか上気した顔をわたしの方に向けた。目がいつにもまして爛々と光り、瞳の中を縦横無尽に駆け巡る光の点たちがわたしの頭の上に降り注いでいくように感じられた。彼女は綺麗だった。心も体も清潔そのもので、それゆえにわたし自身がその世界に干渉するのをためらうほどだった。
わたしに対する彼女の絶大な信頼。彼女の、飽くなき表現の世界へわたしを参画させようとする確固たる意思。結局のところ、わたしは怖いのだ。理屈ではわかっている。世界の精神の問題を無視し、わたしの、このわたしの行動によって自己の王国を作り上げることがわたしの幸福となることはわかっている。しかし、そこに現実はあるのか?どこまでも自己の王国が広がったとき、そこに自己以外の何かが存在するといえるのだろうか?どこに境界線を見出せばいいのだろう?まったく受動的な意味でのー世界の肉体が自己の世界に浸透していく意味でのー自己の王国の形成と、この主体的な自我がつくりだす自己の王国が世界の肉体全体を支配することとの間に、一体どんな違いがあるというのだろう?それらは過程としてはまったく異なっているが、結果としては同じことだ。一方は獰猛な現象が自己の膜を食い破り一体化するのに対して、もう一方は今度は自己が恐ろしい猛獣となって現象を食い尽くす。残るのは、自己の残存物であふれた死にゆく世界の肉体。
空白の美。自らを透明にすることで、主体がもともと持っていたものへと適合していく魅力。実在の美。自らを色彩あふれたものにすることで、主体を自らの色彩へと誘う魅力。
わたしは実在の美が戯れる世界に憧憬を抱いてはいたが、わたし自身が実在の美そのものになることなど考えもしていなかった。しかし彼女の純粋な瞳、その無垢な情念を眺めているうちに人生の劇場の舞台で自らが演技することがあってもいいのではないかと思っている自分に気が付いていた。いつのまにか、わたしは彼女の光と影の表象に微笑みを投げかけていたのだ。
「自分自身のボールを打てるように頑張ることにするよ。」




