太陽がくれたもの
昨夜は雪が降った。春を待つ木々に雪がかかって、枝が垂れているものもある。
今日は雪は降っていない。しかし空は相変わらず雲に覆われて、太陽の光は届かなくなってしまった。
店の外に見える景色を眺めながら僕は暖かい紅茶を一口飲んだ。まだ寒さが残る街を歩いて冷えた体に、優しげな温もりが広がる。
店の扉が開き、掛けてあった鈴が心地よい音色を奏でる。その音に反応して目線を向けると、実奈がいた。
久方振りに見た彼女は、やはり美しかった。防寒着が健全な小麦色の肌を隠してしまっているのが残念だ。
ただ、以前より若干肌の色が薄れているような気がした。
不安げに店の中を見回している彼女に手を振ると、わずかに頬を赤らめさせてこちらに向かってきた。
「やあ、久しぶり」
こちらから声をかけてやる。懐かしい太陽のような笑顔が僕に向けられた。
僕はもう一口紅茶を飲んだ。
「ごめん、待たせちゃったかな」
「大丈夫。先にいただいてるよ」
僕は飲んでいた紅茶のカップを持ち上げて見せた。実奈は向かいの席に座り、手を擦り合わせて体を温めている。
「君から僕を呼ぶなんて、どういう風の吹き回しかな」
かつての彼女に、付き合ってた頃そうしたように肩をすくめておどけながら質問した。
「ごめんね。迷惑だった?」
「とんでもない。嬉しいさ」
でも不思議である。一年前別れを告げたのは彼女からだ。それが一昨日、突然の電話。会って話がしたいということと待ち合わせの店だけを告げ終わった電話。
もしかして彼女はまた付き合おうということを言いに来たのだろうか。僕は今でも彼女のことが好きだ。だから、それは願ってもないことだ。
「ところで、陸上はまだ続けてるの?」
突然、昔を思い起こさせるような質問をしてきた。
実奈と出会ったのは中学生の時。その時僕は陸上競技部に、実奈はテニス部に在籍していた。僕は高校に入っても陸上を続けた。そして実奈と別れて大学に入ってからも。
「ああ。続けているよ。今度大きい大会があるんだ。十種競技に出ることになってる」
「へぇ。相変わらず運動神経いいんだ。私は……テニスやめちゃった」
実奈は笑いながらそう言うが、どこか寂しそうだった。あれだけ好きだったテニスをやめたのだから、当然か。
「そっか。だから日焼けしなくなったのかい?」
「うん、前より薄くなったでしょ。どっちの方がいい? 前の私と今の私」
そんなこと言われたって選びようがない。どんなに姿が変わろうが、実奈は実奈だ。
「いいや、今だって変わらず可愛いよ。もしかして実奈、僕は君の小麦色の肌だけが好きだったと思ってた?」
「ふふ、ありがとう。そんなことない。私のことをあそこまで好いてくれたのはあなたが初めてよ」
そう言われて僕は照れを隠すように紅茶を一口飲んだ。
「ねえねえ、あなたって昔から紅茶が好きだったわよね」
「そうだっけ?」
記憶をたどって思い出そうとしていると、実奈がふくれっ面をした。
「そうだよ。初めてのデートの時だって、そうやってこのカフェのその場所で澄ました顔して紅茶飲んでたじゃない」
そう言われて、昔の記憶がよみがえってきた。まだ中学生だったあの日、実奈が凍った路面で滑って服が濡れたからって、僕の家に泊って行ったのを覚えている。
「なんだか学校でのあなたとのギャップがやけに面白くって、中学生のくせにって思って笑っちゃったのよ」
「そういえば笑われたなあ。今はどうだい? 似合っているか?」
そう聞けば実奈は優しげな笑みで頷いた。実奈が笑えば、僕は元気になる。それは別れるまでずっと変わらなかった。
「似合ってる似合ってる。うん、これはもう私がいなくても大丈夫ね。合格!」
「何の検定だよ。そりゃあ、あの日から今日までずっと一人でやってきたんだから」
別れた直後は大切なものを失った喪失感が心を満たしていたが、それからも暫くして立ち直った。それ以降陸上を一心不乱にがんばってきた。
「あれから誰とも付き合ってなかったんだ。……うれしい」
「えっ……?」
僕が他の女の許へ行かなかったことを実奈は素直に喜んだ。それを聞いて、僕もなんだか嬉しい気分になった。
「ううん、何でもないよ」
実奈は、誤魔化すように僕のカップを手にとって紅茶を一口飲んだ。
「ああっ、それ僕の……」
「いいじゃんいいじゃん、今日くらい。私のも飲む?」
「いや、いいよ」
実奈の申し出を断ると、実奈は冗談だよと言いながら手をひっこめた。
他愛のない会話を繰り返す中で何人かの客が出入りした。扉の開閉によって侵入してくる寒気に冷えたのか、カップを持つ実奈の手が震えていた。
「寒くないか」
「いいえ、大丈夫よ」
実奈も大人びてきたなと感じた。昔の無邪気さをどこかに残しつつも、落ち着いた物静かさを得たようだ。ただ、そんな実奈からは以前の活発にテニスをする姿は想像できなかった。
彼女の声も、以前の九里先まで飛びそうな威勢のいい声から、握れば砕けそうな脆く柔らかな音色へと変わっていた。
テニスをやめたことで大人への切符を得、代わりにそれまで大切だったことを捨ててしまったのか。
そういえば別れる直前、実奈が頻繁に病院に通う時期があった。もしかするとそれがテニスをやめた原因ではないかと思い、聞いてみることにした。
「……何でテニスやめちゃったの? あの頃病院に通ってたけどそれが原因かな」
「あー……そう、私が病院に通ってたのはね、 えっと、あれ、足怪我したからだったの。その、だからそれが悪くなって、テニスやめちゃったの。そう、足の怪我よ」
その言葉にはその場で考えて口に出したような歯切れの悪さと、後ろめたさが混じっていた気がした。
何か僕に隠していることでもあるのだろうか。そういえばさっきから、今日だけはとか私がいなくてもとか言っていたが……。
実奈の顔を見た。そして僕はすべて悟った。彼女の目尻によく澄んだ涙が溜まっていたから。
「別に、いいのよ。もうテニスしなくたって、大丈夫だから。そう、私は大丈夫。あなたこそ、怪我して陸上やめたりしないでよ」
「ああ」
それ以上は、聞きたくなかった。
「そうそう、私のラケットをあなたにあげようと思って、今日持ってきたの。受け取らないとは言わせないわよ」
「……いいのか? なら貰っておくよ」
「私だと思って、大切にしなさいよ」
机の下から懐かしいテニスラケットが取り出され、僕に手渡された。僕はそれを、壊れないようにそっと抱きしめた。
実奈が席を立ち、別れを告げる。
「じゃあ、私はそろそろ帰るから。今日は、楽しかった。ごめんね、私のわがままで呼び出して。あと、ありがとう」
「僕も、実奈と話せて本当に嬉しかった。こちらこそありがとう」
僕も席を立ち、二人でレジに向かって歩く。昔、そうしたように。
会計は僕が済ませて店を出た。いつの間にかまた雪が降り出していた。
無言のまま雪の街を散歩する。雲は先ほどより黒く厚くなっており、太陽は完全に覆い隠されていた。
実奈と僕の帰路が別れる道で、実奈が立ち止まった。別れを惜しむように、どちらも押し黙っている時間が流れた。
その沈黙を破るように、僕はいつかしたように告白の言葉を口にした。
「実奈、僕達また付き合わ……」
「言わないで」
しかしそれは美奈が発したか細い言葉によって止められた。
「お願い、それ以上は言わないで……」
声が、震えている。視認せずとも実奈が泣いているのが分かった。
唐突に実奈が僕を抱きしめた。何も言わずにただ抱きつく実奈に、僕は声をかけることができなかった。
*********************
雪が溶け、新たな草花の香りが漂い始めた頃、実奈は死んだ。僕と別れる少し前に、病気の種が見つかっていたらしい。
医者にもう助からないとを聞いて、あの日彼女は体力を振り絞って僕に会いに来たのだ。
彼女と最後にあった日の直後の大会は、連日の悪天候が嘘だったかのように晴れて太陽もその笑顔を存分に見せてくれた。
その大会で僕は一位を取ることができた。不思議と体に力が湧いてきたのだ。
あのテニスラケットは、今も変わらず輝いている。
初めまして。本作品よりこちらを利用させていただきます。
NagiSaと申します。
今までの恋愛経験を活かして書いてみました。
が、結局その経験は反映されませんでした。
グスン。
最後までお読みいただきありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いします。