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ワタリドリ  作者: 梔子依織
第三章
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面影橋

 渡良瀬川には二本の橋が架かっている。正面に見て右側の朱塗りの橋が細語橋。左側の黒塗りの橋が面影橋と呼ばれている。

 鶺鴒は二つの橋を遠くから眺め「なるほど」と呟いた。

「白露、橋にはどんな意味があるか分かるか?」

「どんな意味って、向こう岸とこっちを結ぶためのものじゃないのか?」

「半分正解で半分不正解だ」

 鶺鴒は細語橋のほうへと近づき、朱塗りの親柱へと触れた。

「橋というものは確かに対岸とこちらを繋ぐ役目もあるが、橋自体が空間ともなっている」

 地面と橋板の境を踏みながら、鶺鴒は暗闇に沈む橋を眺めた。

「橋の内側は神域となり、異界の者……例えば妖怪や神が住む場所となる」

「妖怪や神様が住む場所……。じゃあこの橋にも?」

「普通ならな」

 鶺鴒には確信があるのか、くるりと橋に背を向けた。てっきり橋を渡り幽霊の調査でもするのかと思っていた白露は首を傾げる。

 そんな白露に鶺鴒は呆れたように「もう丑三つ時になる」と告げた。

「この時間は妖魔が活発になる。人間が踏み入ってはいけない時間だ」

 いつの間にそんな時間になったのだろう。人々が村に溢れかえっていたから時間感覚が麻痺していたのかもしれない。鶺鴒は橋から少し離れた老舗宿の暖簾を潜った。

 夜中だというのに煌々と明かりの灯った宿には誰もいない。鶺鴒は迷わず受付の机へと向かい、置いてあった木札を手に取った。

「勝手にいいのかよ」

「ここではこれが当たり前なんだ」

 木札には椿の間と墨で書かれていた。椿の間に行くと敷布団が二つ、まるで二人の訪問を分かっていたように敷かれていた。

 あまりの偶然に白露は薄気味の悪さを覚える。鶺鴒は二振りの刀と笠を置くと「風呂に行ってくる」と早々に出て行ってしまった。

 白露はどっと押し寄せてきた疲れに肩を落とす。鶺鴒と旅をして、鶺鴒について分かったことは少ない。退治屋としてかなり腕が立つことしか白露には分からなかった。

 ふんわりと太陽の香りがする布団に倒れ込み白露は目を瞑る。体が鉛のように重い。風呂は明日でもいいかと、白露は着替えることもせず眠りについた。



 まだ日が昇ってから数時間しか経っていないというのに、白露は目を覚ましてしまった。

 明け方特有の薄ぼんやりとした光の中、白露は眼を擦る。

 隣で眠る鶺鴒を起こさないように、そっと窓の障子を開ければ、霧の中に沈む村の景色が現れた。向かいの店が見えない程の濃霧だ。白露は未だかつてこんなに濃い霧を見た事がなかった。うずうずとうずく好奇心が止められない。白露は振り向き、鶺鴒が熟睡しているのを確認すると忍び足で椿の間を後にした。


 肺の中が重い空気で満たされる。呼吸すら浅くなる霧の幕を潜りながら、当てもなく白露は歩を進める。

 いつの間にか目の前には二つの橋があり、ふらふらとした足取りで白露は黒塗りの橋の上を渡り始めた。橋は昨日見た時よりも長さがあるように感じる。いくら進んでも対岸に行きつかない。

 白露はハッと我に返り足を止めた。霧の中を散歩してみようとは思ったが、橋に来るつもりはなかった。幽霊が出ると噂の橋に一人で来たことを、後悔し始めた白露は踵を返す。

 振り返った視界の隅に、黒い影がぼんやりと映った。

「えっ」

 霧の中ゆらゆらと揺れる黒い影は、徐々に形を帯びていく。それはまるで白露の心を読み取ったかのように女の姿へと変貌した。

「かあ、さま」

 長く艶やかな黒髪が風に揺れ、陶磁器のような肌を撫でる。妖艶な微笑みを白露へと向けた女。その姿は生前の(くだん)のままだ。

 もしかしたら、死んだなんて嘘だったのかもしれない。全て幻。一時の悪夢。現実では悪夢で苦しむ白露の頭を、優しく撫でて起きるのを待っていてくれているのではないだろうか。

 そう考えてしまう。

 夢であったらと何度思ったことか。

 白露は女の影に一歩踏み出した。その腕で抱きしめて欲しい。怖い夢は良いことの兆しだと慰めて欲しい。もう一歩、もう一歩と近づく。手を伸ばせば触れ合える距離に女がいた。

 女の手が白露へと伸ばされる。

「それは面影に過ぎないですよ」

 霧を払拭するように、強風が女の影を攫った。開けた視界にもう件の姿はない。のろのろと横へと顔を向けた白露に、笠木の上に立った少女が困ったように眉を下げた。

「こんな朝早くに出歩いては危険です」

 少女は白地に杜若の描かれた着物に、鈴のついた扇を持っていた。高く結い上げられた黒髪が風に靡き左右に揺れている。ひょいっと笠木から橋の上へと降り立った少女は草履を気にし、何度か感触を確かめた。そしてパチンと扇を閉じ、懐にしまう。

「人間の子供が、こんなところになんの用ですか?」

 人間と白露を呼ぶ辺り、少女は人間じゃないのだろう。白露は「別に」と顔を背け、消えてしまった件の姿を探した。もう濃い霧すら残ってはいない。カラッと晴れた朝の空気が、白露には居心地が悪かった。

「あれは面影にすぎません。会いたい人ではありませんよ」

 少女は冷酷に白露の望みを打ち砕いた。心の隅で理解していた事実を突き付けられ、白露は俯いた。そんな白露に少女は「面影橋とは」と遠くを見つめながら言った。

「明け方、霧に紛れてその人の一番会いたい人の面影をみせ、あの世に連れて行く恐ろしい橋です」

 一番会いたい人の面影。もう二度と会えない人だからこそ、その影はより鮮明になってしまった。可哀そうにと少女は白露の背を優しく撫でた。白露はその手に縋りつくように肩を震わせる。何度か往復したその手は、やがて白露の頬に滑るように這わされた。

「今のこそ悪い夢です。部屋に帰りもう一度お眠りなさい」

 まるで催眠をかけるように少女は白露の目を掌で優しく覆った。焦がれていた温もりに、白露は少女の手に自分の手を重ねる。掌越しに少女が微笑んだのが分かった。

「おやすみなさい。よい夢を」

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