言霊
起きれば、まるで何事もなかったかのように、世界は同じ朝を迎えていた。燦々と降り注ぐ朝日が障子の隙間から洩れ、白露の寝顔を照らす。
体が揺すられる感覚に、白露の意識は浮上した。
「起きろ。俺は出かけるからな」
足で白露の体を左右に転がしていた鶺鴒が、やっと目覚めた白露に溜息をつき、刀を手に取った。そして笠を深く被り、宣言通り部屋を出ていく。
鶺鴒の後姿をぼーっと寝起きの眼で見送った白露は、大きな欠伸を一つ溢し立ち上がった。
「お風呂入ろう」
老舗の宿なだけあって風呂は広くて小綺麗だった。誰もいない浴室を独りで堪能した白露は、逆上せないよう早々に風呂を後にする。
帰ってくれば部屋からは布団がなくなり、一人分の膳がぽつんと置かれていた。
おかしな宿だと、料理に手をつけながら白露は考える。この宿に入ってから、誰一人として他の客や従業員の姿を見ていない。
それなのに白露の動きを察したように、布団が敷かれ膳が用意されている。
二階から見下ろす村の通りは、昨晩のように人が溢れかえってはいなかった。まるで村の人全員が一晩にして姿を眩ませたような錯覚に陥る。鶺鴒の残していった刀を眺めながら、白露は箸を置いた。せっかくだから村を探検してみるのもいいかもしれない。
立ち上がり着流しを直した白露は、誰も姿をみせない村の通りへと踏み出した。
結局なんの収穫もなく、白露はすごすごと宿に帰ってきた。夜とは違い店の戸が全て閉じられており、人の姿もない。一通り散策してみたが、これといって目につくものは何もなかった。そろそろ昼餉の時間だと、白露は椿の間の襖を開ける。そこにはいつの間に帰って来たのか鶺鴒の姿があった。
「帰って来たか」
鶺鴒は白露の姿を見るなり立ち上がり刀を腰に差す。
「ついてこい」
「ついてこいってどこに――」
「強くなりたいんだろう?」
今まで教えようとしてくれなかったのに、どんな風の吹き回しだと白露は片眉を上げる。
そんな白露を気にも留めず、鶺鴒はずかずかと行ってしまった。
部屋にはきちんと昼餉が用意されているが、食べられることはないだろう。
白露は物欲しそうに膳を一瞥した後、唾を飲み込み鶺鴒の後を渋々追った。
鶺鴒が白露を連れてきたのは、鹿島村のすぐそばにある山林だった。鬱蒼と茂った木々の間に、ぽつりと存在する空き地で足を止めた鶺鴒は、刀を一振り白露に投げ渡す。見覚えのある黒塗りの鞘は、件が死んだ夜、自分を殺してみろと鶺鴒が渡した刀だった。
「その刀から赤い炎を出せたら、強くなる方法を教えてやる」
そう言ってどかりと木の根に腰を降ろした鶺鴒は、顎で白露に刀を抜くように促した。
確か鶺鴒が刀を抜いたと同時に紅蓮の炎が刀身から溢れだしていたはずだ。ただ抜けばいいだけと斜に構えていた白露は、自分の甘さを見直すことになる。
「あれ?」
スラリと抜いた刀身に火が灯ることはなく、無機質に白露の顔を映し出した。鞘に納め、もう一度抜いてみるも結果は変わらない。見兼ねた鶺鴒が刀を奪った。
「弐ノ刀。退魔刀」
鶺鴒の言葉に呼応したように、鞘から抜いた刀身に炎が渦巻く。ブンッと空を切った刀は火の粉をまき散らし白露の頬を熱く照らす。
鞘に戻し、また白露へと手渡した鶺鴒は頬杖をつくと「言霊を知っているか」と白露に問い掛けた。白露は首を振りぎゅっと刀を抱える。
「言葉には霊的な力が宿る。元来この日本国は、言霊の幸ふ国と言われてきた。どんなことでも言葉に出せば力を持つ。その意味が分かるか?」
「……良い事も悪い事も、言葉にすれば現実になるってこと?」
「そうだ。だから言葉は慎重に選ばなくてはいけない」
「でも日常的な会話で言霊を気にしていたら、話したいことも話せなくなるよ」
「試しに俺が言った言葉を復唱して刀を抜いてみろ」
鶺鴒にはなにか考えがあるのか、白露の質問には答えず「弐ノ刀。退魔刀」と間髪入れずに言い放った。白露は仕方なしに同じように「弐ノ刀。退魔刀」と言葉にする。
そして抜き放った刀身には炎が宿ることはなかった。
首を傾げる白露に、鶺鴒が分かりきった様子で「ほらな」と首をかいた。
「力は確かに言葉に宿るが、それは想いがあるから宿るんだ」
「想い?」
「そうだ。誰かを守りたい。誰かを救いたい。誰かを殺したい。誰かを呪いたい。そんな強烈な気持ちがあって、初めて言霊は完成する」
――今の僕には守りたいものがない。
足りないのは気持ちだと言われ白露は心の片隅で納得していた。守りたいと思っていたものは、手の隙間から零れ落ちてしまった。
「その刀に炎を灯せるようになれ」
鶺鴒はそれだけ言うと白露から刀を受け取らず、宿へと帰ってしまった。
白露は何度も同じ言葉を唱え、刀を抜いたが、結局その日刀が赤く彩ることはなかった。
刀を抜くということは相当の体力を使うらしい。部屋に戻ってくるなりぱたりと布団の上に倒れこんだ白露は誘われるように夢へと落ちた。




