8-053.新しき王たち(第二部プロローグ)
――しとしとしと。
小高い丘に広がる鮮やかな緑。
昨晩から降り始めた雨が、木々の葉を濡らしていた。林を切り開いた粗末な小路が頂上まで続いている。
――チャリ。
雨垂れの音に混じって鎧が擦れる音が微かに鳴った。
頂上に向かう三つの影。純白の鎧に身を包んだ三人の若者が黙々と歩を進めていた。背中のマントが雨粒を吸い込んで、その紅の色をくすませている。彼らは、何れも右胸に同じ紋章を抱いていた。縦長の菱形に紅いドラゴンだ。だがよく見ると、その上半分に添えられた印が各々異なっていた。中央の鎧武者は三つの垂れを持つ飾り紐。右は蓮の花弁。左は星。親族識別印だけが異なるところを見ると、兄弟のようだ。
三人はゆっくりと小路を登っていた。夜が明けて大分経つ。雨雲の上には煌々と太陽が光を投げかけているのだろう。辺りの様子がはっきりとわかる程には明るい。鉄靴が地を踏み締める度に、たっぷりと水を含んだ土が泥となって跳ね上がり、銀に輝く靴の甲に焦げ茶の模様を貼り付けていく。
中央の一人が、ふと薄灰色の空を見上げた。三十歳を少し越えているだろうか。よく整えられた口髭を蓄えてはいたが、二十歳だといっても誰も疑わない程の若々しさに溢れていた。高い知性と強い理性に支えられた彼の青い瞳の輝きは悲痛な現実にも打ちのめされてはいなかった。
「天は、召された父王を悲しんでおられる」
頬を叩く雨粒をそのままにぽつりと漏らす。彼の濡れた金髪は天の嘆きをしっかりと受け止めていた。
「しかし、こんな形で戴冠式を迎えることになるとはね」
左のやや茶色がかった金髪長身の若者が少しだけ首を振る。その顔には、まだあどけなさを残している。二十歳になるかならないか。だが、その顔立ちは他の二人の兄弟であることを示していた。
「何を言っているバステス、戴冠式は一週間後だ」
右の金髪が左の若者を窘める。年の頃は二十代半ば。中央の若者から髭を剃り落として少し細面にした顔立ち。全てを見通すがごとき深いブルーの瞳が弟を詰っていた。
「でも兄さん、今日が本当の戴冠式みたいなものじゃないか」
「ラドック、バステス。今日は戴冠式ではない。しかしバステスのいうとおりだ」
左の男の反駁を中央の男が制した。
次第に小路の斜面が緩やかになっていく。頂上が近い証拠だ。急に視界が開け、三人の兄弟は目的の場所に辿り着いたことを知る。
彼らの青い瞳に真新しい建物の姿が映っている。
「着いた」
左の末弟がほっとしたように息をついた。三人は立ち止まり、確かめるかのように建物を見上げる。
「見事だ」
右の次兄が感嘆の声を上げた。
何の変哲もない丘の上に造るにしては、少々似つかわしくない建物だ。
緩やかなカーブを描いた正五角形の屋根から雨垂れが滴り落ちている。
細かな装飾が施された一抱えほどもある真新しい大理石の柱が、幾本も白亜の五角屋根を取り囲んで支えている。
ピカピカに磨き上げられた石柱の隙間から、萌葱色に着色された大理石が円形に組み上げられているのが見える。その萌葱のブロックの一つ一つにはレリーフが填めこまれ、精霊と思しき姿を浮かび上がらせていた。何かの聖堂のようだ。
「父王がこれを見ることが出来なくて残念だ」
中央の兄の言葉に右の弟が答える。
「兄上、女神リーファは既に……」
「大丈夫だ。心配ない」
彼らの中では一番年長の兄が向き直り、二人の弟の青い瞳を順番に見つめた。暫しそうした後、長兄はおもむろに口を開いた。
「ラドックは西、バステスは東。そして私が中央。父王の言葉通り。いいな」
二人の弟は無言で頷いた。
――しとしとしと。
雨はその嘆きを止めることはなかった。
◇◇◇
三人の甲冑の男は玄関へと続く三段程の石階段を登る。
聖堂正面の大きな木の扉はほんの少しだけ開けられていた。そのまま入るようにという印だ。
中央の長兄が代表して扉を押し開ける。
――ふわり。
風が流れた。
聖堂の中はホールのような空間になっていた。円形の内壁に沿って、幾本も並べられた真っ白な石の柱が天井まで伸びている。吹き抜けの天井が高い。天井付近の横壁には天窓がいくつも設けられ、外からの光を招き入れていた。床には大理石。正四角形に整形された薄紅と白の滑石が市松模様に敷き詰められている。椅子の類は一切ない。
ホールの奥には、背丈の三倍程もある乳白色の巨大な彫像が金の台座に安置されていた。長い髪が風に靡くように大きく後方に流れ、腰の辺りで折り返して正面の膝にまで届いていた。胸元近くまで開いた薄手の布を纏った姿が象られている。豊かな胸にくびれた腰、完璧なバランスを保った長い手足。女神像だ。
女神は目を閉じ、微笑みを浮かべていた。細い首からたおやかな曲線を描いて肩のラインを作り、体に沿ってぴたりとつけられた両腕は、肘の辺りから少しだけ外側に広げられ、両の掌を正面に向けて開いている。
――リーファ神殿。
王都を見下ろす「静謐の丘」の上に建てられたそれは、英雄王レーベが命じ、その完成を見ることがなかった大地母神リーファを祀る神殿だ。
神殿に足を踏み入れた三人の若者はその荘厳さに打たれ圧倒されていた。
「お待ちしておりました」
三人の背中に凛として透き通った声が掛かった。声のする方を見やると、一人の小柄な少女が、大勢の精霊を従え微笑みを浮かべていた。まだ十五にもなってはいないだろう。深い栗色の短い髪を後ろに流し、銀のカチューシャをしている。広めの額に少し垂れ気味の大きな丸い目。小振りの鼻におちょぼ口。可憐な少女といったところだ。
彼女は袖口に赤い刺繍の入った白いローブに身を包んでいた。フードのない着物の腰は繊細な彫金が施されたバックルで止められ、手にした黄金の錫杖と共に神々しい輝きを放っていた。
「レイム殿!」
末弟のバステスが驚きの声を上げた。
「兄上、レイム殿がここに居るという事は……」
次兄のラドックの問いに、長兄はうむとばかりに首肯した後、少女に向かって顔を綻ばせる。
「レイム殿、そなたが跡を?」
「はい。僭越ながら」
レイムと呼ばれた小柄な白ローブの少女は、左足を四分の一歩後ろに引いてから少し膝を折り、三人の若者に答礼をした。
「ならば安心だ。我らにリーファの永遠の加護を」
ラドックが安堵の表情を浮かべる。レイムは少し微笑むと式典の始まりを告げた。ぱたぱたと御付きの精霊が動き出す。精霊達は人種で十歳くらいの少女の姿をしていた。短い栗色の髪に茶色の瞳。その顔立ちはみな姉妹のようにそっくりだ。レイムと同じく白いローブを纏った精霊少女達はホールの中央に女神像への道を作る形で整列した。
「では、新しき王達よ。お着替えを」
三人を優しく見つめるレイムの緑の瞳は静かに笑っていた。
◇◇◇
――女神像の前で控える三人の若者。
中央に長兄ライバーン。右に次兄ラドック。左に末弟バステス。白い詰襟の祭祀服を着た三人の兄弟は右膝をつき、右手を自分の左胸に当て、王となる儀典の始まりを待っていた。
彼らの後ろには、幼き精霊達がきちんと並び、ブラウンの瞳をきらきらさせている。聖堂の天井には背に羽根を生やした妖精が飛び交い、彼らを祝福していた。
やがて、先ほどの少女が現れた。レイムと呼ばれた少女だ。頭には背の高い筒型の白帽子。その中央部に金で羽の刺繍が施されている。その後ろに二人の精霊少女が続いた。儀典の始まりだ。
レイムは静々と中央に進むと、女神像を背に、三人の若者に向き直る。続く精霊少女は、レイムの両脇に控えると目を閉じ、レイムに向かって軽く礼をする。
レイムは背筋を伸ばして大きく一つ深呼吸をした。そして、右手の金の錫杖を天に掲げる。
「大地を創りし、全てを育む大地母神リーファ。並びにリーファと盟を結びし星々と大気を司る天空神エルフィルの名の下、大陸を統べる三名の新しき王をここに任じる」
少女の言葉はその容姿からは想像もつかない程の威厳に満ちていた。空気がピンと張りつめる。この言葉に逆らう者などあろう筈がない。そんな響きに満ち満ちていた。
三人の若者が一斉に頭を下げる。
「バステス・フォン・ラドマーニュ・レーベ」
「はっ」
レイムの呼びかけに末弟バステスが答える。
「そなたに聖剣ミツタダを授ける。東の地、ガラムを治めよ」
「ははっ」
レイムの脇に控えていた精霊少女が、女神像に奉納されていた三品から聖剣を取り、バステスに下賜する。赤い鞘に収まってはいるが、片側に反りがあるのが見て取れる。鍔は黄金造りで柄には銀の装飾が施されていた。片刃の大剣だ。いや剣というより、刀と表現するべきだろう。
バステスは恭しく聖剣を受け取ると自らの腰に差した。
次いでレイムは一番右の男に視線を落とした。
「ラドック・フォン・エルリック・レーベ」
「はっ」
「そなたに天空の腕輪を授ける。西の地、ワーレンを治めよ」
「謹んで承ります」
精霊少女が同じくラドックに腕輪を下賜する。腕輪は手首に填めるタイプのもので銀の地金に金の装飾と文様が刻まれていた。ラドックは腕輪をそっと己が右手首にはめた。
そして、レイムは中央の若者にゆっくりと顔を向ける。
「ライバーン・フォン・ロイラック・レーベ」
「はっ。此処に」
「そなたにリーファの黄金水晶を授ける。大陸の中つ国として、フォートレートを治めよ」
「はっ。命に代えて」
精霊少女がライバーンの傍に寄り、最後の一品を開陳した。それは、細長い渦巻き型をした黄金に輝く水晶だった。大地母神リーファが直々にレーベ王に授けた品。精霊獣の力が宿る神器。
ライバーンが少し顔を上げるのを合図に、精霊少女はそっと彼の右耳に黄金水晶を付けた。ライバーンの脳裏に思い出が甦った。これを耳飾りとして肌身離さず身につけていた父王レーベの姿だ。
レイムは三人に新しき王の証が下賜されたことを確認すると、再び錫杖を天に掲げた。そして自身の正面に構え、左右に二度振った。
「天に在す大地母神リーファ、天空神エルフィル。只今より大陸を統べる新しき王達に永遠の祝福と加護を与えん」
三人の王が一斉に頭を垂れる。今、この瞬間、真に王となったことを三人は悟った。
「大地母神リーファに誓いの言葉を」
レイムが威厳に満ちた言葉で宣誓を命じた
「バステス・フォン・ラドマーニュ・レーベ。この身朽ち果つるとも、リーファの命に従うことを誓います」
「ラドック・フォン・エルリック・レーベ。ワーレンの地を遍く拡くリーファの御慈悲で満たさんことをお誓い申し上げます」
「ライバーン・フォン・ロイラック・レーベ。身命を掛けて大陸をリーファの願いし黄金楽土と成さんことを此処に誓う」
三人の新しい王は各々誓いの言葉を言上する。
「フォートレート王ライバーン、ガラム王ラドック、ワーレン王バステス、そなたらは大地母神リーファが加護を約束された。汝ら治めし王国をリーファが希みし楽土と為すべく務めよ」
「ははっ」
三人の若者に慈愛に満ちた眼差しを注いだレイムは儀典の終了を告げた。
「貴方達に授けたのは、先帝様の形見の品。これらは、貴方がたが真の王たる証となりましょう。ゆめゆめ疎かにせぬように」
レイムは静かに三人の王に歩み寄り、自らの右手を差し伸ばした。
「手を」
新王達は、恭しく右手を差し出した。レイムは三人の王の手を重ね、自分のもう片方の手をその上に乗せた。
「ライバーン、ラドック、バステス。これより私は貴方がたの守護者です。よろしく頼みますね」
「「新しき女神と新しき王の永遠の誓いを此処に」」
三人の王が声を揃える。この時、三人の新王に下された神具は、レーべの秘宝として後世に語り継がれることになる。
――今より八千年の昔の話。




