森人
…あれから一体どれくらい経っただろう?
何十年?いや何百年?
あの嵐の日、川が氾濫した。
大木を使って、決壊した部分を塞がなければ、エルフの村は水に呑まれて跡形も無くなっていただろう。
なぜあの時あんなことをしたのだろう?
別にエルフ達と仲が良いわけでも、恩があるわけでもない。
だがこうして今もなお、一歩も動かずに支え続けている。
おかげで身体のいたるところから茸が生え、木の根が絡みつき、それ以外の部分もびっしりと苔に覆われてしまった。もはや森の一部と言っても差し支えないだろう。
支え続けて何年か経った時、そこにいるのかいないのかもわからない状態だというのに、私に気づいたエルフが一人いた。
エルフの少女は私をみつけるなり、明るく話しかけてきた。
「そこでなにをしてるの?」
「さぁ一体なにをしているんだろうね?」
「自分でもなにをしているのかわからないの?変なの?ずっとそうしているの?」
「あぁ。もうずっと長い間こうしているよ。」
「ふーん。お腹は?減らないの?」
「木の実や水は森の動物達が運んできてくれるからね。」
「ふーん。ずっと同じ格好をしていて退屈じゃない?」
「….退屈?そんなことは忘れていたよ。もうこの状態に慣れてしまっているからね。けれど…」
「たしかに、退屈だ。」
「そう!それなら私が話し相手になってあげる!」
それから彼女は毎日ここへ来た。
「今日はどうしたんだい?」と訊くと彼女は色々な話をしてくれた。
母親に叱られたこと、友達とケンカしたこと、姉に狩りを教えてもらったこと、そして、恋をしたこと。
そんな日々がしばらく続き、彼女はそれはそれは美しいエルフへと成長した。
「こんにちは。」
「こんにちは。今日はどうしたんだい?」
「あのね、私、結婚することになったの。」
「そうか。それはおめでとう。幸せになるんだよ。」
そう言って右膝に生えていたエリゲロンをお祝いとしてあげた。
それから彼女は来なくなった。
忘れていた退屈と寂寥に襲われたが、元に戻っただけだと言い聞かせた。エルフの寿命は長い。もしかしたら、またいつの日にか会える時が来るかもしれない。
いつか…
いつか……
美しい月夜だった。
星々は輝きを潜めているのに、月だけが煌々としていた。右膝に生えた月下美人と相俟って、とても美しかった。なのに、こんな夜に限って強い眠気に襲われていた。
ガサッ
「こんばんは。素敵な月夜ね。夜に会うのは初めてだったかしら?」
その話しぶりは自然で、急に懐かしさが込み上げてくる。
「こんばんは。そうだ…ね、夜は初めてだ。今日は…どうしたんだい?」
「あなたにもらった花が枯れてしまって…その…」
「そうか、枯れて…しまった…のか。」
強い眠気のせいであまりうまく話せない。
「あと、どうしても言っておきたいことがあって。」
「そう…か。なん…だい?」
「ありがとう。」
「ずっと会いたかったけれど、あなたが…ううん。ただ、ありがとうとずっと言いたかったの。」
「………」
彼女の言葉を聴いた瞬間、全身の力が抜けていくのを感じた。
そしてそれと同時に頬を水が濡らす。
いけない、川の水が。せっかくありがとうと言ってくれたのに、まだずっと支え続けなければいけないのに、こんなところで投げ出す訳にはいかないのに…
しかしその思いとは裏腹に突き上げた両腕は落ち、膝は折れ、前のめりに倒れこむ。月下美人も折れてしまう。
水が…これでは村が…これでは…
「ご…め………」
最後に消えそうな声でそう呟く。
その言葉はエルフの耳にもしっかりと届いた。
それはエルフの聴力のためではない、あまりにも周りが静かだったからだ。
支えを失った大木は、しかし水圧に負けることなく、今もなお森を、村を守っている。新しく生えた木々が大木を支え、水を押しとどめているのだ。
「ありがとう。」
エルフはもう一度そう呟き、森の闇へと消えていく。
光っているのは空に輝く大きな月と数滴の水だけである。