あの日からの合言葉
拓海の手が、驚くほど軽くなっていた。
ホスピスの個室は静かで、機械の音と、浅い呼吸だけが聞こえる。窓から差し込む午後の光が、白いシーツの上で淡く揺れていた。
「今日のミッションは……」
拓海がかすれた声で言う。
「プリン、完食だ」
僕は笑った。笑うしかなかった。その言葉が、どれほど無理をして絞り出されたものか、分かっていたから。
小学二年生の夏、僕たちは近所の森に秘密基地を作った。泥だらけになって、蚊に刺されまくって、日が暮れるまでかかった。完成した時、拓海はふざけて敬礼しながら叫んだ。
「ミッション・コンプリート!」
それが、僕たちの始まりだった。
テストで目標点を取った時。自転車で隣町まで走り切った時。文化祭で大失敗した時だって、僕たちは笑ってハイタッチした。何かを乗り越えるたび、同じ言葉を交わした。
いつも拓海が先を走って、僕はその背中を追いかけていた。
今、その背中はベッドに沈んでいる。
日に日に細くなる腕。それでも拓海は笑おうとする。僕を心配させまいと、最後まで強がっている。その優しさが、たまらなく苦しかった。
ある日、見舞いに行くと、拓海はほとんど目を開けられなくなっていた。
僕はただ手を握った。かける言葉が見つからなかった。
拓海の指が、かすかに動いた。
「なあ…かずや」
耳を寄せる。途切れ途切れの声が聞こえた。
「俺の人生……どうだったかな」
胸が締めつけられた。いつも自信満々だった拓海が、初めて弱音を吐いた。三十年間、一度も見せなかった不安を、最後の最後に僕に預けてきた。
僕は涙をこらえて、手を強く握り返した。そして、子供の頃みたいに少しだけ笑ってみせた。
「最高に、かっこよかったよ」
声が震える。でも、言わなきゃいけない。
「だから、もういいんだ。よく頑張った」
拓海の目が、うっすらと開いた。
僕は続けた。二人だけの、最後の言葉を。
「なあ拓海。ミッション・コンプリート、だろ?」
拓海の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
笑った、と思った瞬間。
握り返していた手の力が、ふっと抜けていく。
窓の外で、鳥が鳴いていた。夏の終わりの、穏やかな午後だった。
僕はずっと手を握っていた。涙が止まらなかった。でも不思議と胸の奥は静かだった。
拓海が走り抜けた三十年。僕はずっとその隣にいた。
秘密基地も、自転車旅行も、くだらない賭けも、全部二人でやった。そして最後のミッションも、ちゃんと二人で終わらせた。
拓海の顔は、穏やかだった。
【あとがき】
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