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「用済みだ、誰の仕事でもない」と言われたので、さらう順の控えを置いて館を出ます。冬の長雨の朝です

作者: 真神 慧
掲載日:2026/08/17

「誰の仕事でもない」と聞こえたときも、クレシダの親指は掻き棒の柄をゆっくりなぞっていた。十四年、同じところを握った樫は、節だけを残して浅くへこんでいる。


朝の台所はまだ青暗かった。彼女は湯気の立つ豆のスープを立ったまま口へ運び、窓の外へ伸びる北向きの軒を見ていた。昨夜の風なら、角の落ち口へ湿った葉が寄っている。


背後では、ジャスパー・トルヴェがケイトリン・ベインブリッジへ、よく通る声で報告していた。


「落ち口は十二、使える者は四人おります。あれは誰の仕事でもない、手が空いた者にやらせます」


「あれ、とは」


「樋の落ち葉さらいです、奥方様。専任を置くほどの仕事ではございません」


銀匙が皿へ触れた。ケイトリンは書付へ目を落とし、次の支出について尋ねた。


クレシダは椀を置いた。まだ半分ほど残っていたが、縁を布で拭き、棚の端へ戻した。


「ドーヴァー、今朝は西からだな」


ジャスパーの声は、奥方へ向けたときより短かった。


「南の角からでございます。夜半に風が変わりましたので」


「昨夜の風向きなど、私の書付にはない」


「さようでございますか」


「順は私が決める。おまえは道具を出せ」


クレシダは掻き棒を持ち上げた。窓を離れる直前、北の角から一枚、濡れた葉が落ち口へ吸いつくのが見えた。


外へ出ると、石敷きは冷えていた。梯子を南へ運ぶ彼女の背後で、ジャスパーは十二という数をもう一度、奥方に聞かせていた。



    *    *    *



 昼前、柱に留めてあった紙が剥がされた。


今月のさらい順は、クレシダが五日前に書き替えたものだった。東の楡が先に葉を落とし、北の樋へ二日遅れて流れ込むため、晴れ間を挟んで同じ落ち口へ二度入る印をつけてある。


ジャスパーは紙の上端をつまみ、留め釘ごと引いた。


「用済みだ。上から掻けば済む」


紙は彼の手の中で半分に垂れた。裏に残っていた黒ずみが、柱へ白い四角を作った。


代わりに貼られたのは、十二の落ち口を三つずつ四人へ割った表だった。若手の一人が指で欄を追い、隣の肩を小突いた。


「これなら昼までだ。三つ掻いて終い」


「今までが細かすぎたんだよ。紙を見て、空を見て、木を見て。葉っぱ一枚にご挨拶でもしてたのか」


「誰でも回れるほうが、立派な差配ってことさ」


出入りの商人が荷縄を解きながら口元を曲げた。ジャスパーも表の下端を手でならし、曲がっていた釘を打ち直した。


クレシダは剥がされた紙を受け取った。裂けた穴を指で押さえ、二つに折る。


「樋の落ち口は、さらう順を決めておいたほうがよろしいのです」


「だから順ならある。上からだ」


ジャスパーは十二の数字を指先で叩いた。


「北へ三、東へ三、南へ三、西へ三。人も道具も足りている。おまえ一人の勘に館を預けるほうがおかしかった」


若手たちが表を覗き込み、それぞれの持ち場を選び始めた。北側は日が当たらないから嫌だ、南なら手が乾く、そんな声が柱の前を行き来した。


「西の二つは、木曜まで置かぬほうがよろしゅうございます」


「指示は要らない」


「承知しました」


クレシダは折った紙を前掛けへ収めた。掛け釘から梯子綱を取り、もつれていた端だけを解いて戻す。


ジャスパーはもう彼女を見ていなかった。商人に人足一人分の賃金が浮くと話し、その半分で新しい長靴が買える、と計算していた。


午後、四人は同時に梯子へ上った。乾いた葉が石敷きへ降り、若手の笑い声も一緒に落ちてきた。


北の角に残った濡れ葉は、軒の影で重なったままだった。



    *    *    *



 クレシダはその日のうちに、近隣の三軒を訪ねた。


一軒目では、裏の樫を指して言った。


「西風が三日続きましたら、台所側を先に。表の樋はあとで結構です」


二軒目には、物置の落ち口へ籠を置かぬよう頼んだ。三軒目では、北の煙突脇だけは雨が止む前に見てもらうよう、戸口の女へ伝えた。


「館の仕事のついでかい」


「いいえ。ついでは本日まででございます」


女は戸を押さえたまま、もう一度尋ねようとした。クレシダは一礼し、次の家へ向かった。


翌朝、空が白む前に館へ入った。


十四年ぶんのさらい順の控えを月ごとに束ね、家令の机へ置く。風向き、木の種類、客間を使う日の印まで残っていた。紐は新しいものへ替え、誰が開いても紙が散らぬよう二重に結んだ。


掻き棒の先についた泥を落とし、布で柄を拭いた。擦り減ったところには油が入り、ほかより濃い色をしている。


クレシダはそれを道具部屋の掛け釘へ戻した。一本分の重みが抜けた手で梯子を壁へ揃え、足元の石を噛ませ直す。


机へ戻ると、ジャスパーが控えの束を持ち上げていた。


「これは何だ」


「これまでの順でございます。木が伸びた年は書き直してありますし、屋根を葺き替えたあとの分も分けてございます」


「こんなものを机へ積まれても困る。必要な分だけ一枚にしろ」


「今朝の分まで、すべて置きました」


「今朝の分?」


クレシダは鍵束を机の端へ置いた。


「承知しました。誰の仕事でもございませんので、順だけ残してまいります」


ジャスパーは鍵束と控えを見比べた。


「待て。暇を出すとは言っていない。落ち葉さらいから外すだけだ。洗濯場でも貯蔵庫でも、手はいくらでも要る」


「館付きの部屋は昼までに空けます」


「勝手に話を広げるな。長く置いてやった者には、長く置かれた者の分というものがある」


クレシダは机の前を離れた。道具部屋の脇を通ると、若手たちが新しい表を手に梯子を取り合っていた。


最後の梯子の一段が、ほかより指一本ぶん前へ出ていた。彼女はそこへ手をかけ、壁と平行になるまで押す。指は木の縁に残った。


「わたくしはこの一本を、十四年、わたくしの屋根だと思うてさらっておりました」


若手の一人が梯子綱を持ったまま顔を上げた。ジャスパーは机のところから、「一本ではなく館全部の話だ」と言った。


クレシダは指を離した。


部屋には小さな寝台と椅子が一つあった。荷は布包み二つに収まり、昼の鐘より前に運び出せた。


門を出るとき、彼女は振り返らなかった。道の曲がり角で一度だけ足を止め、近隣の家々の軒を順に見た。北から雲が下りていたが、雨にはまだ早かった。



    *    *    *



 夏のあいだ、館では何も起きなかった。


樋は乾き、葉は指でつまめるほどしか入らない。若手たちは柱の表どおり四方へ散り、同じ数の落ち口から同じ籠数を持ち帰った。ジャスパーは余った時刻まで書付へ記し、商人には以前より一人少なく回せたと見せた。


樋なんぞ、人手を増やせば片づく。


古い控えは机の下段へ押し込まれた。季節が変わるたび読む印も、翌月へ移す線も増えなかった。


クレシダは修道院の裏手に小さな部屋を借りた。最初に頼まれたのは、食堂の窓へ落ちてくる水を止める仕事だった。


梯子へ上がった彼女は、樋の底より先に、建物の背後に立つ二本の木を見た。片方は枝を南へ張り、もう片方は壁に遮られて北へ傾いている。


「両方とも今日さらうのかい」


下から修道院の女が尋ねた。


「今日は東だけで結構です。北は明日の朝にいたしましょう」


「同じ樋なのに?」


「今夜、少し降れば、上の葉が落ちてまいります」


女は梯子を押さえたまま頷いた。翌朝、北の落ち口には、掌二つぶんの濡れ葉が寄っていた。


その仕事を聞いて、エズラ・ホルカムが修道院へ来た。四十年、屋根の上で日に焼かれた手を腰帯へ差し、クレシダの見ている軒を一緒に見上げた。


「あんた、あの館を手ぇ引いたそうだな」


「はい」


「あちらは、屋根を葺いた者さえ数に入れてくれるようでございます」


エズラは鼻を鳴らした。梯子の脚を一度蹴って据わりを確かめ、クレシダへ顔を向けた。


「奥さん。おれたちはあの家に葺いてたんじゃない。あんたの目に葺いてたんだ」


それだけ言うと、彼は修道院の女へ、次に直すなら西の小屋からだと告げた。クレシダの返事は待たず、肩へ道具袋を担いだ。


仕事のあと、女たちは食堂の端へ椅子を寄せた。豆のスープには刻んだ玉葱が入り、朝より濃い匂いがした。


「座ってお飲み。立って飲むと、床が急かしてくるよ」


「床に口がございましたか」


「うちの床はよくしゃべる。磨け、こぼすな、椅子を引きずるな」


「では、椀だけは静かなものを選びます」


欠けのない椀がクレシダの前へ置かれた。次の仕事の話は出なかった。女たちは豆の煮え具合と、畑へ入った鶏の話をし、クレシダが椀を空にするまで書付を開かなかった。



    *    *    *



 冬の長雨は、三日目の夜から北風を連れてきた。


ベインブリッジ伯爵館では四人が表どおりに回った。東から三つ、西から三つ、南と北から三つずつ。同じ籠数を掻き出し、同じ印を柱へつけた。


北の角では、先に落ち口をさらったあとで、樋の高い側に残った葉が雨を吸い、傾きに沿って同じ口へ集まった。朝には水が口を越え、軒下を伝って客間の外壁へ流れていた。


白い壁は窓の上から黒く濡びた。内側では隅の漆喰が浮き、壁紙の継ぎ目が細く開いた。


「北も三つ終えたぞ」


若手の一人が、柱の表を指した。


「籠も一つずつだ。東と同じだった」


「では、なぜここだけ溢れた」


ジャスパーが問うと、四人は貼り出された数を見直した。指で欄を追う音だけがして、誰も次の言葉を置かなかった。


その週、客間を使った招待客は、壁の染みを見ても何も責めなかった。次の茶会には用向きが重なったとの返事が二通届き、その次の晩餐には返事そのものが三つ減った。


クレシダが呼ばれたのは、壁が乾かぬまま二度目の雨が来た朝だった。


彼女は客間へ入り、窓辺から外を見た。黒く濡びた北の壁を見たときだけ、いつも軒から軒へ走る彼女の目が動かなかった。


「控えはすべて残したはずだ」


ジャスパーは机から持ってきた束を差し出した。紐は切られ、紙の端がばらばらにずれていた。


「残してございます」


「なら、どの紙を使えば戻せる」


クレシダは紙を受け取らず、窓の上へ目を移した。水が一筋、枠の脇を下りていた。


「屋根へ上がって見ろ。おまえなら分かるのだろう」


「今は、わたくしのお預かりする屋根ではございません」


「館が濡れているんだぞ」


「はい」


ジャスパーの指が控えの束を締めた。紙の一枚がずれ、床へ落ちた。


ケイトリンが道具部屋から入ってきた。両手には、柄の擦り減った掻き棒が載っていた。


「これは、あなたの手のものです」


クレシダは差し出された一本を見た。柄には、掛け釘へ触れていたところだけ細い埃の跡が残っていた。


「館の道具でございます」


「いいえ。館はこれを置いていただけです」


ケイトリンは掻き棒を彼女の両手へ渡した。すぐには離さず、木の重みが移ったのを確かめてから指を外した。


「この染みは私が詫びます。あなたに拭わせはしません」


「奥方様、修繕の手配でしたら私が」


「あなたは修繕の差配から外します。客先へ行く支度を。私の外套を出してください」


ジャスパーの声を残し、ケイトリンは部屋を出た。その日の午後、彼女は染みを見た客の家を一軒ずつ訪ねた。


クレシダは掻き棒を布へ包んだ。控えも、床へ落ちた一枚も拾わなかった。


館の石段を下りると、北の落ち口から溢れた水が脇の砂利へ穴を穿っていた。彼女はそこを跨ぎ、乾いた道の端を選んだ。



    *    *    *



 三軒へ残した言伝は、同じ雨の中で役に立った。


台所側を先にさらった家では煮炊きの火を止めずに済み、籠をどけた物置では水が真っ直ぐ地面へ落ちた。北の煙突脇を見た家では、詰まった葉が壁へ回る前に取り除かれていた。


雨が上がった翌朝、三軒の女たちが修道院の食堂へ来た。


一人が依頼の日を書いた紙を置き、もう一人が小銭の入った袋を机へ載せた。三人目は口を挟まず、クレシダが軒を見終えるのを待っていた。


「月に二度で足りるかね」


「風のない月は一度で。秋だけは回数でなく、木を見て伺います」


「支払いは一度ごとか、月ごとか」


「一度ごとに願います。梯子をお借りする家は、この額。わたくしが運ぶ家は、こちらで」


女は袋の口を開き、示された額を数えた。値切る代わりに、雨の日は危ないから翌朝へ延ばしてよいと紙へ書き足した。


「では、うちの屋根を頼みます」


クレシダは紙に自分の名を書いた。女たちはその手が止まるまで、次の家の話を始めなかった。


修道院からは食堂と礼拝堂、物置の三棟をまとめて頼まれた。近隣の家々も一軒ずつ増え、クレシダは屋根の傾きと木立を見てから日を割り振った。東の家を先にする日もあれば、北だけを二度見る週もあった。


朝の窓辺には依頼の札が並び、その下に対価を書いた書付が置かれた。札の上には、どの館にも属さない掻き棒が一本、布に包まれて立てかけてあった。


一方、ベインブリッジ伯爵館では、樋をさらい直して濡びた壁を剥がしても、次の雨には同じ落ち口がまた溢れた。ジャスパーはエズラを呼びつけ、急ぎで葺き直すよう命じた。


「おれは行かん」


「代金は払う。職人なら仕事を選ぶな」


「代金は屋根へもらう。数へはもらわん」


エズラは道具袋を持ち上げ、そのまま門を出た。


出入りの商人たちも、柱の表の前では声を潜めるようになった。十二という数も、四人という数も消えてはいない。だが雨の日には、北側の欄だけが何度も濡れて滲んだ。


「数は合ってるんだろう」


誰かが言った。


「数はな。順が抜けている」


荷車は以前より門から離れた場所へ止まるようになった。客間の窓は閉じたままになり、冬の招待状は春まで出されなかった。


クレシダの書付には、春を待たず次の仕事が入った。彼女は一軒ごとに自分の名を書き、日付の脇へ風向きのための余白を残した。



    *    *    *



 ジャスパーが修道院へ来た朝、クレシダは食堂の窓辺で豆のスープを飲んでいた。


掻き棒は戸口の脇に立ててある。磨かれた柄のへこみに朝日が入り、そこだけ淡く光っていた。


ジャスパーは椀より先に、その一本を見た。外套の肩には乾ききらない雨粒の跡があり、磨いていたはずの靴の爪先には泥がついていた。


「ドーヴァー。話がある」


「戻れと言いに来たのでしょうけれど、スープが冷めます。お話は手短に願います」


食卓の女が一つ、喉を鳴らした。クレシダは椀を両手で包んだまま、空いている椅子を勧めなかった。


「館の差配を改めることになった。樋については、以前どおりおまえに任せたい」


「以前どおり、でございますか」


「部屋も戻す。賃金も考えよう。おまえは十四年いたのだから、館の勝手も分かっている。長い付き合いなのだから、互いに余計な話は要らないだろう」


ジャスパーの目はクレシダへ向かず、戸口の掻き棒に留まっていた。


「控えでは足りませんでしたか」


「あれは古い。今の木立に合わせて書き直す必要がある。おまえならすぐできる」


「では、わたくしの名で屋根を預けてくださいますか。順も日取りも、こちらで決める形で」


「館の差配は家令が決める。だが、おまえの意見は以前より聞くつもりだ」


クレシダは椀を一度、卓上へ置いた。湯気が彼女の指のあいだを抜けた。


「樋の落ち口は、さらう順を決めておいたほうがよろしいのです」


ジャスパーの唇が動いた。返る言葉はなく、濡れた外套の裾から床へ雫が一つ落ちた。


クレシダは椀を持ち直した。


「本日は礼拝堂、明日は西の二軒をお預かりしております。館へ戻る日はございません」


ジャスパーは掻き棒から目を離せないまま、帽子を被った。戸口を出るときも、以前のように命じる声は残さなかった。


翌朝、雨は上がった。


修道院の女たちは、焼いた黒パンを分け、豆のスープを深い椀へ注いだ。誰も仕事の札を持ってこず、クレシダが椀を空にするまで畑の鶏の話をしていた。


「今日は立って飲まないのかい」


「床に急かされませんので」


「うちの床も、ようやく行儀を覚えたね」


クレシダは椀を長く両手で包んだ。窓から差す朝日が、乾いた靴の爪先まで届いていた。


食事を終えると、彼女は書付と綱を鞄へ入れた。戸口には、返された一本がまっすぐ立っている。


クレシダは擦り減った柄を握り、自分の名で預かった屋根へ向かった。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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