魂
あれからどれぐらいの時間が経ったのだろうか。正確な時間はわからない。川に落ちてからの記憶が無い。眼を覚ますとそこは深い闇が広がっていた。黒い水の中で浮かんでいるような感覚。眼を閉じていようとあけていようとなんの変化も無い虚無の世界だった。時間が流れているのかそれとも止まっているのかそれすらも曖昧なこの場所で彼が思い浮かべるのは彼らの事だった。一緒に山を訪れた友人たちの事。彼らはどうなったのだろうか、と彼は自分の事を置いて心配していた。
「みんな大丈夫かな? まぁー俺なんかよりみんな運動神経あるし多分大丈夫……だな」
体の自由は既に奪われていた。ただ浮かんでいるだけ、動くことも許されずただその場に浮かんでいることしかできない彼に残されたのは言葉と声だった。普段無口な彼だが、今は何かをしゃべっていないとどうにかなってしまう。そう思って色々の事を呟いた。母の事、父の事、友人や家で飼っている犬の事も本当に様々なことを呟いた。そしてそれは訪れた。どれくらいの時間が流れ経過したのかわからないそんな時、暗闇の先から光が彼の元に近づいてきたのだ。
そして……それは声を空間に響かせた。同時にそれの声と共に空間が大空のように清んだ青と白の入り混じる空の風景と変わる。まるで光が闇を打ち祓ったかのようにして世界は一瞬にして瞬きの間に変化した。周りの変化に同様を隠せない久遠をそれはまじまじと見つめにこやかに笑って見せた。それが何を最初に言ったかわからなかった。それの言葉と同時に世界が変化してしまい言葉に耳を傾けることができなかったからだ。しかし次の言葉は久遠に伝わった。神々しく誰をも酔わせてしまうであろう美しい声が空間に響く。
「驚かれました? 無理も無いでしょう。人の子がこの場所を見れば誰でも驚かれます。そもそもここは人の子が踏み入れるような場所でもありませんし」
長く伸びた美しいブロンドヘアーの男か女かわからない容姿をしたそれは長いローブで身を包んでおり片手には分厚い本が握られていた。久遠を見据えながらそれは本を開きぱらぱらとめくって見せる。
「さてさて、君は何を背負って次に生きる者なのか調べるとしましょうか」
「背負う? いや、あの一体突然何を言っているんですか?」
久遠の声を始めて聞いたそれはちらりと彼を見据え小さく呟いた。
「貴方もわかっているでしょう? 綾瀬・久遠さん」
「な、何で俺の名前を……それにわかっているってそれは……」
川に落ちた瞬間からの記憶が無い。それはつまりそこで彼の人生が終わってしまったことを示していた。もしも仮に今起こっている事態が夢で実際はまだ生きているっという選択肢もあるが今の状況はあまりにリアルでそれにあの高さから落ちてそれも川の水に飲まれてしまったことを踏まえるとやはり夢という選択肢は望みが薄かった。だからこそ彼は今自分に起こっていることを半信半疑ではあるが理解しているつもりだった。
「やっぱ俺は死んでるんですか……じゃーここは天国? それとも……」
天国であればまだ救いはある。地獄であれば最悪だ。現代で描かれる地獄の認識は死よりも恐ろしい傷みを伴う拷問を永遠と続けられ鬼や悪魔などに追い回されるそんな感じだったか、とにかく悪は地獄へ善は天国へ送られるそれが生きていた頃言われていたことだ。実際今どちらにいるのかわからないが地獄だけは避けたい気持ちが大きかった。生前悪いことはしていない。少なくとも法に触れることは何一つやってこなかった。しょせんそれも人が定めた法であり死後の世界で適応されるとは限らないのだが、それでも彼は善であると願いたかった。
本を手に取るそれは首を左右振った
「人の世に広まる死後の世界の認識はほとんどが事実です。それは人に混じって我々が死後の世界の情報を流しているからであり。我々日々の成果ともいえるでしょう。法を作り悪を罰する。そのシステムを確立するのに数世紀の時間を要しましたがそれでも人の世には定着しました。そして我々は善を優遇し悪を断罪する。それもまた役割として持っています。実際に地獄も天国も存在します。しかし貴方はそのどちらでもない世界に導かれたのですよ」
どちらでもない世界、その言葉に久遠は首をかしげると共に地獄でないことに安堵した。
「どちらでもない世界? ここはどこなんですか?」
「ここですか? ここは神王界と呼ばれる世界です」
「神王界?」
「そうです。ここは数多に存在する地獄、天国、そして天界の中でもっとも地位のあるものが住まう世界です」
「えっと……そんな世界になんで俺が? これって普通の事なんですか?つまり死んだらみんなここに送られて来てここで地獄か天国に送られるってシステムなんですか?」
「いえいえ、本来は天界で審査を受けそのまま地獄か天国へ送られるのが通常です。しかしごく稀に天界とも地獄や天国をも越えて、この地へ導かれるものがいるんですよそう貴方のような特別な人間がね」
久遠は首をかしげた。自分が特別なんて今まで思ったことは無かった。生まれた時から周囲の人間と変わらずそれどころか周囲の人間よりも劣っていると思うほどにやる気も希望も何も抱いたりはしなかった。勉学や体力においても他人よりも優れているとは感じたことは無い。容姿もまたどこにでもいる平凡な男と思っている。目の前のそれが言うように特別な要素などどこにも無いのだ。いくら探しても秀でている力など無かった。
「俺が特別? 俺のどこにそんな要素が?」
ブロンドヘアーのそれは久遠の体をなめるようにして見据えると満面の笑みを浮かべた。
「何人もの人間がここへ現れましたが貴方は最後から二番目というところでしょう。少なくともあの時見た人間は貴方よりも劣っていた。
そして今は……」
そういって言葉を止めると悲しげな表情を浮かべすぐにその気持ちを振り切るようにして再び笑みを浮かべる。
「そうですね。そうですよね。ここへ来る人間は皆特別なのだ。本人がどう思っていようともそれは変わらない事実。あの方の導きによってもたらされた必然なのだから」
と、ぼそりと呟くとそれは久遠の前に近づき彼の額に手を触れた。
瞬間、頬に太陽の暖かな日差しのようにどこかやさしく心地のいい温もりが伝わってきた。
「えっと……何を」
「魂に刻まれた記憶を呼び起こしているんですよ」
「魂に刻まれた記憶?」
「えぇ、生きとし生けるものすべてに魂が存在します。魂とは記憶を永久的に保存する器です。死後も器には生前の記憶が残り感のいい人間であれば生前の記憶を持って生まれることもあります。
英雄の記憶を持ち生まれる者もいれば覇王の記憶を持ち生まれる者もいる。転生と呼ばれる言葉はそこから生まれた言葉ともいえます。貴方の持つ魂の記憶はどんな物語を私に見せてくれるのでしょうか」
指先が額に触れた瞬間、赤色の光が指先に玉の形をとって現れる。光は小さな風を起こし指の先でぐるぐると回転する。
「いやいや待ってそれって俺の魂って奴でしょ? 抜いても大丈夫なの?」
「安心してくださいこれは魂の記憶です。魂ではありません。ですが妙ですね……元来記憶とは無色透明な色の無いものだというのにこれは……」
再び首をかしげると
「とにかく記憶を……」
指先を空に向けかかげると光は天上に向かって加速し大きく円を描くと中央に巨大な穴が生まれる。すべて飲み込んでしまいそうな穴。
穴は赤色の電流がチカチカと円の周囲を流れ雷のように周囲に雷鳴と雷撃を放っている。まがまがしいそれを見据え呆然と久遠はその場に佇んでいた。同時に円の中央に映像が流れる。まるで動画でも再生しているようにそれは流れ始めた。それは白と黒の空間。二つの大きな椅子に何かが座っていた。影で覆われ顔も姿も見る事はできない何か、その何かに向かって映像は進んでいく。
「……せる」
途切れ途切れに聞こえてくる映像の声、聞き取ることにできないその声はどこか懐かしさを感じた。胸の奥底から温もりが溢れるようなそんな感覚。
さらに映像はその影に近づいていく。一歩、また一歩と近づきようやく影の姿が視界に鮮明に写ろうとした瞬間。突然映像が途切れ同時に空間に亀裂が走った。今まで円があった空間に剣で切り裂いたような大きな一閃の亀裂が現れたのだ。同時に亀裂の間から大きな手が現れる。手の伸びる亀裂の先では赤く輝く不気味な大きな眼も見えた。
「なんだよ……次は鬼でも出てくるのか?」
そういった久遠をよそに佇んでいたブロンドヘアーの者が突然跪き胸に手を当て一言
「陛下」
暗闇から生まれでたような重々しい重圧が空間を包んだ。息をもするのが苦しくしかしその存在から眼を背けることも叶わない。今まで感じたことのないような恐れ、恐怖。そして動かなくなっていた体が自然と震えだした。その存在が危険だと直感的に久遠は思った。そして声が響き渡る。神々しくも威圧するような重々しい声。
「ソノ者ノ記憶ヲ見ル事ハナラヌ……ソノ者ハ我々ノ枠ノ外ニイル者」
「陛下しかし記憶を見ずして役割を与えることは困難です」
「ソノ者ノ役目ハソノ者自ラガ探シ見ツケナケレバナラナイ。ソノ者ガカツテ居タ世界ノ中デ」
重々しい声の主はそういって指先を久遠に向けた。同時に指先から黒い色の雷撃が迸る。それは一瞬、刹那の出来事、雷撃は久遠の胸を貫きそして跡形も無く久遠を消し去った。
久遠の消えた空間の中でブロンドヘアーのそれは立ち上がり小さく吐息を吐きかける。
「何故陛下は彼の前世が存在した世界をご存知だったのですか? それに何故記憶を除き見る事を拒絶なされたのですか?」
そう質問をすると亀裂の先に存在する者は大きく息を吐いた。突風のように激しく吹きぬける吐息は空間を冷気に包み込み白い靄で覆う。しかし亀裂の先に住まう者は言葉を発することは無かった。そして大きな眼差しが閉じられると亀裂もまた同時に消え去った。
「一体陛下は何をお考えなのか……」
亀裂の消えた空を見据えながらそう彼は呟くと再び景色は闇へと変わりその姿もまた闇の中へと消え去った。