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ワタリドリ  作者: 梔子依織
第五章
36/51

返魂

 一定の間隔で鳴り響く水滴の音と、頬に走る冷たさで白露は朦朧とした意識を起こした。視界には平に続く灰色の地面と、それを照らす仄かな明かりがうつりこむ。

 何度か瞬きをし、未だ膜が張ったような不安定な視界で体を起こそうとした。が、ピクリとも動かない。手は背後できつく縛られ、足も麻縄で括られていた。

 芋虫のように体を動かしなんとか仰向けになる。そうすれば薄汚れた灰色の天井に張り付く蛾とぶら下がった丸い電球が確認できた。

 コテンと首を横に向ければ長方形の大きな石が丁度部屋の中央に置かれていた。石を囲むように白い花が置かれている。それは牡丹であったり百合であったり様々だった。

 灰色の石には花とは対照的な黒い布がかけられている。花の合間から細くたなびく紫煙が黒い布に浸み込むように向かっていっていた。

 まるで祭壇だと白露は瞠目する。

 祭壇を囲むような花々の隙間から均一な距離を取って四本の紫煙が真っ直ぐ祭壇へと向かっている。祭壇には一人の少女が横たわっていた。

 真っ白な『ワンピース』を着た少女。黒い布の上に金糸が散らばっている。見えない新緑の瞳が無償に恋しくなった。

「冬香!」

 白露の悲鳴にも似た叫びに冬香はピクリとも反応することはない。深い眠りについた、まるで眠り姫のように体の上で手を組む冬香は病的なほど白かった。

 冬香を彩っているのは金色の髪と薄桃色の唇だけ。あとは余白のような虚しい白さが冬香に残されていた。

「冬香! おい、聞こえてるか!」

 何度も呼びかけてみるが微かな寝息さえ聞こえない。部屋の中にはぴちょんぴちょんと雫の垂れる音だけが聞こえていた。音のする方にのろのろと視線を向ければ白露は胃がせり上がってくる感覚を覚えた。

 思わず何度かえずく。胃の中を吐き出すことはなかったが、口の端から溢れだした唾液が顎を伝った。

「せき、れい……?」

 確かめるように名前を呼ぶ。血を重く吸いこんだ黒い服には見覚えがあった。出会った頃よりも短くなった黒髪も、それに混じる一房の白も。浅黒く焼けた肌に程よくついた筋肉。確かに見覚えがあるはずのなのにまるで別人のようにみえる。それは彼のこんな姿を今まで見たことがないからだろうか。

「鶺鴒」

 全身血まみれの男が鎖で天井から吊るされていた。ぴちょんぴちょんと不愉快な音を立てながら足先から血が滴り落ち、床に血溜まりを作っている。

 殴られたみたいだ。額からも血が出ている。大分時間が経ったのか血は赤黒く固まり始めていた。

 まるで赤い絵の具が塗りたくられたような鶺鴒。濃厚な死臭が絵の具でないことを告げていた。服で体が隠れているせいか、どれほどの怪我を負っているのか正確に判断できない。血溜まりが大皿のように広がっているのをみる限り命が危ないのは明確だった。

 鶺鴒の血溜まりの側には食い殺されたような、獣の噛み痕が無数についた死体が転がっている。死体の側には犬の首も転がっていた。

 頭が追い付かない。思考が乱れる。いつの間にかハアハアと獣のような息遣いが自分の口から洩れていた。

 今この場で意識があるのは白露だけ。白露はこの惨事の正体が篠目によるものだと気づいていた。

 なんとか脱出を試みようと手足を動かすが縄は緩まるどころか益々手首に食い込んでくる。腰に差していたはずの刀は取り上げられ、縄を切る道具は見当たらなかった。

 何度も何度も手首が擦り切れ血が滲んでもやめない白露に呆れたような声がかかった。

「せっかくの綺麗な体に傷が残ってしまいますよ」

 部屋に取り付けられた唯一の出口。地上へと伸びる階段から一人の男が姿を現した。男は上質な灰色の『スーツ』を身に纏い、うっそりと笑みを浮かべている。

「篠目!」

 ギリギリと歯を鳴らし睨み付ける白露をものともせず篠目は祭壇へと足を進めた。

「まだしぶとく生き残っていたか……。犬神の呪いにいつまで耐えられるかみものだな」

 鶺鴒を一瞥した篠目は、白い花を踏みつけながら冬香へと近づいた。そして愛おしそうに冬香の頬を撫で「雪香」と呟く。

 聞き覚えのない名前に酷く嫌悪を覚えた。

「全部お前の仕業だったのか」

 ギリッと唇を噛みしめながら捻りだした言葉を篠目は鼻であしらった。

「犬神の呪いが失敗さえしなければこんな手間取る必要はなかったが……。これもなにかの縁だ。少し話に付き合ってくれないか?」

 のんびりとした口調に焦りはない。縛られた白露には何も出来ないと鷹を括っているのか篠目は祭壇に腰かけ優雅に足を組んだ。

「そもそもの始まりは私の妻、雪香が卑しい男に誑かされたことだ。駆け落ちなんてくだらない理由で死んだ妻を取り戻したいと願ってなにが悪い」

 白露の最悪な推測は当たってしまっていた。

「私は妻を愛していた。そんな愛する妻に生き返ってほしいという慎ましい願いさえ犬神は叶えてはくれなかった」

 まるで悲劇の主人公気取りで大仰に篠目は天井を仰ぐ。さらさらと流れた茶髪が電球の光に淡く輝いた。

 白露はペッと唾を吐き出す。ようやく残酷な光景を受け入れる余裕が出来てきた。

「犬神は術者の願望を叶えてくれると聞いてあんな残酷なことをしたのに……。まさか自分に呪いが返ってきて殺されそうになるとは思わなかったよ」

「白々しい」

 ハッと鼻で笑った白露に、不快そうに眉を顰めた篠目。篠目は悔しげに鶺鴒を睨み付けた。

そしてその下に転がる犬の首を見下ろす。

「死にたくはなかったからね。急いで生贄を用意したよ。最初は家の使用人。色々な人を試したけど妖怪と渡り歩いた退治屋が一番生贄に最適だと気づいた」

「生贄? まさかそこにある死体は……」

「察しが良いのは嫌いじゃないよ。私の代わりに犬神に食い殺された生贄さ」

 さらっとまるで他人事のように話した篠目に寒気を感じた。

 自分の代わりに人を生贄として差し出し殺した。罪のない動物を呪いのために甚振って殺した。この男はどれだけ命を弄べば気が済むんだ。

 湧き出る怒りを隠しもしない白露に篠目は白けたような視線を向けた。

「自分の願いを叶えるために他人を犠牲にしてなにが悪い。新世界はこうやって成り立っているんだ。他者を踏み台にして新世界は成立する」

「……前にこの世界に住まないかって聞いたな」

 静かに話題を変えた白露に眉を顰める。篠目の目をジッと見つめながら白露は言い切った。

「こんなクソみたいな世界。こっちから願い下げだ」

「口を慎めよ」

 白露の一言に、頭に血をのぼらせた篠目は立ち上がり白露の腹めがけて足を振り下ろした。躊躇いなく振り下ろされた足は鳩尾に当たり思わず白露は唾を吐き出す。

 何度かえずく白露を満足げに見下ろした篠目は、靴にかかった唾を白露の頬へと擦りつけた。頬に革靴の硬さと唾の滑りの感触が広がる。

「お前も師匠のように犬神の呪いの生贄にしてやるから待ってろ」

 考えたくもなかった事実が白露に突き付けられた。血まみれの鶺鴒を見た時から、床に転がる死体を見た時から薄々は感じ取っていた。

「……許さない」

「お前に許してもらう必要はないさ。ここは私の世界だ」

 篠目は甘ったるい香の匂いが充満する部屋で空気を盛大に吸いこんだ。そして「始めよう」と満足そうに笑みを浮かべた。

「雪香、君は今日生き返る。そして私と一緒に新しい世界でやり直すんだ」

 恍惚とした表情の篠目は『ポケット』から小型の『ナイフ』を取りだし人差し指に傷をつけた。血の滲んだ指で冬香の唇を撫でる。唇は慎ましい桃色から毒々しい赤へと変貌を遂げた。

「返魂香により呼び出されし魂。かの肉体に宿りたまえ。術者篠目の名において命ずる」

 篠目の言葉と共に部屋の電球がゆらゆらと揺れ始める。まるで無理やり地に頭をつけさせようとするような重圧を伴って空気が変化した。薄くたなびいていた紫煙がかき消える。

 青白かった冬香の体に段々と血の気が通い、正常な肌色へと色を取り戻していく。

 やがてその緑色の瞳が見開かれた。

 散らばった髪が身を起こした冬香の背で揺れる。降ろされた髪で表情は隠れていたが、全くの別人のように白露には見えた。

「あなた……?」

 ぼんやりと篠目を見上げた冬香の唇が動いた。その言葉に篠目は歓喜し、白露は絶望に顔を歪める。

「そうだ! 私だよ! 無事に生き返ってくれたんだね……。これから一緒にやり直そう。ね?」

 矢継ぎ早に告げる篠目は愛おしそうに冬香の頬へと手を添えた。

「あなた、どうして……」

「君を愛してるんだ。ずっと君の隣にいたい。もう一度挙式を上げよう。今度は教会で『ウエディングドレス』を着て。白無垢の雪香も素敵だったけど、やっぱり白い『ドレス』を着た君が――」

「どうして生き返らせたの。やっと自由になれたのに」

「へ?」

 雪香の言葉に間抜けな声を出した篠目はずくんと疼いた自身の腹へと視線を向けた。腹には指を切った時に使った『ナイフ』が深々と刺さっている。『ナイフ』を握る手は雪香のものだった。

「やっと、やっと貴方から自由になれたと思ったのに! どこまで私を振り回せばいいのよ!」

 そう叫びだした雪香は髪を振り乱し篠目を突き飛ばした。篠目は力を失ったように呆気なく地面に尻もちをつき刺さったままの『ナイフ』を見つめる。

「どうして」

 信じられない。いや信じたくないと縋るように雪香に手を伸ばした篠目。そんな篠目を侮蔑の表情で雪香は見下ろしていた。

「どうしてかなんて自分に聞きなさいよ」

「どうして、あんなに愛し合ったじゃないか。幸せだったじゃないか。あの男に騙されて駆け落ちなんてしたんだろ? もう怒ってないから。やり直そう。もう一度」

「私は貴方のことなんて一度も愛していなかったし、幸せだなんて一度も思ったことはなかったわ」

 何度も何度も雪香へと手を伸ばす篠目は哀れで滑稽だった。そんな光景の奥でガタリと何かが動く。ガタガタと動き出した犬の首がぐるりとこっちを向いた。

 飛んできた犬の首に篠目の顔が恐怖に染まる。それも一瞬のことで伸ばしていた手は呆気なく犬に食いちぎられた。

「アアアアアアッ!」

 なくなった片手から溢れ出る血を目の前にして篠目は気を失う。微かに息が残っていたが死ぬのも時間の問題だった。

 犬の首は力尽きたように地面に落ち、さらさらと灰へと変わっていく。怒涛の展開に固まっていた白露に雪香が近づいてきた。肌足で白い花を踏みつけ白露の目の前に立つ。

 そして背後へとまわり縄を解きはじめた。

「あの、いったい……」

「好きな人との結婚間近の冬の季節に篠目に出会った。私は旧街の人間で、こんな髪と目の色……冬香は私とそっくりなの。旧街ではありえない色をしていたから村からは疎まれ山奥でひっそりと暮らしていたの」

 突然語りだした雪香に白露は口を噤む。かなりきつく結ばれていたせいか解ける気配はない。近くにいる雪香からは冬香の甘い匂いがした。

「こんな私でも好きになってくれる人がいて、結婚の約束までした。彼は近くの村に住む青年で、村を捨てて一緒に山で暮らすとまで言ってくれたの」

 雪香の言葉は寂しそうに吐き出されるが、そこには微かな愛しさも含まれていた。よっぽど青年のことが好きだったのだろう。縄に触れていた雪香の指は震えていた。

「篠目に会ったのはしんしんと雪が降る夜。旧街に視察に来ていた篠目は帰る途中山道で足を怪我したの。それを助けたのが全ての始まりだった」

 後悔するような響きを含んだ言葉と共に縄が外された。自由になった手を見れば鬱血痕と擦り切れて固まった血の痕がくっきりと残っていた。

「篠目は一目ぼれだと言って私に結婚を迫ってきたわ。もちろん私は既に結婚する予定があったし断った。そしたら無理やり新街へと連れて行かれたの」

「誘拐されたってことですか?」

「ええ、それからは地獄だった。新世界に来てからこの『ビル』から一歩も外にだしてもらえなくて、結婚までさせられて。……冬香が産まれた」

 雪香は今自分の魂が入っている体を見下ろし嬉しそうに笑った。冬香から聞いていた反応との違いに戸惑いをみせた白露に雪香は寂しそうに微笑む。

「嫌いな男との子供だけど、それでも自分でお腹を痛めて産んだ子だもの。愛してたわ」

「でも冬香は一度も笑いかけてもらったことがないって……」

「冬香が産まれてすぐ、篠目は私と冬香を引き離したの。母親になって冬香に私を取られるのが怖かったのよ。だから滅多に冬香に合わせてもらえなかった。たまに会うたびに成長している冬香をみて戸惑ってしまったの」

 足の縄を自力で解いた白露は大きく伸びをし、後ろに座っていた雪香へと視線を合わせた。体は冬香のはずなのに、入っている魂が違うだけで雰囲気ががらりと変わる。

 白露が好きなお淑やかで憂いのある女性になったのにも関わらずちっとも魅力を感じなかった。

「それじゃあなんで娘を置いて駆け落ちなんてしたんだ」

「……冬香から聞いているのね」

 雪香は白露の言葉に戸惑いをみせながらも指先で二三度床を叩いた。

「正確には駆け落ちしたんじゃないのよ。彼に恋愛感情を抱いてはいなかったから。ただ二人ともこの街から出たかったの」

「アンタは分かるけど使用人も? この街の住人はみんなここにいたくているんだろ?」

「まさか。彼も私みたいに無理やりここに連れてこられたのよ。ここに住んでる人間の半数は篠目によって連れてこられた人たち。彼の玩具よ」

 街行く人々はみな幸せそうな笑みを浮かべていた。けれどその笑顔の裏に憎悪の気持ちを隠し持っていたというのだろうか。

「勿論。篠目に連れてきてもらって感謝している人もいる。けれど私みたいにここから出たい人だっているの」

 そう苦々しげに言葉を溢した途端、雪香はドサリと崩れ落ちた。咄嗟に片腕で受け止めれば細い息を吐きながら礼を言われた。

「他人の体に魂を入れるなんて許されない。術が成功することなんてありえない」

「それじゃあ冬香は……」

「大丈夫。私の魂が体から抜ければ元通りになるわ」

 雪香の言葉に安堵の息を漏らす。雪香が倒れたのは魂が抜ける前兆なのだろう。そっと白露の袖を震える指で掴んだ雪香は「伝えてほしいの」と言葉を紡いだ。

「私はあの子を置いて自分だけ新世界から出ようとした最低な母親だけど、愛してたのよ。笑顔一つまともにみせてあげられなかったけど、出来ることならあの子と幸せな未来を築いてみたかった」

 一字一句聞き漏らさないように白露は真剣に雪香の言葉に耳を澄ませた。

「あの子に伝えて欲しいの。愛してるって」

「分かりました」

――ありがとう。

 声にはならない唇の動きに白露は頷く。雪香はゆっくりと瞼を閉じた。一瞬冬香の体が羽のように軽くなる。けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐに心地よい重さが帰ってきた。

「おかえり」

 白露は張り付いた前髪を払い冬香の額に唇を当てる。そしてそっと横たえて辺りを見渡した。未だに血を流している鶺鴒と篠目。鶺鴒を背負い、篠目を見捨てることも出来たが白露はそれをしなかった。

 急いで鶺鴒をおろし、傷口をきつく縛っていく。噛まれたような跡が無数に残っていたがどれも傷としては浅かった。

 白露は革紐を引き抜き篠目の腕も縛った。一時的なものにしかならないが、放っておくよりはましだろう。つたない処置をして急いで立ち上がる。

 助けを呼ぶために白露は地上へと続く階段を駆け上った。

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