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ワタリドリ  作者: 梔子依織
第三章
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小さな願い

 白露の耳元でまた耳障りな虫の羽音が聞こえてくる。

 再び一瞬にして変わった景色は少女が大旦那の前で土下座をしている場面だった。

「どうか、妖怪になれるという秘薬を分けてはくださいませんでしょうか?」

「そなた妖怪になりたいのか?」

「……はい。どうしても妖怪になりたいのです」

 少女の切実な訴えに大旦那はニンマリと厭らしい笑みを浮かべ鼻頭をかいた。

「確かにわしは妖怪になる薬を持っている」

 大旦那の言葉にぬか喜びする少女は「ならば!」と大旦那にすがるように懇願した。

 少女の願いはただ一つ。愛する妖怪の男と永遠を共にしたい。ただそれだけだった。

 そんな無垢な少女の願いさえ大旦那は食い物とする。

「高価な薬だ。ただでは手渡せぬ」

 大旦那の言葉に表情を翳らせた少女は懐から小さな布袋を取り出し中身を掌へとあけた。

そこには銀貨が三枚転がっている。

「今はこれしか持ち合わせがありません」

「足りぬ。これっぽっちの足しにもなりゃせん」

「そんなっ!」

 大旦那の言葉に絶望の表情をみせ少女は俯いた。はらはらと少女から零れ落ちた涙が真新しい畳の上を濡らす。少女をみて舌なめずりをした大旦那は「いい方法がある」と少女の手首を無理やり掴んだ。

 銀貨三枚が空しく手から零れ落ちる。

「一晩だ。一晩お前を買ってやる」

「買うって……」

「生娘じゃなかろうに。分かっておるだろう?」

 大旦那は少女に顔を近づけ、手首を握っていない手で着物越しに少女の腰をなでた。びくりと肩を震わせた少女が強く唇を噛みしめる。

「妖怪になりたいんだろう? たった一夜の夢だと思えばいい」

 誘うような大旦那の言葉に揺れ動く少女の心。白露は今にも少女と大旦那の間に飛び出して「嘘に決まっている」と叫んでやりたかった。

 少女が静かに頷くのを確認し、大旦那は喜色の笑みを浮かべ白露は絶望の表情を浮かべた。

「見なくていい」

 優しい言葉と共に白露の視界が覆われる。大きく無骨な手は鶺鴒のものだろう。冷たい掌越しに伝わる熱気。塞がなかった耳に入り込んでくる衣擦れの音。十三になる白露には何がおこなわれているか十分理解できていた。

 人間の汚さを痛感し白露は硬く拳を握り締める。真っ白になるまで握られた拳は暫くの間開くことはなかった。

 白露が視界を取り戻すとそこは最初にみた森の景色だった。少女が誰にも言えない秘密を抱えながら男に笑顔を見せる。

「旦那さま! 私妖怪になれる薬を手に入れたんです!」

「妖怪になる薬?」

 訝しげな視線を向ける男に少女は嬉しげな笑みを隠した。

「旦那さま?」

「妖怪になる薬なんて存在しない」

「そんなことはありません! 確かに存在し手に入れたのです!」

 少女の悲痛な叫びに耳を貸さず男は首を振り、諭すように少女の肩に触れた。

「いいか小春。生きている人間が妖怪になるなんて不可能だ。騙されたんだよ」

 男の言葉を受け入れたくないのか少女は嫌々と首を振り「そんなことはありません」と涙を浮かべながら口角を引き上げた。

「薬を飲めば旦那さまとずっと一緒にいられます。旦那さまも嬉しいでしょう?」

「小春」

「私は間違っていません! 確かに妖怪になれるのです!」

 そう叫ぶと少女は男の手を振り払い、山を駆け下りていく。ハアハアと息を乱しながら掘っ立て小屋のような家に帰ると、水瓶から柄杓で水を掬う。そして懐から取り出した白い粉薬を口に含み、柄杓から直接飲んだ水で流し込んだ。

「これで、私も妖怪になれるんです。旦那さまとずっと一緒に……」

 ぽつりぽつりと外では雨が降り出している。少女はふらふらと雨の中外へと歩き出した。濡れた髪が頬に張り付くのも、大事にしていた杜若の着物が汚れるのも厭わない。愛する男の困惑した表情ばかりが脳内を占めた。

――だってそんな。今更嘘だったなんて、あんなことまでしたのに。

 一気に蘇る嫌悪感。大旦那の油まみれの手の感触と粗い息遣いを思い出し少女は思わず路地裏で嘔吐した。一晩だけでも愛する男以外の男性に抱かれた。その事が少女の心を罪悪感で締め付ける。雨に流れる嘔吐物を見つめ袖で口元を拭った少女は、またふらりと村を彷徨い始める。

 そして見覚えのある橋へと少女は辿りついた。面影橋と細語橋だ。少女が迷うことなく細語橋の方へと進もうとした時、面影橋から聞きたくもなかった声が耳に入ってきた。

「あの娘も愚かなことだ。妖怪になる薬など存在する訳がないだろうに」

「大旦那さまも悪い人ですねえ。ではあの娘になにをお渡しに?」

「ただの風邪薬だ。今頃飲んで妖怪になれると浮かれていることだろう。哀れな娘だ」

 黒い番傘を差した大旦那と細身のご機嫌取りが面影橋を渡っている。少女は自分の耳を疑った。

――妖怪になる薬が存在しない? ただの風邪薬? じゃあ私はなんのために!

「騙したわね!」

 少女は湧き出る怒りから後先考えず大旦那に掴みかかる。大旦那はふらりとよろけ轟音を立てる渡良瀬川へと番傘を落とした。

「なにをする!」

「それはこっちの台詞よ! 妖怪になれる薬だなんて騙してあんなこと!」

「はっ、騙されるほうが悪いとは思わんか? 人間が妖怪になるなど非現実的なことを夢見るからだ。厳しい現実が学べたことを感謝しろよ。なんならもう一晩お前を買ってやってもいいぞ。妖怪になる薬と引き換えにな!」

 ゲラゲラと下衆な笑みを浮かべる男たちは、俯き黙り込んだ少女をつまらなそうに眺めた。

「なんだ。さっきの威勢はもう終わりか。それならさっさと退け。通行の邪魔だ」

 ドンと少女の肩を押した大旦那。押した拍子に濡れた足元で滑った少女は橋から投げ出された。ボチャンと盛大な音を立て水面下へと沈む少女を男たちは助けもせず見下ろす。

「小娘が一人消えたところで誰も騒がん。ほっとけ」

 大旦那はまるで落とした番傘よりも価値はないとでもいうように、少女を見捨て橋の上を去って行く。少女は何度か水面へともがくように手を伸ばすが、雨のせいで濁流と化した川から抜け出すことはできなかった。

――これは罰だ。愚かな私への罪。

 少女はやがて諦めたように笑い肺の中の空気を吐き出す。ずっと一緒にいると口では言っても、実現することは出来なかった。口先ばかりで嫌になる。

 もしも生まれ変わるなら、妖怪としてずっと生きるあなたと一緒にいれる人になりたい。

 少女の小さな願いは濁流に飲まれ、一瞬の輝きも見せずに朽ち果てた。

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