稚児喰みの井戸
娘は小袖の裾を翻し、高津賀の森を駆け抜けた。
逢魔が時。この世とあの世が入り乱れる紫雲の空は、禍々しくもあり神々しくもある。
妖怪の住処と噂される高津賀の森に、無謀にもやって来た娘は、赤子を腕に抱いていた。
赤子はほんの数日前に産まれたばかりだ。娘は震える肺で一生懸命息を吐き出し、高津賀の森の最奥部、稚児喰みの井戸へと辿り着いた。
稚児喰みの井戸はその名の通り、何人もの赤子を喰らい尽くしてきた。
娘は赤子を落とさないように、抱える腕に力を込めながら井戸を覗き込む。
井戸はすっかり枯れ果て、底には折り重なるように乳白色の人骨が転がっていた。
二、三歩後ずさった娘は、力の抜けた足でへなりと座り込む。
今から胸に抱いている赤子を、この井戸に捨てなければいけないと思うと、娘は気が狂いそうだった。
我が子は無邪気に笑っている。
赤く色づいた頬を膨らまし、目尻を下げて笑う赤子は、産まれたばかりにも関わらず、娘の面影が色濃く残っていた。娘はそっと我が子の頬を撫で、額に口づけを落とす。
「ごめんなさい。どうか許して」
今から自分のやる事は人道を外れた鬼の所業。それでも許して欲しいと、懺悔するのは人の心を捨てたくないからなのか。
娘は震える足で立ち上がり、よたよたと歩を進めた。
赤子を井戸の上に掲げ、目を瞑る。一瞬で終わる。井戸に落として振り返らずにここを去るだけでいい。娘は意を決し赤子を井戸に落とそうとした。
「そこから落としたら死ぬぞ」
偶然か必然か。その声は娘の心を正気へと戻した。
娘はハッと息を飲みこみ、急いで伸ばしていた腕を引き戻す。腕の中に戻った赤子は不思議そうに娘を見上げ、そんな赤子の顔を見て娘は表情を歪めた。
「誰なの」
渇いた喉から出た声は、しわがれた老婆の様だった。娘はきょろきょろと周囲を見渡し、声の主を探す。そして一本の大木へと視線を止めた。
稚児喰みの井戸から数歩離れた山桜。どっしりと地面に根を張り、天に枝を伸ばした木は何千年もの時を独りで過ごしてきた風格があった。
薄紅の花びらを空に溶かしながら、山桜は揺れる。
その山桜の一番低い枝の上に一人の女が座っていた。粉雪のような白く滑らかな肌に、濡羽色の髪がよく似合う女だ。
女は友禅模様の小袖に、黒塗りの、高さが六寸もある下駄を履いていた。髪は結ばれることなく腰で波打っている。人間離れした美しさに娘は瞠目した。
頭首の一人娘である娘は蝶よ花よと育てられ華美な着物を着せられてきたが、そんな自分がみすぼらしく感じるほど女の小袖は上質で、女の魅力を引き立てていた。
女は娘を見下ろし、ぷらぷらと足を揺らす。
「その赤子、殺してしまうのか?」
「……あなたには関係ないでしょ」
娘は当初の目的を思い出し、ぐっと唇を噛みしめた。井戸に投げ捨てれば赤子が死ぬことは娘も理解していた。しかし、殺さなければいけない理由が娘にはあるのだ。
女は首を傾げるとふわりと地面に降り立った。
羽が落ちるような身軽さで娘の隣に立った女は、赤子を覗き込んだ。赤子は突然現れた女に怯えることなく、きゃらきゃらと笑う。
「肝の据わった赤子じゃ」
女は満足そうに微笑むと、ひょいっと赤子を娘から取り上げてしまった。
「なにをするの!」
娘は神経質な声を上げ女に掴みかかろうとするが、女はたんっと地面を蹴ると頭上よりもはるか上の枝に飛び乗った。そして赤子を腕に抱き娘を見下ろす。
娘は人間とは思えない身のこなしに思わず「化け物」と呟いた。
「化け物とは酷い言い草だな。自らの手で我が子を殺そうとするお前のほうがよっぽど化け物じみていると思うがな」
「仕方ないでしょ。その子を殺さなければ私が殺されてしまう……」
娘はとうとう顔を手で覆い涙を零した。
全ては忌まわしき村の風習。犯すことの出来ない掟。
女は娘の涙をみて暫く考え込み、そしてくつりと笑みを溢した。
「取引だ、娘」
「取引?」
「もし我が子を救いたいと思う心が残っているのなら、私と取引をしないか?」
女は一人納得したように何度も頷き、そして帯に差していた簪を手に取った。
山桜と同じ色をした蓮の簪だ。薄紅の花弁は中央に行く程濃く色づき、外に向かうほど透明に近い色になっていく。小袖と同じように高級品に違いない。
女は躊躇うことなく簪を真っ二つに折ってしまった。中央から綺麗に割れた花は一枚も花弁を落とすことなく、女の両手に収まった。
女は片方を娘へと投げて渡す。
娘は慌てて降ってきた簪を手に取った。手に取ったら分かる。これは決して人に譲ってはいけない、ましてや壊すなんて罰当たりだと思わせる品物だと。
神がその手で作ったような精緻さに息を飲む娘に女は「息を吹きかけろ」と促した。
言われるがまま娘は細い息を吐く。
簪は息を吹きかけると同時に花弁を散らしてしまった。
「あっ」
あまりの儚さに、惜しむように言葉を溢した娘に女は微笑む。木の棒だけが残った簪には小さな新緑が芽吹いていた。
「その芽は約束が果たされた時に大輪の花を咲かせるだろう」
女も同じように片割れの簪に息を吹きかけ花弁を散らす。
「我が子を救いたいと思うか?」
女の問いに娘は躊躇うことなく頷いた。そして女の腕に抱かれた赤子をみて寂しげな笑みをみせる。
「救えるものなら救いたいわ」
そう言った瞬間山桜がざわめきだし、枝につけていた薄紅を一斉に散らす。大量の花びらが宙を舞ったことで息が出来なくなった娘は、自身を庇うように顔を覆う。
「お前の願い叶えてやろう。その代わり、お前のその髪を頂くぞ」
耳元でザクリと髪が切られる音が鳴る。娘は慌てて自身の髪を触るが腰ほどまであった髪は肩でばっさりと切られてしまっていた。
娘は目を細めながら桜吹雪の中、必死に女の姿を探す。しかし視界は薄紅ばかりで女を映すことはなかった。
「約束だ。赤子が立派な人間になってお前の元に帰るまで私が育てよう」
「……本当なのね」
「ああ、件の名にかけて誓おう」
件と聞いて、娘は父の書斎に置いてあった絵巻を思い出した。各地の妖怪について描かれた絵巻に牛の体に人間の顔を持つ妖怪が描かれていた。その薄気味悪い姿の横には達筆な文字で件と書かれていたはずだ。
娘は絵巻でみた姿と女があまりにも違うので驚いたが、その反面、人間には思えない風貌や立ち振る舞いに納得していた。
「時が来て約束が果たされた時、大輪の花を咲かせた蓮は幸せを運んでくれる」
女の言葉に娘は深く頷き目を閉じた。我が子を井戸に落とし殺すくらいなら、得体のしれない化け物の言葉を信じたい。
娘は身の内に湧き出た希望に縋りつくように、胸の前で手を組み女に告げた。
「どうか、どうかお願いします。その子を愛してあげてください」
「……ああ、約束しよう。赤子の名はなんという」
「その子の名は……」
娘は暫し口を噤み、赤子が産まれてから一度も見せなかった幸せそうな笑みを顔に浮かべた。
「その子の名前はハクロ。白い露と書いて白露です」
「白露か、よい名だ」
それを機に段々と視界の花びらが薄れ闇夜が舞い戻る。まるで今までのことなどなかったように山桜には花弁が咲き誇っていた。女の姿はどこにもない。
娘は一瞬夢かと思い腕の中を確認する。そこには赤子はおらず、手に割れた簪を握っているだけだった。
「いったいなにを考えているんだ、件の嬢」
「別になにも考えてはいないさ」
娘の去った山桜の木の枝には女と一匹のイタチが腰をかけていた。イタチは憤慨したように金色の毛を逆立て女に詰め寄っている。
「それならさっさと捨てちまいな。人間の赤子なんて面倒なだけだ」
イタチには女の考えが理解できなかった。妖怪であるイタチと女にとって人間など取るに足らない存在だ。勿論狩り狩られる存在として敵対してはいるが、妖術を扱う妖怪と能力を持たない人間。どちらが上かなど考えなくても分かるだろう。
そんな格下な人間を態々救い育ててやろうなんて、気が違ったとしか思えない。
憤慨するイタチの鼻先に女は赤子を押し付けた。赤子はイタチの髭を引っ張ったり耳を無遠慮に触ってくる。
「痛い! やめろ、引っ張るな! ああもう件の嬢、はやくソイツをどこかにやれ!」
「ははは、鎌鼬なるものが赤子にこの様か」
「なんだと!」
「のう、鎌鼬。私は興味があるだけだ。人間とはどのようなもので、どんなふうに考え、どう感じ、生きるのか」
「……それなら別に赤子を育てなくてもいいだろう」
イタチはなんとか赤子の手からするりと逃れ、抜かれそうになった髭を前足で摩る。そんなイタチを女は笑いながらぐりぐりと撫でた。
「ただの暇つぶしだ。長年生きていると退屈で仕方がない」
「さすが、大妖怪件の言うことは違うな」
皮肉気に言葉を返したイタチは女の腕の中に戻った赤子に自ら近づいた。赤子はイタチが側に来てくれたのが嬉しいのか手を叩き、顔を綻ばせる。
イタチは赤子の愛らしさにそっぽを向きながら鼻を鳴らした。
「母親と離れ離れになったというのに泣きもしないなんて薄気味悪い人間だ」
「そうか? 私は愛らしいと思ったがな」
イタチの心を見透かしたように赤子を撫でる女に、イタチは仕方がないと赤子にさらに近づき肉球でぽふりと頬に触れた。
やはり人間だ。温かく、柔らかく、そして愛らしい。
イタチは口では人間を批判するが、本心は真逆なことを女は知っていた。天邪鬼なイタチには困ったものだと、女は苦笑し赤子とイタチを優しく見守る。
イタチは暫く赤子の頬を堪能すると「仕方がない」と何度も呟き女に視線を向けた。
「人間なんて面倒なもの件の嬢一人じゃ大変だろう。仕方がないから俺も手伝ってやる」
イタチは仁王立ちになり腕を組む。身の丈が女の膝程もないイタチに赤子の世話が出来るかと聞かれたらなんとも答え難いが、女は邪険にすることなく頷いた。
「ああ、よろしくな親友」
「困っている友人のためであって、決して人間の子供に興味があるってわけじゃないからな」
女が肯定してくれたことが嬉しいのか、イタチはぱっと笑顔になり歓喜から髭を震わせた。そして「よかったな坊主」と鼻先で赤子の頬をつつく。
女は懐に閉まった簪と娘の髪束を服の上から撫で、山桜から見える遠くの景色へと思いを馳せる。
人間の子供を育てるのは妖怪の気まぐれだ。その気まぐれがどう転ぶかは占術が得意な件にも分からなかった。
誤字脱字、設定の矛盾等ありましたらお知らせください。
よろしくお願いします。