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夜の静寂にさざ波の音が、微かに聞こえてきます。私は、今沖縄に来ています。恩納村というところの、緑豊かな丘の上にあるホテルの一室でこれを書いています。私は毎年、11月の末になると、沖縄に来て自分の来し方を静かに振り返る事にしています。近年の私の習慣です。師走になると流石に忙しくて来れないので、11月にしています。沖縄の11月というのは隠れたベストシーズンで、適度に温かく過ごしやすいうえに、それほど混み合ってもいなくて、料金も夏に比べると割安です。それで毎年来ているというわけです。
この時期に来し方を振り返ってみると、いろいろな事を思い出す事ができます。それは勿論辛いことも悲しいこともあるわけですが、沖縄の大きな海と太陽に抱かれてそれを振り返ってみると、それらも心のうちに優しく柔らかく霧のように蘇ってきて、心なしか肯定的に受け入れられる気がするのです。そして我ながら今までよくやってきた、生きていてよかったなどと、思ったりすることができるのです。
さて、私の人生30年、いろいろな事がありました。振り返ってみるのにも骨が折れるくらいです。骨が折れるというか、正直振り返りたくもない思い出ばかりです。本当に七転八倒の人生でした。今でも生きているのが不思議なくらいです。本当は「恥の多い生涯でした」などと文頭に書きたいくらいなのですが、そんなに仰々しい始まり方をするのも申し訳ないくらいくだらない人生でした。私は不器用で無能な人間なので、殊に傷つくことが多く、私の心臓には今も数々の瘢痕が脈々と隆起しています。
言わば相反する自分同士の闘争の人生でした。そして懊悩の人生でした。自己の存在を主張する本能的な自分と、私は不要な人間であるという理性的な自分との闘い。その中で、どうしても懊悩せずにはおれませんでした。懊悩の末、自分の自己愛、甘え、異常性。それに嫌というほど気付かせられました。現実の貧相な自分を認められずに、空想上の理想的自分を本物だと思い込み、それを反証するものを見て見ぬ振りをし、時には泣きわめきながらそれを排除し、その上で理想的自分を堅持する。そしてその一方では自分が不要であることを心の奥でしっかりと知悉しているのです。そうした異常性を、今では恥ずかしく思っています。幸福とは自分の描く自己像と実際の自分を一致させる事だと、今では思います。
大分説教がましくなってきました。これだから私語りの好きな作家はいけません。別に自分の価値観を誰かに押しつけようなんていうつもりはこれっぽっちもないのです。私はただこの気持ちを、伝えたいだけで、他にこれといった目的もありません。
私は今、窓からの眺望のいいホテルの一室に籠り、シーリングファンの静かに回る部屋で物思いにふけっています。たまにラウンジに行ってカクテルを飲んだり、鉄板焼きに舌鼓を打ったり、プールサイドの寝椅子でジュースを飲みながら、ピアノの生演奏を聴いたりしています。こうした今までの私が何より忌み嫌っていた小市民的な贅沢というものを、今では何の呵責もなく、楽しむ事ができます。多分これも、私が今の自分を受け入れて、今の自分も間違いではないと思えるようになったからでしょう。何をやっても「これは本当の自分じゃない」という嫌悪感ばかりが募ったあの頃から比べると、大した進歩です。私は今、多分、幸せなんだと思います。