こわれる
その日は春にしては珍しい冷たい雨が高津賀の森に降り注いでいた。
白露は件のいいつけで雨の日にしか咲かない珍しい紫陽花の採取へと来ていた。色の違う紫陽花を数種類瓶に詰めていく。紫陽花は雨粒をその身に受けると黒く腐り落ちてしまった。ボトボトと地面に落ちる装飾花はまるで罪人の首のようだ。
白露は瓶がいっぱいになったことを確認し家路を急ぐ。普段はイタチがやっていた薪割を、今日は白露がやらなければいけなかった。
昨日からイタチは高津賀の森を離れ人里へと降りている。なんでも鎌鼬が集まって十年に一度の会合を開くらしい。イタチは白露に家事を押しつけ意気揚々と出かけて行った。
帰ってきたら嫌味の一つでも言ってやるかと、大股で歩く白露の足がピタリと止まった。
木々の間から見える黄色い絨毯。三年前、初めて自分が占った景色がそこにはあった。
ふらふらと引き寄せられるように蒲公英の群生地に足を踏み入れた白露は、未だ涙を溢す空を見上げた。あの日のように白い龍が空を泳いではいない。曇天を眺めた白露はそっと溜息をついた。
今年はまだ件との幸せを願っていない。ケサランパサランに願いを叶えてもらうために、今度二人でもう一度ここに訪れよう。
白露は濡れた髪をぶるりと振り払うと、背負い籠を握りしめ走り出した。
白露が紫陽花を採取していた頃、件もまた雨空を眺めていた。沸騰した水で山桜の花弁を煮ながら、窓の外へと心配そうに視線を向けた。
笠を持たずに出かけてしまった白露は大丈夫だろうか。雨に濡れ、風邪でも引かなければいいのだが。
件は火を止めると浅いザルに鍋の中身を流し込む。薄紅色の水が排水溝に流れ、色の抜けた白い花弁だけがザルに残った。稚児喰みの井戸の側に咲く山桜は、珍しい薄紅色の花を咲かせる。その色は稚児喰みの井戸に捨てられた赤子の血を吸ったと言い伝えられていた。
煮れば血を落とし白無垢姿へと変貌を遂げる。
妖気を含んだ植物は占いに最適なのだ。
件は鍋の底についた花弁の形をみて、眉を顰めた。
花弁は六本足を持つ生き物の姿を形作っている。吉報ではなく凶兆だろう。
件は机の上に置かれた頭蓋骨に視線を向け溜息を吐く。近頃、高津賀の森に濃い瘴気が充満していた。争いを好む西地区から、南地区へと流れてきている。高津賀の森はいつになく不安定だ。
地区の境があやふやとなり、妖怪同士の争いが頻繁に起こっている。
争いとも無縁なこの南地区も、いつかは戦場へと変貌してしまうのだろうか。
それは避けなければいけない。白露のためにも。
件は鍋を置くと白露を迎えに行くために笠を手にとった。人間である白露がもし妖怪に出会ってしまったら――そんな嫌な想像が脳内を占める。
急いで扉を開けはなった件の前に、般若の面をつけた巨大な蜘蛛が立っていた。
「……何者だ」
見た事のない姿に妖気。般若の面をつけ、虎の胴体を持ち、六本の蜘蛛の足を生やした妖怪。妖怪はキシキシと奇怪な笑い声を立て口元を大きく歪めた。
「アンタが件か」
話すたびに口から漏れ出す紫の煙。不浄の瘴気をはっきりと目にした件は、額に汗を浮かべた。間違いなく高津賀の森を覆う正気の原因は目の前の妖怪だろう。
妖怪は名乗ることはせず件の体をジロジロと眺めた。不躾な視線を跳ねのけるように件はもう一度「何者だ」と問いかける。
「これは失礼した」
と妖怪は薄気味悪い笑みを浮かべ、足を折り、頭を低くした。
「俺ァ土蜘蛛。ちょいとアンタに用があってねェ」
「土蜘蛛? 聞いたことがない妖怪だな」
不審がる件に土蜘蛛は首を竦ませ、呆れたように瘴気を吐き出した。
「そりゃあそうさ。俺ァここに住む純粋な妖怪様達とは違うんでね」
「……なるほど。人型じゃないところをみると怨念の類か」
妖怪にも様々な種類がある。妖怪として産まれてきたもの。人間や動物、物が妖怪へとなったもの。そして怨念が妖怪化したもの。
その中でも一番厄介なのが、怨念から生まれし妖怪。純粋な妖怪のように妖力が高く、争いを好む奴らは忌み嫌われる存在。
今まで純粋な妖怪が統べる高津賀の森には近づくことはなかったはずなのに、今頃なぜ。
考え込む件に土蜘蛛は足で胴体をかきながら「あのよォ」と面倒くさそうに溜息をついた。
「悪ィがさっさと済ませちまいたいんだ」
「なにをっ!」
土蜘蛛は言葉と同時に口から一本の糸を吐き出した。糸は件の横をすり抜け真っ直ぐ机の上へと伸びている。頭蓋骨を絡め取った糸は件から距離を置いた土蜘蛛の口に戻っていく。件はすっかり油断していた自身を叱咤し、帯に挿さった簪に手を添えた。
土蜘蛛は牛骨に絡まった四本の糸を弾き、首を傾げる。
「あれ可笑しいなァ。音が出ねェ」
「はっ、そんな簡単に件の真似事が出来ると思うなよ。怨念風情が」
音を奏でようとしたということは、目的は予言か。
今後全ての災厄知ることが出来る音色は、件の命を捧げるだけあって貴重なもの。それを知る事が出来れば、世の中の実権を握ったも同然。段々と読めてきた土蜘蛛の目的に件は歯ぎしりをした。
ざわりと件の周囲に風が吹く、長髪を風に舞いあがらせた件は、瞳孔を開き妖気を溢れさせた。髪をかき分け押し出る二本の青い牛角に、長く伸びる鋭い爪。尖った犬歯が唇に突き刺さり、黄金の瞳は紅に染まる。
本来の姿を現した件に土蜘蛛は感嘆の息を吐いた。
「こりゃあすげェ。殺すのが勿体ないくらいだ」
「貴様ごときに私が殺せるとでも?」
件は嘲笑し。そして伸びた爪を土蜘蛛へと向けた。
「その足全部引きちぎってからでも目的を吐くのは遅くはないだろう」
その言葉に土蜘蛛は待ってましたと言わんばかりに関節を鳴らす。
「楽しもうぜェ。件さんよォ」
ひゅんと一閃が煌めき、大きな音を立てて木々が倒れていった。
騒音が高津賀の森に響く。白露は雨に濡れた前髪を払いながら全速力で件の待つ家へと向かっていた。雨は白露の足を止めようと増々酷くなる。
嫌な予感がした。胸を刺すような鋭い痛みにも似た予感だ。
白露は胸中に湧き上がる不安に顔を歪めながら祈るように拳を握りしめた。
――どうか! どうか無事でいてください!
開ききった扉を見た瞬間、白露は湧き上がった吐き気を必死で押さえた。
「母様!」
ギシリと軋んだ床。暗闇にのまれた室内。白露の溢す荒い息遣いが、唯一の音だった。
天井や壁のあちらこちらに絡まる蜘蛛の糸には、人間の頭蓋骨が張りつき白露をみて笑っている。その気味の悪さに足が震える。しかし白露はゆっくりと足を踏み出した。
「母様?」
まるで悪夢を見た時のような恐怖が白露を襲う。いや、悪夢だったらどれだけいいか。これは紛れもなく現実であり、白露の日常をいとも簡単に壊してしまう異物だった。
ソレは寝室にいた。
丁寧に敷かれた布団はボロボロで、入内雀の羽が宙を舞っていた。ソレは背を向けていたが、黄と黒の縞模様の尻尾が的確に白露の首元へと添えられた。胴体から出る六本の足は、細く、毛深く、まるで蜘蛛の足のよう。
ソレの奥には、床に倒れた件の姿があった。
「母様!」
白露の悲痛な叫びが部屋を満たす。動こうにも体は震えるばかりで、言うことを聞いてはくれなかった。倒れていた件の体がピクリと動き、伏せていた顔が露わになる。
二本の牛角に犬歯。そして赤く光る瞳。いつもとは違う件の容姿に、白露は目を見開いた。
そんな表情を件は苦々しげに見つめ返し、か細い声で「逃げろ」とだけ告げた。
まるで二人の様子を楽しむように。ソレの尻尾が白露の頬を撫でる。
「どうやら子供が帰ってきちまったようだねェ」
今まで背を向けていたソレがぐるりと首を回し白露を睨み付けた。
――鬼だ。鬼がいる。
ソレは白露がみてきたどの妖怪よりも凶悪で、そして醜かった。
「噂は本当だったのかィ。件が人間を育ててるなんて趣味の悪い冗談かと思ってたぜ」
キシリと笑った土蜘蛛はびゅんと尻尾を一振りし白露を壁へと叩きつけた。
「白露!」
件は血まみれの体を起こし急いで白露の元へと駆け寄る。土蜘蛛はそれを止めることなく嘲笑しながら傍観していた。
「いやだねェ。妖怪が人間に関わるからこうなるんだよ。家族ごっこは楽しかったかい?」
何度も咳き込む白露の小さな体を抱きしめ、件は土蜘蛛を睨み付ける。その眼差しに土蜘蛛は「そうでなくっちゃ」と更に笑みを深めた。
「大妖怪の件が人間のガキに現を抜かして弱くなったなんてお笑い種だねェ」
「黙れ下衆が!」
「そうだ。もっと怒れ。もっと俺に本気をみせておくれよォ」
犬歯で唇を傷つけながら怒りに吠える件の裾を、小さな手が引っ張った。
「……かあ、さま」
よわよわしい声に件は我に返り白露の顔を覗きこむ。白露はなんでもないと笑みを浮かべ、支えられていた体を起こした。
「白露、お前……」
「母様は僕が守ります。母様を傷つける奴は許さない」
ぐっと唇を噛みしめ、件を庇うように立ちあがった白露は、気丈に土蜘蛛を睨み付けた。土蜘蛛はまるで興が覚めたとでもいうよう無表情に戻る。そして牙をカチリと鳴らした。
「人間のガキになにができる」
腹の底を抉るような重低音に、白露の体は思い出したように震えだす。しかし白露は決して引き下がるようなことはしなかった。もしもの時にと懐に忍ばせていた小刀を取り出す。
刃先を真っ直ぐ土蜘蛛に向ければ、自然と呼吸も落ち着いてきた。
「これだから人間は嫌いなんだよ。身の程を知らないで立ち向かおうとする。本当に反吐が出る」
そう言うと同時に土蜘蛛の尾がもう一度白露の腹に叩きつけられた。耐え切れず嘔吐し蹲る白露だが、件の前から動くことはない。
苛立ちを露わにした土蜘蛛が再度振り上げようとした尾は呆気なく件の爪によって引き裂かれた。
「アアアアアア!」
「調子に乗るなよ」
土蜘蛛の絶叫を尻目に、件は悠然と立ち上がってみせる。そして白露に「ありがとう」と微笑んだ。漆黒の髪を靡かせ堂々と立つ件の姿は、まさに何千年と生きた妖怪に相応しい風格があった。
「よくも俺の尾をォ!」
「邪魔なものがなくなって清々したんじゃないか?」
口角を吊り上げた件は、ふらりと立ちあがった白露を後ろへと押した。
「えっ?」
白露の体は部屋の外へと押し出される。茫然と件の背を見つめる白露に、件は振り向きもせず告げた。
「邪魔だ。どっかに行っていろ」
「でも!」
「邪魔だと言ったんだ! これは妖怪同士の戦いだ。人間風情が入ってきていいものではない」
――人間風情。
件から放たれた言葉に白露はぽろりと涙を流した。件からその言葉だけは聞きたくなかった。人間だ。妖怪だ。そんな垣根は関係なく、一緒に過ごしてきたのに。
「さっさと行けえ!」
件の怒鳴り声に背を向け白露は走り出した。
そんな白露を土蜘蛛がつまらなそうに眺める。
「薄情な息子だなァ」
「賢いと言ってくれないか」
件は流れる涙を堪えることなく震える声でそう告げた。涙とは他に腹に空いた大穴から、血がとめどなく溢れ出る。土蜘蛛の側に転がった牛頭の骨には無数の罅が走っていた。
それでも件は笑った。
「決着をつけようか土蜘蛛」