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ワタリドリ  作者: 梔子依織
第二章
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くだける

 家を飛び出した白露は、行く当てもなく山道を駆け下りた。ぬかるんだ地面に足を取られながらも、必死で足を動かす。しかし震える足では上手く走れるはずもなく、とうとう歩くことさえやめてしまった。

 頬を濡らしているのが雨なのか涙なのか、分からなくなった。白露はぽろりと手から落ちた小刀を見つめた。十三の誕生日に件から貰ったもの。柄には手彫りで白露の名前が記されていた。そっと手に取る。その軽さが自分の意志のようで白露は惨めになった。

 件がなぜ白露に冷たい言葉を吐いたのか、白露は十分理解していた。

 自分を守るために言った言葉。件はどんな顔をしてあの言葉を吐きだしたのだろう。

「情けない! 情けない情けない情けない!」

 ぐっと唇を噛みしめ天を仰いだ。天には光なんて一つもありはしない。それでも白露は天に縋りたかった。

 ふと視界に小さな綿毛がうつった。今にもかき消えそうな小さな小さな白。

 縋るように白に手を伸ばしたが、届くことなく消えてしまった。


――まだ、一緒に昼の天の川をみに行っていない。

――まだ、占いについて教えてもらっていないことがたくさんある。

――まだ、母様のことをちっとも知らない。


 白露はぐっと小刀を握りしめ顔を伏せた。髪から雫が伝い首筋を濡らす。

 逃げろと言われた。生きてくれと庇われた。

 もしかしたら本当に邪魔だと思っていたのかもしれない。けれど白露は最期まで母親の側に居たかった。ずっと側にいると約束したから。

 顔を上げた少年の瞳には揺るぎない決意が宿っている。高津賀の森で鍛えられた強靭な足で来た道を駆け上った。

 そう、いつまでも母親に従っている子供ではない。

 白露は震えの止まった体で、件の待つ部屋へと飛び込んだ。

「なんで、帰ってきた……このバカ」

 ずぶ濡れの白露の視界に、その光景だけは嫌に鮮明に映った。

 ずぶりと腹に突き刺さった蜘蛛の足。それは件の腹を貫通し壁に突き刺さっている。立派な牛角は無残にも折られ、片方の腕がなくなっている。地についていない足も曲がるはずのない方向に曲がっていた。残った片手を白露へと伸ばす件の姿は見るに堪えない。けれど白露は目を逸らさなかった。

「……いつまでも、一緒にいると約束しました」

 溢れ出る涙を乱暴に拭い、白露は不格好な笑みを浮かべた。白露の表情に、件はつられるように微笑んだ。

 件は声を絞り出し白露に伝えようとする。

 白露に出会えてどれだけ幸せだったか。白露と過ごせた時間がどれほど大切だったか。妖怪の自分が人間になれたようで、獣ではなく知性のある人になれたようで。こんなにも言葉に表せない程の喜びを与えてくれた。件にとって白露は小さな神様だった。

――私に幸福を与えてくれる小さな小さな神様。

 これだけはどうしても伝えたい。

 件は震える唇で、なんとか言葉を紡いだ。声にはならなかったけど、きっと白露に届いたはずだ。

――「あいしてる」

 ごぽりと口から溢れだした血と共に紡がれた言葉は白露の脳裏にしっかりと刻まれた。

「僕もです。僕も愛してます」

 その言葉に件は微笑み砕け散った。床に転がった牛頭の骨が音を立てて粉々になる。一瞬にして人型が崩れ灰となり地面に積もった件。簪がカランと床に落ちた。

「かあ、さま」

 妖怪の最期とはこんなにも呆気ないものなのだろうか。灰しか残せずに消えてしまった。肉も骨も服さえも、灰となり宙に霧散する。唯一残った蕾の簪が、儚げにも転がった。

「なんでィ。呆気ねェな」

 土蜘蛛は拍子抜けしたようにカチカチと歯を鳴らした。足を一本と尾を失っただけで平然と立っている土蜘蛛に怒りが湧く。

 白露は怯むことなく背を向けていた土蜘蛛へと小刀を突き立てた。ぐちゅりと嫌な音を立て土蜘蛛の背に突き刺さった小刀。土蜘蛛は「なんだァ」と首だけで振り向き、ニタリと笑った。

「痒いなァと思ったらガキか。逃げればいいものを」

 土蜘蛛は小刀が突き刺さったままの背を意に介さず、後ろ足で白露を蹴りつけた。木の葉のように軽々と飛ばされた白露はそのまま壁に体を打ち付けられた。ずるずると床に蹲った白露は、痛くも痒くもないとでも言ったように立ち上がる。脇腹を抑え額から血を流し、壁に背を預けながらも立ち上がる姿は痛々しかった。けれど惨めではない。

 土蜘蛛は顔を顰め唾を吐きだした。その唾は偶然にも床に転がった簪へとかかる。

「件を殺すって目的は果たせたし、別にガキには用はねェんだが……。どうもその目が気にくわねェ」

 土蜘蛛は白露へと向き直ると忌々しげに足を踏み鳴らした。

「気に入らないなら殺してみれば?」

 もう土蜘蛛への恐怖は微塵もない。挑発的な笑みを浮かべればさらに苛立ったように土蜘蛛は鼻息を荒くした。

 白露の手に武器はない。小刀は土蜘蛛の背に突き刺さったままだ。部屋には他に武器はなく、刺せるものといったら簪くらい。それでも白露は諦めなかった。鋭い意志の籠った目で土蜘蛛を射抜く。

――「諦めるのはいけねえ。諦めが悪いのは人間の特権だろ」

 昔イタチが言った言葉だ。獲物を前にして怖気づいた白露を、イタチはそう叱咤した。こんな大事な時に傍に居ないなんて、イタチもほんと役に立たないな。帰ってきたらいっぱい文句言わないと。

 目尻を乱暴に拭った白露はすっと息を吸いこんだ。

「かかって来いよ。妖怪野郎」

「上等だァ!」

 ヒュンと土蜘蛛の二本の足が白露を襲う。器用に転がりながら避けた白露は、土蜘蛛の腹の下へと滑り込んだ。胴は虎のはずなのに腹はブヨブヨとした昆虫のような見た目をしている。白露は躊躇うことなく蹴り上げた。

「がっ!」

 思わぬ攻撃に土蜘蛛は肺に溜まった空気を吐き出す。白露は素早く土蜘蛛の背にまわると小刀を引き抜こうと手を伸ばした。

「させるかァ!」

 後ろ足で白露を振りはらった土蜘蛛は、般若の口元からしゅるしゅると糸を垂らす。一度は口の中にしまったかと思いきや、勢いよく白露へと吐き出した。

 糸は意思を持ったかのように自由自在に動き白露を捕える。手首と両足に巻き付いた糸は、そのまま壁へと固定された。力任せに引きちぎろうとすれば糸はさらに食い込み、白露の柔肌を傷つける。白い糸が白露の血によって薄紅に染まったのを見た土蜘蛛が愉快そうに笑った。そしてもう一度糸を吐き出し、今度は白露の首へと巻きつける。

「気分はどうだ小僧ォ」

「ぐっ! ほんと、最悪だよ」

 じりじりと徐々に締め付けられる感覚。呼吸が浅くなり酸素が足りなくなった頭で白露は打開策を練る。ふと足元に簪が転がっているのをみつけた。

 件がいつも帯に挿していた簪。先端が鋭く尖ったソレは不意打ちくらいにはなるだろう。白露は土蜘蛛に気づかれないように慎重に手を伸ばす。が、あと少しの所で届かない。

 自分の意識がなくなるのと、簪に手が届くのどちらが早いだろうか。

 唇を噛みしめ意識を保とうとするが酸素がなければ生きていけない軟な体は土蜘蛛によって無情にも苦しめられる。

「こうやって嬲り殺すのもいいもんだなァ。件の時はちいと余裕がなくてよォ」

 なくなってしまった尾と後ろ足の一本を悔やみながらも、土蜘蛛は前足で白露の平たい腹をなぞった。

「なァ、どんな死に方がいい? このまま絞殺されるか、それとも母親と同じようにどてっぱらに穴開けられるか……好きなのを選べ」

 ぐっと太い前足を白露の腹に宛がった土蜘蛛は何度かそこを押し楽しそうに選択を迫った。

「さァさァさァ! 早く選ばねェと絞殺されちまうぜェ」

「……どう、して」

 血に濡れた唇で金魚のようにはくはくと酸素を求める白露は、今まで見せなかった絶望を瞳の奥にチラつかせた。その態度に土蜘蛛は一旦力を緩め「なにがだ」と首を傾げた。

「どうして、母様は殺されなきゃいけなかった!」

 喉を締められていたにも関わらず、大声で怒りをぶちまけた白露に土蜘蛛は当然のように告げた。

「邪魔だったからだ。他になにがある」

「……邪魔?」

「件ってのはなァ災厄を予言する妖怪だ。災厄を起こす側にとっては厄介極まりない存在なんだよォ。そうだろィ? 予言されてそれに備えられちゃァ終いだ」

 ただ予言されたくないがために母様は殺されたのか。たかが口封じのために!

 白露は指先に触れた感触を握りしめ、腹に添えられた土蜘蛛の手へと突き刺した。

「アアアア!」

 土蜘蛛はあまりの痛みに腕を引込め距離を置く。そして突き刺さったままの簪を忌々しげに引き抜いた。

「よくもやってくれたなァ。ガキィ」

「人間の子供一人に手こずるなんて、妖怪も大したことないな」

 ハッと鼻で笑ってやった白露に土蜘蛛は表情を消し、糸の締め付けを更に強めた。

「やめだァ。即刻殺す。今すぐ殺す」

 怒りに身を任せた土蜘蛛を白露は口角を上げ笑ってやった。

――ざまあみろ。

 そう心の中で嘲笑し土蜘蛛の背と足をみて満足げに鼻を鳴らした。ただ逃げたわけじゃない。母様の仇とまではいかなかったけど、やれることはやったはずだ。短い小さな反抗期。

「死ね。件のガキ」

 ぐっと一気に力を込めた土蜘蛛。白露は目を逸らすことはなかった。


「去れ妖怪。壱ノ刀。破魔刀!」


 ザンッと見たこともない青い光が土蜘蛛の体を切り裂いた。真っ二つに割れた土蜘蛛の体からは白い液体が噴出し白露の顔を濡らす。崩れ落ちた胴体から死人の首が流れるように零れ落ちた。

 絡まっていた糸が緩まり白露は地面へと座り込む。何度か咳き込み、喉元を摩る白露に青白く輝く刀身が添えられた。

「お前人間か?」

 刀のように研ぎ澄まされた鋭い男の声。恐る恐る上を向けば、黒い着流し姿の男が白露をみて意外そうに瞳を瞬かせていた。男は笠を被り、腰には二本の刀を差している。一見武士にも見えなくもないその男は、白露が人間だと知るやいなや刀を鞘へと納めた。

「悪いな。てっきり妖怪かと思った」

 無骨な手が白露の腕を掴み引き上げる。所々から血を流し、覚束ない足取りの白露に眉を顰め軽々と担ぎあげた。

「な、なにして!」

「いいから大人しく担がれてろ」

 飄々とした足取りで男は家を後にする。白露は抵抗する気力もなく男にされるがままとなった。

 いつの間にか土砂降りの雨はやみ、空が赤く染まり逢魔が時を知らせる。

 こんな時くらい雨を降らしてくれよと、白露は男の服を握りしめ俯いた。頬からはとめどなく涙が溢れ出てくる。雨が降っていれば誤魔化すことも出来たのに、高津賀の森の空はそれさえも許してはくれなかった。



 男は近くにある小川に白露を投げ込むと、自分は濡れないよう裾を捲り川へと入ってきた。白露は突然の出来事に足をばたつかせ、なんとか立ち上がる。川は白露の腰までの深さしかなかったが、男の乱暴すぎる行動に危うく溺れるところだった。

 濡れ鼠になった白露の体を男はしげしげと観察し、額に張り付いた白露の髪を手で避けた。

「お前本当に人間か?」

「え?」

「いや、怪我の治りが早いと思ってな。……これが高津賀の森の影響か」

 顎に手を当てぼそぼそと独り言を漏らす男を尻目に、白露は水面に映った自身の顔を覗き見た。

――情けない顔。迷子になった子供みたいだ。

 ごしごしと涙の跡を擦ってみてもちっとも良くならない。

――母様を失った。たった一人の大切な親を。泣くもんか。泣いたらだめだ。

 そう思えば思うほど白露の目には水滴が溜まり顔が歪んでゆく。男は白露の心情を察したのかザブザブと川から上がり、岸辺に転がった丸太へと腰かけた。そして白露へと視線は向けず空を仰ぎ見る。

 誰も見ていないから泣けとでもいうように。

 白露は思いっきり泣いた。声を上げこれでもかというほど泣いた。溢れ出る気持ちに蓋はせず、失ってしまったものの大きさを体に刻みつけ涙を溢した。

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