濃霧の中で
またあの朝だ。白露は早すぎる起床に目を擦りながら障子を開け、真下の通りを眺めた。通りは濃い霧で覆われ、一寸先も見えない状況だった。
白露は隣で鶺鴒が寝ているのを確認し、ふらりと立ち上がり宿を出た。
なぜかあの橋に行かなければと思ったのだ。濃霧の中、白露は数歩先に二本の橋を確認する。迷わず黒塗りの橋に足を踏み入れようとした時、面影橋と細語橋の間に、妙な石が転がっているのをみつけた。
その石は普通の石とはまったく見た目が変わらないのに、白露の心を強烈に引き付ける。石にこびりついた血に気づかぬまま、白露は手を伸ばした。
「その石に触れてはいけませんよ」
白魚のように白く冷たい指が、白露の手を止めた。白露は触れられた指を辿り、少女の姿を確認する。
「また来てしまったのですね」
と少女は困ったように笑った。
「それは殺生石といって、触れた生き物の命を奪う恐ろしい石です」
少女はひょいっと拳ほどの殺生石を掴むと、渡良瀬川の水面へと投げ入れた。
「誰なの?」
「それはこっちの台詞ですよ」
生き物の命を奪う殺生石に触れても問題のない彼女は、やはり妖怪なのかもしれない。確信めいた答えに、白露は肯定の意が欲しくてもう一度尋ねた。
「……この世のものではない。というのが正しいでしょうか」
二回目の質問にはすんなりと答えた少女は、自分の質問にも答えて貰おうと「あなたは?」と促した。
「退治屋の付き添いみたいな」
大旦那に会ったとき鶺鴒は自分のことを弟子といってくれたが、まだ何も教わっていない身としては弟子と名乗るのは気が引けた。
「退治屋の……それじゃあ色々な世界を旅して回っているのですね」
少女は羨ましそうに胸の前で手を合わせ俯いた。高く結い上げられた髪が少女の頬を掠める。
「つい三ヶ月前に旅をし始めたばっかりだけどな」
「……私も、外の世界を見てみたいです」
「村から出ればいいんじゃない?」
外の世界をみたいなら、村から一歩踏み出せばすむことだと、不思議そうに首をかしげる白露に少女は悲しげに首を振った。
「待っている人がいるんです」
「待ってる人?」
「その人が来るまで私はここから出ることはできない」
少女がふと細語橋の親柱に触れた。その横顔があまりにも綺麗で、白露は一瞬呼吸が止まった気さえした。慌てて少女から目を逸らし、白露はそっと息を吐き出す。
「……待ってる人は大事な人なの?」
ちらりと少女へ視線を向け、また顔を逸らした白露はおずおずと少女のことについて尋ねた。少女は苦笑し、一回静かに頷くに留まった。
そして白露へと近づき、昨日と同じようにその澄んだ瞳を掌で隠す。
「もうここにきてはダメですよ。さあ、おやすみなさい」
ここで眠ってしまってはダメだと頭の中で警鐘が鳴り響くが、白露は本能に逆らえず意識を手放す。崩れ落ちた白露の体を抱きとめた少女は、額の髪を払い、寂しげに白露の顔を眺め続けた。




